倭国のラストプリンセス?
かぐや姫は「倭国」のラストプリンセスだった、という説がある。
日本が昔「倭」と呼ばれていたことはよく知られているが、ここでいう「倭国」とは、古田武彦氏によって提唱された「九州王朝説」でいう「倭国」である。
古田武彦氏は、もともと親鸞の研究者だったが、昭和45(1969)年に、「史学雑誌」に『邪馬壹国』を発表し、「邪馬壹国説」をもって日本古代史分野に登場した。
「邪馬壹国説」とは、いわゆる「邪馬台国」の「台」の旧字の「臺」が、原文では「壹」になっており、この原文を改定すべきではない、とすることを出発点とするものである。
「壹」か「臺」かをめぐって「壹臺論争」が発生したが、古田氏は、関連論考をまとめて『「邪馬台国」はなかった/解読された倭人伝の謎』朝日新聞社(7112)という刺激的なタイトルの著書として刊行し、折からの古代史ブームも追い風となて、たちまちにして版を重ねることになった。
その後、『失われた九州王朝/天皇家以前の古代史』朝日新聞社(7308)、『盗まれた神話/記・紀の秘密』朝日新聞社(7502)、『邪馬台壹国の論理/古代に真実を求めて』朝日新聞社(7510)と続けざまに著作を刊行し、「古田史学」と呼ばれる独特の史観、通説とは全く相容れない一つのパラダイムを提示した。
「古田史学」の論点は多岐にわたるが、その根幹はおおよそ以下の通りである。
古代は、近畿天皇家に先行や並立する権力が存在した多元的な世界であった。その中で、およそ前2世紀から7世紀にかけて、九州北部に勢力の中心をもつ一つの王朝というべきものが存在した。
中国等の史書に登場する「倭国」は、この九州王朝のことである。九州王朝は、白村江の敗戦によって解体から滅亡への道をたどり、それに替って近畿王朝が「日本」として興隆し、日本列島を代表する王朝になった。
通説的な古代史の枠組みは、例えば坂本パラダイム(9月14日の項)のように、4世紀半ば頃には大和朝廷は一応の成立をみた、とするものである。つまり「倭」から「日本」へ「発展」するのであって、その間権力の中心は継続して大和に存在した。
一方、九州王朝説は、「倭」から「日本」へ、九州から大和へ権力の中心が「交代」するとするものであrから、通説とは全く相容れない異説である。
アマチュアには根強い支持者がいるものの、アカデミズムの世界では、現在に至るまで珍説・奇説の一種として黙殺に近い扱いを受けている。
しかし、草の根的な探究を続けるアマチュアによって、実り豊かな論証が多数生まれており、それらはスリリングな知的刺激に満ちている。
全く個人的な感想ではあるが、日本古代史のパラダイムは、遠からぬ将来、大きな変革をみることになるのではなかろうか。
それはともかく、古田史学を発展的に継承しようとしている室伏志畔さんは、かぐや姫は九州王朝・倭国のラストプリンセスだった、と説いている。
『白村江の戦いと大東亜戦争―比較・敗戦後論 』同時代社(0107)から引用する。
藤原氏は692年の持統天皇の伊勢行幸皮切りに伊勢神宮を創出し、天武の宗教政策を一手に引き受けていた多氏(物部氏)からその祭祀権をもぎとり、さらに天武も手に入れることができなかった九州王朝・倭国東朝の神器(正式には神宝)の簒奪に乗り出します。それは草壁皇子の即位は挫折(病没)したものの、その子・軽皇子(文武天皇)の即位がにわかに現実味を帯びてきたからで、それに箔をつけるためにも是非とも必要であったのです。
しかしどのような手管を弄して大和朝廷はこの神器を得たのでしょうか。それこそがかぐや姫の物語が生まれた所以といえましょう。おそらくかぐや姫の正式の求婚者は帝で、名は伏せられていますが、先の五人の時代から考えるとそれは後の文武天皇以外ではありえないのです。その婚約の盛儀を境に神器は大和朝廷に移ったのです。しかし不比等の娘・宮子がこれと前後して入内し、文武との間に首皇子(聖武天皇をもうけたことは、持統の崩御が重なったこともあって、成婚の儀は永久延期となり、それに変ってその婚儀を整えた取り巻き五人が、あろうことかかぐや姫に群がったというわけです。
つまり三種の神器だけを大和朝廷は掠めて、かぐや姫のお輿入れはなかったことになったのです。倭国の主神が月読命で、その王朝がすでに滅んでいたことを考えるとき、かぐや姫の月昇天とは自害を意味するといえましょう。
(中略)
神器を得た大和朝廷は、その獲得を701年に晴れやかに大宝と建元し、名実ともに日本国の盟主となったのです。
「かぐや姫=倭国のラストプリンセス説」は、「かぐや姫=藤原宮子説」とちょうど逆の視点ということになる。
もし、かぐや姫が、倭国から大和朝廷への権力の転換の狭間にいたプリンセスだったとすれば、古代史にとってきわめて重要な位置づけを占めるものといえよう。
しかし、現時点では、九州王朝説そのものが、オーソライズされているわけではない。九州王朝・倭国論をベースとする「かぐや姫=倭国のラストプリンセス説」もまた、論証が不十分ではあるが、大いに魅力的な仮説の一つと考えておくべきであろう。
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