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2007年9月 3日 (月)

理念と現実

勝谷さんは、現在の日本社会に氾濫する諸種の偽装は、本音(実体)と建前が乖離しているところに原因があるとしているが、石原慎太郎東京都知事が、今日の産経新聞に、『理念と現実』という一文を寄せている。
1回/月の「日本よ」という連載コラムである。
石原さんの小説は好きだが、その政治姿勢には賛同できないことがしばしばある。しかし、今日のコラムは、私の関心と重なるところが多かった。

石原さんは、文頭で、先頃亡くなった城山三郎さんが、「戦争に負けていろいろな抑圧から解放され、空がこんなに高く明るいものだと知らされた」とTV番組で述懐していたことを紹介する。
そして、石原さん自身、敗戦時に逗子に住んでいて、目の前の海岸が本土決戦に備える準備で、立ち入り禁止だったことが、遊び盛りの子供だった石原さんにとっては業苦だった思い出に触れている。城山さんと石原さんは、「敗戦による解放感」という体験を共有していたわけだ。
そして、戦争中の抑圧をもたらした日本社会は、天皇の神格絶対化を含めて、一種の狂気に囚われていたとしか思えない、という。

戦後の日本社会は、戦争中の抑圧への跳ね返りとして、個人の自由と権利主張を容認し続けてきた。
その結果が、石原流に言えば、「もはや成熟とはいいきれぬ社会の糜爛」である。
石原さんは、戦中も戦後も(現象は全く異なるが)、ある種の理念の追求がもたらした結果であるとする。
そして、その理念とあいまみえる、場合によっては対立する現実との相克があり、それは個人的現実と社会的現実の相克と似通っている。

人間は理念を持たなければ、人間として生きていることにならない。
しかし、人間社会は、結果的に理念離れした現実をつくり出してしまう。言い換えれば、理念と現実の相克は、人間の歴史そのものである。
例えば、原爆の父オッペンハイマーは、アメリカ人としての愛国心から原爆を開発するが、その余りの破壊力にショックを受け、水爆の開発については拒否した。
そのことにより、オッペンハイマーは、共産主義者ではないかと疑われ、いわゆる赤狩り旋風の中で孤立を余儀なくされるのだ。
愛国心と悲惨な結果、悲惨な結果に対する良心の反省とそれに対する社会的な圧力、オッペンハイマーを襲った相克は複合的だった。

理念と現実の相克は、個体としての人間だけでなく、歴史にも常に起きている。
ルーズベルトに日本への参戦を促されたスターリンは、日本に大軍を送るため、シベリア鉄道の輸送力を高めて準備した。
しかし、ルーズベルトの後継者トルーマンは、ソ連の参戦を回避するために、参戦前に原爆投下して日本を降伏させることを決意する(8月9日の項)。
かくして、広島と長崎に原爆が投下され、かつてない惨状がもたらされたが、それでも日本は降伏をためらっていた。
そのため、ソ連の参戦を許し、北方領土を失った(8月10日の項)。しかし、辛うじてソ連が本土に侵攻するのを防ぐことができ、日本は分断国家になることを免れた。

そのことと原爆投下による惨害をどう比較考量するのか。あるいはできるのか。
理念と現実との相克は不可避である。そして、最終的には現実に寄り添うしか生きる道はない。
確かに理念なくして人間的存在の意味はないが、理念を原理主義的に信奉することは危険である。優秀な(?)理系の学生を吸引したオウム真理教にしても、ライブドアやMファンドなどの市場主義者もその轍を踏んでいるのではなかろうか。
戦前・戦時中の皇国史観も同じことだろう。
理念は大事にしたいが、原理主義の危険性については、常に心しておくようにしたいと思う。
理念と現実のバランスを、どこでどうとるか、「人間学」というようなものを考えるとしたら、それが最重要のポイントではないだろうか。

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