紀広純
呰麻呂の反乱で殺された紀広純の肩書きは、按察使兼参議で、位階は従四位下であり、陸奥守も兼ねていた。
按察使は、大宝令以後に新設された特殊な官職で、地方行政の監督を本務とするものだった。
諸国按察使の中でも、陸奥国按察使は特別な存在で、陸奥・出羽両国にまたがる地域の最高官であり、軍事と政治を一手に握っていた。西の大宰府長官に匹敵する職だった。
広純が兼ねていた参議は、中央政府での立場である。
政策決定に関与するのは太政官であったが、大臣、納言、参議で構成され、十人ないし十数人であった。
参議で按察使だった広純は、当時の最高級エリートということになる。
紀氏は、古代からの名門といわれ、一族は広く西日本に広がっている。
祖先は武内宿禰とされているが、武内宿禰については、実在性に疑問が持たれている。
紀氏の本拠は紀伊国で、紀ノ川沿いに多くの古墳があるが、紀氏一族の栄華の跡とされている。
紀氏は、紀ノ川沿いに遡り、大和に入って中央政府に食い込んだ。
広純の曾祖父が紀臣大人で、臣の姓は地方豪族扱いである。
大人の子の麻呂が朝廷貴族に列せられ、朝臣の姓を賜り、大納言となっている。広純は麻呂の孫で、紀氏の中では最高位に位置していた。
紀大人の子供の一人である諸人の娘が天智天皇の皇子である志貴皇子の妃となり、白壁王(光仁帝)を生んだ。
そのため、光仁帝の時代には、紀氏の勢力が伸張し、藤原氏を脅かす可能性のある存在になっていた。
光仁帝が、藤原氏を牽制するために、紀氏の積極的な登用を図ったとみることもできよう。
広純は、そういう状況における紀氏の期待の星だった。
宝亀11(780)年2月1日、光仁帝は、太政官クラスの人事を発表し、広純が参議として入閣した。
陸奥按察使を兼ねていた広純は、胆沢平原の夷賊が言うことを聞かないので、覚鱉(カクベツ)の地に城を築くことが必要である旨の意見具申をした。
3月か4月になったら、3000人の部隊を出して賊地に入り、築城を強行したいので許可して欲しい。
勅許を得た広純は、宝亀11(780)年春3月中旬、胆沢平原を狙って出陣した。広純は、3000人の部隊を出動させるとしていたが、多賀城付近で1000人を集め、残りの2000人を伊治城の城兵で賄おうとしたらしい。
多賀城と伊治城の距離60kmを勘案すると、広純は17、8日頃伊治城に入城したと推測され、呰麻呂の反乱は、その5日ほど後に起きたことになる。
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