多賀城炎上
有名な奈良東大寺の大仏は、天平15(743)年に聖武天皇が造立の詔を発して制作が始まった。
表面を飾る黄金が足りず苦慮していたところ、天平21(749)年、陸奥国で砂金が発見され、陸奥国司で百済王の子孫敬福が、900両(約34kg)を献上した。
天皇は大いに喜び、年号を「天平感宝」と改元したほどだった。
産金地は、現在の宮城県涌谷町・黄金山神社(国史跡)境内だったとされる。
天皇は、産金の慶事をただちに詔書で全国に伝え、越中守だった大伴家持は次の歌を詠んだ。
天皇(スメロギ)の御代栄えむと東なる陸奥山に金(クガネ)花咲く(万葉集・18-4097)
7世紀以降、左図に示すように、中央政府の蝦夷(エミシ)地域への進出が次第に拡大していったが、産金によって、律令国家の東北地方への勢力拡大が加速された。
各城柵の造営年は以下の通りである。
淳足柵:大化3(647)年
磐舟柵:大化4(648)年
多賀城:神亀元(724)年
雄勝・桃生城:天平宝字4(760)年
伊治城:神護景雲元(767)年
胆沢城:延暦21(802)年
志波城:延暦22(803)年
政府の進出地域が広がるに連れ、政府と蝦夷との間の軋轢も増大した。
上記の城柵の中で、歴史転回の舞台のなったのが伊治(コレハリ)城である。
宝亀11(780)年、陸奥国按察使(アゼチ)紀広純が、覚鱉城建設に際して伊治城を訪れた際に、伊治の有力者だった呰麻呂(アザマロ)が、紀広純を殺害するという衝撃的な事件が起きた。
按察使は、政府の陸奥国の最高責任者である。
それまでにも蝦夷の武装の抵抗はあたが散発的なものだった。呰麻呂の反乱は、蝦夷の反抗が統一戦線化していく契機を与える可能性があった。
『続日本紀』宝亀11(780)年3月22日条の記載を、石森愛彦絵・工藤雅樹監修『多賀城焼けた瓦の謎 』文藝春秋(0707)から引用する。
陸奥国上治郡の大領、外従五位下、伊治公呰麻呂反し、徒衆を率い、按察使、参議、従四位下、紀朝臣広純を伊治城に殺す。
(中略)
伊治呰麻呂是れ夷俘の種なり。初めは事に縁りて嫌うことあれども、呰麻呂怨を匿して陽(イツワ)りて媚び事(ツカ)う。広純甚だ信用して殊に意に介さず。また牡鹿郡の大領道嶋大楯、毎に呰麻呂と凌侮し、夷俘を以て遇す。呰麻呂は深くこれを銜(フク)む。時に広純建議して覚鱉(カクベツ)柵を造り、以て戌侯を遠ざく。因りて俘軍を率いて入る。大楯・呰麻呂並に従う。是に至りて呰麻呂自ら内応をなし、俘軍を唱誘して反す。先ず大楯を殺し、按察使を囲み、攻めて之を害す。独り介、大伴宿禰真綱を呼びて囲みの一角を開きて出し、護りて多賀城におくる。その城は久年国司の治所にて兵器、粮の蓄え勝て計うべからず。城下の百姓競い入りて城中を保たんと欲すれども、介真綱、掾石川浄足、潜に後門より出でて走る。百姓遂に拠る所なく、一時に散居す。後数日賊徒乃ち至り、争いて府庫の物を取り、重きを尽りて去る。その遺る所は放火して焼く。
つまり、元夷俘だった伊治呰麻呂が、俘軍を誘って按察使を囲んで殺し、多賀城に放火して焼き討ちしたのである。
時の天皇は光仁帝だった。称徳女帝のあとを受けて即位して10年後のことであるが、既に70歳を超えた老帝だった。
称徳女帝は、道鏡との関係で有名であるが、光仁帝は、即位の後、称徳時代の混乱の後始末に追われた。
乱れた律令制のタガを引き締めなおすことが大きな課題で、体制再建のためには、フロンティアとしての陸奥の存在が重要だった。
多賀城はその最重要の根拠地だったのだが、それが反乱軍に焼き討ちされてしまったのだ。
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