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2007年9月 7日 (金)

藤原不比等

8月29日の項の続き)
中将姫は、藤原豊成の娘である。藤原氏は、もとは中臣氏といって、神事をもって朝廷に仕えてきた家柄であった。
中臣氏が藤原氏になったのは、中臣鎌足が亡くなる前日に、天智天皇がその功績を称えて、藤原の氏を賜ったということになっている。
鎌足の長男は定恵といい、遣唐使と共に唐に渡って仏教を学んだが、帰国してすぐに亡くなった。唐に渡ったのが10歳、亡くなったのが23歳とされており、その実像は分からない部分が多い。

2_6 鎌足の次男が不比等である。定恵と不比等は16歳違いで、不比等は、定恵が亡くなったとき7歳、鎌足が亡くなったとき11歳だった。
また、壬申の乱が14歳のときで、大津皇子が謀反の嫌疑で死を賜ったときが28歳だった。
大津皇子処刑に不比等が係わっていたはすだ、という上山春平さんの推測を9月1日の項に記したが、文武天皇が即位するまでの不比等に関してはほとんど史料が残されていない。

文武天皇が即位した翌年、藤原氏を名乗ることができるのは、不比等とその一家だけに限られることになった。
例えば、大伴氏は軍事を担当し、中臣氏は神事を担当する、というように、氏(ウジ)にはその氏が担当する職務が決まっていた。
しかし、藤原氏は、天智から賜った新しい氏であるから、そういう伝統から自由であった。つまり、神事に係わる仕事は中臣氏の担当となり、伝統から自由でしかも名誉ある氏は不比等の一族が独占することになった。
鎌足が藤原氏を名乗ることができたのが、わずか1日であったことを考えれば、藤原氏は実際的には不比等から始まったといっていい。
『日本書紀』の編纂に不比等の意向が反映されているとされており、天智が鎌足に藤原の氏を賜ったという『日本書紀』に記載されている経緯も、不比等によって造作された可能性が高い、と考えられる。

文武元(697)年、持統天皇は孫の軽皇子に譲位して、太上天皇となり、軽皇子は文武天皇となった。
文武天皇が即位するとすぐ、不比等は娘の宮子を文武の夫人とした。文武は皇后や妃を置かなかったから、宮子が事実上の皇后だった。
宮子は、首皇子を生む。後の聖武天皇である。
さらに、不比等は後室橘三千代の娘の光明子を首皇子に嫁がせ、皇室との間の姻戚関係をより深いものとした。
文武天皇は、慶雲4(707)年に25歳で崩御するが、首皇子はまだ7歳だったので、母の阿閉皇女が元明天皇として即位した。

文武4(700)年3月、文武天皇は、刑部親王、藤原不比等らに命じて律令の編集に着手させ、翌大宝元(701)年、律6巻、令11巻の大宝律令が完成した。
不比等は、律令国家形成という時代の要請の中で、大宝律令に深く係わることによって権力を把握して行った。
また、『日本書紀』の全体にわたる編纂責任者であると考えられている。
『日本書紀』は、漢文で書かれており、中国や朝鮮半島などの外国を意識して、日本の独自性を主張するものであったとされる。
その独自性とは、神道を基盤とする天皇制(国体)であり、戦中まで継続された国家観は、不比等の発案になるもの、ということになる。
養老4(720)年、『日本書紀』が完成するのを見届けるかのように死去。淡海公を贈諡される。(系図参照)

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