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2007年9月12日 (水)

藤原宮木簡と郡評論争

『万葉集』の「藤原宮御井歌(巻1-52)」によれば、藤原宮は耳成山、畝傍山、香具山の三山に囲まれていることが分かる。だから、おおよその位置は分かるけれど、細かい場所については確定できず、論争があった。

江戸時代の国学者賀茂真淵は、高殿村の大宮殿という地にある土壇状の高まりが宮の中心だとする説を唱えた。
これに対し、大正初めになって喜田貞吉が、そこより西北方約700mの醍醐村長谷田が中心部だとする説を主張した。喜田の説は『扶桑略記』や『釈日本紀』の、「藤原宮は鷺栖坂の北にある」という記述を論拠としたものであった。
この議論は、黒板勝美(当時東大教授)によって創設された日本古文化研究所によって、昭和9(1934)年から始められた発掘調査により、大宮殿が中心であることが確認され決着する。
調査主任は、法隆寺の「再建非再建論争」(07年8月30日の項)でも重要な働きをした建築史家の足立康だった。
日本古文化研究所による発掘調査は、足立の死と東亜・太平洋戦争の進展によって、昭和18(1943)年に終了する。

藤原宮の発掘調査は、昭和40年代に再開された。この調査で、数多くの木簡が発見された。
木簡とは、木の札に文字を書き記したものである。文献資料の少ない古代の木簡は、当時の実態を示す史料として重要である。
藤原宮跡から出土した木簡が決定的な役割を果たした例として、「郡評論争」が有名である。
この論争は、昭和26(1951)年11月の史学会大会における井上光貞(元東大文学部長、当時東大教養学部助教授)の「大化改新詔の信憑性」と題する報告を発端とするものであった。

井上は、『日本書紀』の大化2(646)年正月条に記されている大化改新詔の用語が、大化当時のものではなく、後世の大宝律令によって大幅に修飾されていることを、地方行政単位のコオリ(郡)と、その役人の官職名の表記(郡司の大領・少領)を手がかりに論じたのだった。
『日本書紀』では、地方行政組織である「クニ-コオリ-サト」を「国-郡-里」と記しているが、特に「郡」については、『日本書紀』以外の金石文などでは、すべて「評」となっており、その役人も「大領・少領」ではなく、「評督・助督」という表記である。「郡」「大領・少領」などは、大宝令で初めて使用された用語であるから、大化改新詔は、大宝令によって大幅に修飾されている、と論じた。

これに対し、井上の師だった坂本太郎(当時東大教授)は、「大化改新詔の信憑性の問題について」(『歴史地理』83-1、1952)で、改新詔が大化当時のものであって、語句の改変は認められない、と反論した。
この後、井上-坂本の応酬だけでなく、多くの古代史家を巻き込んだ大論争に発展した。
直接の対象は、7世紀のコオリが「郡」か「評」かという地方制度の問題であったが、次のような大きな問題を包含するものであった。

第一に、大化改新詔の具体的内容はどうであったのか
第二に、『日本書紀』の記述の信憑性をどう判断すべきか

昭和41(1966)年から始まった藤原宮の調査で出土した木簡を分析すると、ちょうど大宝律令成立の大宝元(701)年を境にして、「評」から「郡」への転換が行われたことが明らかになった。
井上説が正しいことが証明されたわけである。
しかし、上記の「大化改新詔の具体的内容」や「『日本書紀』の記述の信憑性」については、まだまだ多くの課題が残されている。

論争の一方の当事者である坂本太郎は、「郡評論争」について、以下のように振り返っている(坂本太郎『史書を読む』中央公論社(8111)。

それにしても、改新の詔の第二条は、京都から国司・郡司などの地方行政機関を定めているが、そこで郡の範囲、郡司の任用方法などをこまかに述べている。この「郡」が当時の金石文では「評」と書かれている。そこで郡の部分は後の令文の転載で、改新の詔では評とあったのではないかと、井上光貞氏が言い出した。私は早速、『書紀』の天武・持統の巻のように史実と認められる部分にも郡の字が使われている実例を挙げて改新の詔に郡は存在したと反駁した。学界がいう郡評論争の始まりであるが、その後藤原宮から木簡が発見されて、大宝以前は郡に当る所に評の字が使われていることがわかって、私の説は誤りだということになった。
しかし、私はこれに対してどうも釈然としない。あの矛盾の多い『書紀』がどうして郡ばかり真剣にその文字を改定したか。少しは改定を洩らした痕跡でもありそうであるのに、それが見当たらない。また大宝令制に従って用字を改定する方針を貫くとすれば、ほかに改めなければならぬ記事はたくさんある。それらには手を触れないで、郡ばかりに熱心であった理由がわからないのである。

坂本は、日本古代史について、現在の通説となっている考え方の枠組みを設定した学者である。
それは、律令国家(律令制)の形成過程を中心として理解すべきである、とするもので、「坂本パラダイム」と呼ばれている。
「坂本パラダイム」の立脚点は、「六国史」(古代律令国家が編纂した6つの一連の正史。『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)であり、『日本書紀』については、前半の神話的な部分は別としても、7世紀の推古朝以降は、おおよそ史実に基づいた記述であって、特に天武・持統朝に関しては信憑性は確かなものである、というところにある。
だから、木簡の示す事実には理解を示しても、『日本書紀』の信憑性を揺るがすことになる「郡評論争」の帰結に、心から納得することができなかったのだろう。

それはともかく、藤原宮出土の木簡は、『日本書紀』という超一級史料ですら、木簡という一次史料に比べれば二次史料に過ぎないことを改めて示したものといえよう。
特に、信憑性が高いとされてきた天武・持統朝について、厳しい史料批判が必要であることが再認識されたわけで、古代史像形成の上でも、きわめて重要な論争であったということになる。

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