『竹取物語』の作者は誰か?
『竹取物語』の作者について、竹取物語(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) (0109)の「解説」は、「いつ、だれが書いたのか、わからない」としている。
古来、作者に関するさまざまな説が提唱されてきたが、関連資料等の分析の結果、最近では、9世紀末(平安時代初期)の成立であろう、とする説に落ち着いてきた。
作者の候補として名前が挙げられているのは、源順(三十六歌仙の一人)、源融(嵯峨天皇の皇子で臣籍に下った)、僧正遍昭(六歌仙の一人)、紀貫之(三十六歌仙の一人、『古今和歌集』の編纂者の一人)、紀長谷雄(漢学者で大学頭)などで、いずれも仏典・漢書・和歌などに造型が深いが、誰かに特定できるだけの根拠がない。梅澤恵美子さんは、『竹取物語と中将姫伝説 』の中で、紀貫之や紀長谷雄などの紀氏説を推している。
古代の歴代の重臣の名前が記されている『公卿補任』によれば、奈良時代末までに常に閣僚を出している氏族として、大伴氏、石川氏(蘇我氏の後継)、石上氏(物部氏)、藤原氏、阿倍氏、多治比氏、紀氏、巨勢氏の8氏がある。
紀氏は、紀ノ川流域に勢力を張っていた豪族で、早くから大和朝廷と結びつき、中央貴族として活躍していた。
奈良時代に入ると、藤原氏は、閣僚ポストを複数占めるようになり、次第に権力を強めていく。不比等が娘の宮子や光明子の姻戚関係を通じ、天皇家と血縁を深めていったことによるものである。
奈良時代の末期に紀氏を母に持つ光仁天皇が即位し、紀氏の勢力が相対的に強まった。
光仁帝は、勢力を増しつつある藤原氏を牽制するためにも、意図して紀氏の登用を進めたという面もあったのだろう。
宝亀11(780)年2月1日、光仁帝は、太政官クラスの人事を発表した。
紀氏からは、紀広純が参議として入閣した。広純は、陸奥守を兼ねていたのだが、同年3月に起きた伊治公呰麻呂の反乱で殺されてしまう。
藤原氏は、承和9(842)年の「承和の変」や貞観8(866)年の「応天門の変」などを通じて、他氏を排斥していく。
その結果、紀氏は、9世紀半ばの藤原良房の時代には、政界から姿を消し、活躍の場を神職や文芸に求めざるを得なくなり、『古今和歌集』の作者の2割までを紀氏一門が占めるまでになる。
『竹取物語』に登場する5人の貴人の中で、特に悪意をもって描かれている感じがするのは、不比等がモデルとされる車持皇子だろう。
車持皇子は、「心にたばかりある人にて」と書かれている。
<たばかり>というのは、「相手に誘いかけて自分の思うようにさせる。また、だまし欺く。ごまかす」の意味であり、要するに、卑劣でずるがしこい人物ということである。
こういう書き方から、作者は、藤原氏と対立し、政界を追われた大伴、石川、阿倍、石上、多治比、紀、巨勢のいずれかではないか、とする推測が生まれる。
梅澤さんは、藤原氏による排斥で政治の世界から姿を消さざるを得なかった怨みを、紀貫之あるいは紀長谷雄が、かぐや姫に託したのではないか、としている。
つまり、『竹取物語』で、「いざ、かぐや姫、穢きところに、いかで久しくおはせん」と、穢き所と指弾された現世とは、謀略を巡らして他氏を排斥することに成功した藤原氏が支配する世のことだろう、ということである。
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