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2007年9月11日 (火)

藤原京の時代と皇統

朱鳥元(686)年9月に天武天皇が没した。
有力な皇位継承者候補として、鸕(ウ)野皇后(持統)を母とする草壁皇子と、鸕野皇后の実姉大田皇女を母とする大津皇子がいた。
草壁は、既に天武8(679)年の「吉野の盟約」によって事実上の天武の後継者の位置に立ち、天武10(681)年2月には立太子していたのだから、皇位継承候補の第一であったことは間違いないだろう。

しかし、草壁が、病弱で文武も凡庸だったのに比べ、大津は文武両道に秀でていて、人気が高く、しかも草壁立太子の2年後の天武12(683)年には、朝政を委ねられる立場になっていた。
これが天武の意向であったことは間違いないから、見方によっては、草壁への皇位継承は白紙に戻ったとも考えられる。
草壁を皇位に就けたい鸕野皇后は、天武が没すると、電光石火ともいうべき早業で大津に謀反の嫌疑を被せ、死に至らしめる。
この事件は、鸕野の謀略の疑いが濃く(8月31日の項)、それに藤原不比等が深く係わっていたらしい(9月1日の項)。

天武の殯は2年2ヵ月の長きにわたったが、持統2(688)年11月に終わり、皇太子草壁の即位儀式を待つばかりになった。
しかし、その草壁が、即位しないうちに、半年後の持統3(689)年4月に28歳で急逝してしまう。
草壁と妃の阿陪(閉)皇女(鸕野の異母妹)との間には、軽皇子が生まれていたが、まだ7歳であった。この時点では、天武の皇子たちの方が、皇位継承順位上優位な立場にあったとも考えられる。

鸕野は、自分の孫である軽皇子の成長をまって皇位を継承させようと考え、そのために自分が中継ぎをしようとしたのではないか、と一般に考えられている。
持統4(690)年正月、即位儀式が行われ、正式に天皇となった。
天武天皇の一番年長の皇子は高市皇子である。母が胸肩君という地方豪族だったので、当時の皇位継承序列では低かったが、壬申の乱の時には、全軍の指揮を任され、大きな役割を果たした。
そのため、持統も一目置かざるを得なかったものと思われ、天皇・皇太子以外では最高位の太政大臣に任命された。
ということを考えれば、高市皇子の存命中は、軽皇子の立太子は難しかったのかも知れない。

高市皇子は、持統10(696)年7月、43歳で亡くなったとされる。
しかし、『日本書紀 (5) (ワイド版岩波文庫 (234)) 』には、「庚戌に、後皇子尊薨せましぬ」という記述があるだけである。この「後皇子尊」を高市皇子であるとするのが通説であるが、「後皇子」にしても「尊」にしても、何ゆえにそういう書き方をしているのか、謎である。
高市皇子が亡くなると、持統は群臣を集めて皇太子の問題を論議させた。しかし、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかったらしい。
その時に、天智の皇子大友の忘れ形見の葛野王が、次のように主張したと『懐風藻』に書かれている。(高橋紘、所功『皇位継承 』文春新書(9810))。

我が国家の法たるや、神代より以来、子孫相承けて天位(皇位)を襲(ツ)げり。もし兄弟相及ぼさば則ち乱これより興らん。……然して人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。この外に誰か敢えて間然せんや。

つまり、日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとになる、というような意味である。
これは持統の意に添うものであるが、祖父の天智は、弟の大海人皇子ではなく、子供の大友皇子に皇位を継がせようとしていたこと、その大友皇子が壬申の乱で亡くなっていることなどを踏まえた発言かと思われるが、ここでも藤原不比等が入れ知恵をしたのではないか、とする説がある。
実際には古来から兄弟間での天皇位の相続は一般的であり、それについて弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したという。

Photo_3結果として、弓削皇子も持統天皇の意向を呑み、軽皇子を皇太子とすることが決定した。
それはともかく、不思議なことには、軽皇子立太子の記事が『日本書紀』にはないのである。
『続日本紀』に、持統11年立太子という記事があるので、高市皇子薨去によって、立太子できる状況になったのだろうと推測されているのだ。

孫の成長を待ち望んでいた持統天皇は、持統11(697)年8月、軽皇子に譲位し、文武天皇が誕生する。軽皇子は15歳であった。
持統の悲願は文武の即位によって達せられたかのように見え、持統は大宝3(703)年に死去する。しかし、期待された文武は、慶雲4(707)年に25歳の若さで没してしまった。
文武と不比等の娘の宮子の間には、首皇子が生まれていたが、まだ7歳だった。
そこで、文武の母の阿陪(閉)皇女が即位し、元明天皇となる。子から母へという異例の皇位継承であったが、持統に倣い、孫の首皇子への皇位継承を図ったものと考えられている。(系図:直木孝次郎『万葉集と古代史 (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館(0006))

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