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2007年9月 6日 (木)

偽装の原点?

9月2日の項の続き)
永躰典男『日本の偽装の原点は古代史にあり』ブイツーソリューション(0705)という本を読んだ。
「まえがき」に、今の日本の世の中に溢れている偽装は、『日本書紀』や『古事記』以来継続されているものだ、と書いてある。
偽装も古代史も、いま関心を持っているテーマだから、期待して読んだ。
帯には、「古代史偽装の発案者は藤原不比等であり」と書かれているが、本文を読んでみると、不比等に触れている部分はない。
「あとがき」に、「今回は」とか「次回は」と書いてあるので、その辺りは次回に触れるということだろう。

著者は、埼玉県行田市にある「さきたま資料館」で、「ワカタケル大王=雄略天皇(大王)」と書かれているのを読む。
そして、それがどうしても受け入れられなかったことをきっかけとして、日本古代史の文献を渉猟し、従来の定説に大きな疑問を抱くようになった、と書いている。
しかし、そもそもなぜワカタケル=雄略説に疑問を持ったのかの説明が不十分でよく分からない。
著者は、「ワカタケル大王=欽明天皇(大王)」とする石渡信一郎氏の説を正しいと評価しているのであるが、その論証過程が明快でないのだ。

中国の史書『宋書によれば、讃・珍・済・興・武と称される倭王がいて、中国の冊封体制に入ることを求めた。
西暦でいえば、421~478年にわたる。
最後の武の上表文には、「自分の祖先は苦労して周辺諸地域を征服したが、高句麗が中国への朝貢を妨げてきた。自分が中国に忠節を尽くせるように、自分が要求する官位を授与していただきたい」というような内容のことが立派な文体の漢文で記されている。
中国吉林省にある公開土王(好太王)碑文などにも、倭と高句麗の間の衝突の様子が記されていることなどから、当時、倭と高句麗が争っていたのは事実だと考えられる。

この武の上表は中国王朝に受け入れられるところとならず、倭は中国の冊封体制から離脱する。
讃から武までの倭の五王を、『日本書紀』や『古事記』に記載された系譜とどう関連づけるか、多くの議論が重ねられているが、五王のすべてをうまく比定することができない。
古代史における大きな謎の一つとされている。

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に、ワカタケル大王と読める部分がある。また、熊本県の江田船山古墳出土の太刀銘にも、ワカタケル大王と読める部分がある。
とすれば、ワカタケル大王は、東国から九州までをその勢威下に置いていたと理解される。
『日本書紀』では、雄略天皇の和風諡号を大泊瀬幼武としている。幼武は、ワカタケルと読めるから、ワカタケルは雄略のことと考えていいだろう。
また、『万葉集』の巻頭には、太泊瀬稚武天皇(オホハツセワカタケノスメラミコト)の「籠もよ御籠持ち……」の歌が置かれている。この天皇が何らかの画期を作りだした大王だったことを感じさせる。
つまり、ワカタケル=雄略は、治天下大王として中国の冊封体制から離脱した天皇(大王)だったのではないか。
とすれば、倭王武=雄略=ワカタケルとなる。これが現在の多数派説である。

著者の言うように、日本の古代史には、曖昧であったり不可解であったりすることが数多い。
それが『日本書紀』や『古事記』の記述に起因する、という指摘も納得できる。
しかし、日本古代史の理解の根幹に係わる問題であり、『記紀』の記述を「偽装」と論難するからには、緻密な論証が求められるはずだ。
残念ながら、この書だけでは十分に説得的とは言い難い。
また、全体として「ですます」と「である」体が混在していて気になるし、論理構成を辿り難い。
論理は文章で表現されるから、論理が明晰であるためには、文章が明晰でなければならない、ということだろう。

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