« 大津皇子処刑の背景・・・①梅原猛説 | トップページ | 偽装国家 »

2007年9月 1日 (土)

大津皇子処刑の背景・・・②上山春平説

上山春平さんは、京都大学人文科学研究所長などを務めた哲学者であるが、戦中派の一人として、天皇制の問題に深い関心を寄せている。その関連で、日本の国家形成史に関する論考も数多い。
埋もれた巨像』岩波書店(7710)は、日本が国家として生成していく過程における藤原不比等の役割について論じた書であるが、その中に、大津皇子処刑に関する箇所がある。

大津皇子処刑は、余りにも段取りが良すぎるように思われる。その実像はどういうことだったのだろうか。
大津皇子処刑が謀殺だったとすれば、これほど迅速な処置を行うには、かなり慎重な準備が必要だったはずだ。
しかし、大津皇子は、天武の皇子たちのなかでもとくに人望があったので、大津排除の計画を安心してまかすことのできる協力者はおいそれとは見出せないだろう。

上山さんは、大津皇子の謀殺に関して、持統と不比等が協力関係にあったのではないか、持統は天智の娘であり、不比等は鎌足の息子だから、乙巳の変などにおける天智と鎌足の関係の再現ともいうべき親密さがあったのではあるまいか、と推測する。

不比等は、父の鎌足が、持統の父天智の寵臣であり、持統と不比等のあいだに親密な信頼関係の成立しやすい条件があった。
しかも、壬申の乱のときに、不比等の近親者たちは大友皇子の側であったから、不比等は、壬申の功臣たちや天武の皇子たちにたいして一種の違和感をもっていたのではないか。
持統の側からは、ほとんど裏切られるおそれのない協力者として位置づけられ、不比等の側からは、持統の秘密の協力者となることが、壬申の功臣たちをおしのけて政界の優位に立つ唯一の血路と見られたにちがいないだろう。

大津皇子の処刑された朱鳥元年の3年後の持統3(689)年2月に、不比等は判事に任命され、正史に初めて登場する。
そのとき一緒に判事に任命されたの中臣意美麻呂と巨勢多益須は、大津皇子の謀反に連座して逮捕されている。余りにも早い復権ではないか。
ひょっとしたら、意美麻呂たちは、不比等の意を体して、大津皇子に謀反をそそのかし、多少の言質をとらえたところで、謀反の事実を誰かに密告させる、といったワナを仕掛けたのではないか。

大津の謀反事件に連坐したものの中に、不比等と密接な関係にあったと想定される壱岐博徳もいる。
彼は、孝徳朝から天智朝にかけて、唐との外交の任務にたずさわり、斉明5年に遣唐使の随員として唐に派遣されたこと、天智3年に唐の使節、郭務悰の接待に当ったこと、天智6年に唐の使節、司馬法聡の送使に任命され、華々しく活躍したことが分かっている。
しかし、天武朝では全く忘れられた存在となっていた。

それが、大津皇子の事件に連坐した後に、カムバックして活動を開始し、文武4(700)年には、大宝律令の編纂メンバーの一人に挙げられている。
律令編纂の実質的なリーダーは不比等であり、不比等と博徳の関係を窺わせるものだ。
不比等は、天武朝のもとで不遇をかこっていた博徳を、意美麻呂らとともに、大津事件の仕掛役に使ったのではないか。
つまり、大津皇子謀殺に、藤原不比等が大きな役割を占めていたはずだ、というのが上山さんの推測である。

|

« 大津皇子処刑の背景・・・①梅原猛説 | トップページ | 偽装国家 »

日本古代史」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/395349/7682146

この記事へのトラックバック一覧です: 大津皇子処刑の背景・・・②上山春平説:

« 大津皇子処刑の背景・・・①梅原猛説 | トップページ | 偽装国家 »