藤原宮大極殿跡の発掘
奈良県文化財研究所が、奈良県橿原市の藤原宮(694~710年)跡で、天皇の政治の場だった大極殿の南にある正門の遺構が見つかったと、発表したことが報じられている(7日各紙)。
藤原宮への遷都は、持統8(694)年に行われるが、既に天武天皇の時代から計画されていたと考えられている。
天武の病気や死によって造営が遅れ、持統の即位後に本格的に着手された。『日本書紀』の持統4(690)年10月条に、「壬申に、高市皇子藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり」とあり、12月条には、「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とある。
また、8年12月条に「藤原宮に遷り居します」とあって、このとき飛鳥から遷都されたことになる。
藤原京は、和銅3(710)年に平城京に遷都するまで、持統・文武・元明の三代の都だった。
国内初の都城制の都とされ、大極殿・朝堂は、大和の古道中ツ道と下ツ道の中央に位置している。
藤原京の中軸線をまっすぐに南下させると、天武・持統合葬陵につきあたる。いわゆる「聖なるライン」である。
今回見つかった正門跡は、国内の宮殿や寺社の門としては最大級だという。
門前の広場は、律令政治の重要な国家儀式が行われたとされている。
『続日本紀』の大宝元(701)年の条に、以下のような記載がある。
大宝元年春正月乙亥朔、天皇大極殿に御して朝を受く、其の儀、正門に於いて、烏形の幢を樹つ。左に日像青竜朱雀の幢、右に月像玄武白虎の幢、蕃夷の使者は左右に陳列す。文物の儀は是に於いて備れり。
大宝元年は、大宝律令のできた年であるから、「文物の儀は是に於いて備れり」はそのような状況をいっていると考えられる。
正門は、大極殿の南約55mにあり、役人が政務にあたった朝堂院につながっている。
基壇の規模などから、正門は東西約35m、南北約10mの平屋と推定されている。門の南北に東西幅約25mにわたる幅広い階段が付けられ、見栄えを良くしている。
北側の階段の最下段とみられる11個の石材が出土し、兵庫県の加古川流域で産出する竜山石が用いられていたことが分かった。
基礎になる地面は、基壇よりひと回り大きい範囲を1m以上掘り下げ、土を入れて突き固めながら埋め戻す工法で地盤を固めていた。
今回の発見により、正門がこれまで考えられていた規模より大きく、門というより殿堂のように立派な建物だったことがはっきりした。
当時の門が、通り抜けるだけでなく、大宝元年正月の賀に見られるように、儀式の場でもあった。
天皇が臣下に権威を誇示する効果も考え、大きく立派な建物を入れて作ったのではないかと思われる。
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