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2007年9月23日 (日)

石上麻呂は高松塚被葬者か?

かぐや姫に求婚する5人の貴人の中に、中納言石上麻呂足がいる。加納諸平により、石上麻呂と比定されている人物である。
石上麻呂は、舒明12(640)年に生まれ、霊亀3(717)年3月に亡くなった。氏(ウジ)は、はじめ物部氏で、後に石上に変えた。姓(カバネ)は、はじめ連で、後に朝臣となった。
天武元(672)年の壬申の乱で、物部麻呂は大友皇子の側につき、皇子の自殺まで従った。

壬申の乱後、赦されて天武5(676)年に遣新羅大使となり、文武4(700)年に筑紫総領になった。大宝元5(701)年に大納言になって政治の中枢に係わることになり、大宝4(慶雲元、704)年に右大臣、慶雲5(和銅元、708)年に左大臣に任じられた。
和銅8(霊亀元、715)年から霊亀3(養老元、718)年の死まで、太政官の最高位者であった。壬申の乱の敗者としては、異例の出世といえよう。

ところで、『竹取物語』において、石上麻呂足は、「燕の持たる子安の貝ひとつ取りて給へ」という課題を与えられる。
麻呂足は、大炊寮の飯炊きの建物の棟に燕が巣を作ると聞き、足場を組んで巣を探すが、人が大勢いては燕も巣に上がってこない。
そこで足場を外し、麻呂足自身が載った籠を引き上げさせて巣を探った。手が平たい物に触れたので籠を下ろそうとしたときに、綱が切れて麻呂足はあおむけに落ちてしまう。
それでも子安貝を掴んでいたので確認してみると、それは燕の糞だった。それが「カイナシ」という言葉の語源になった。
麻呂足は、このときの腰の打撃がもとで死んでしまうが、それを聞いたかぐや姫は、少し気の毒に思った。つまり「カイアリ」である。
『竹取物語』には、この章の「カイナシ-カイアリ」とか、9月18日の項の「不死の山→富士山」など、ダジャレ的な語源解説が随所に散りばめられており、読者サービスの精神が窺われる。

中納言麻呂足の場合は、他の4人がインチキをしてかぐや姫の課題に応える方策を考えようとしたのに対し、家人たちが知恵を貸すことによって「燕の持つ子安貝」という課題に応えようとする。
かぐや姫の「気の毒に思った」という慰めにしても、他の4人と比べると破格の扱いである。
モデルの石上麻呂が、『続日本紀』で、死に際して「百姓追慕し、痛惜せざるなし(人々すべてが痛惜した)」とされる人徳の人であったことを反映しているとも考えられる。

この石上麻呂が、高松塚古墳の被葬者ではないか、という説がある。
奈良新聞によれば、石上麻呂をはじめて被葬者候補に挙げたのは、稲荷山鉄剣銘のスクープで知られる元毎日新聞記者の岡本健一京都学園大学教授である。
高松塚古墳の彩色壁画の男子像にさしかけられた深緑の蓋(キヌガサ)が、被葬者が一位の人物を示している。701~710年の間で一位に叙せられた人物はいず、平城京遷都以降に目を向けると、霊亀3(717)年に死んだ後、元正天皇が長屋王を遣わして一位を追贈したと『続日本紀』に記されている石上麻呂が浮かび上がる。
石上麻呂は、和銅3(710)年に藤原京から平城京へ遷都する際の藤原京留守司に任ぜられている。
平城京遷都が不比等を中心に推進されたとすれば、藤原京に残った左大臣の石上麻呂と、右大臣不比等の間に軋轢があったとも考えられる。

高松塚の被葬者は、発掘調査の際のX線撮影によって、頚椎に「変形性骨変化」が認められた。
鑑定にあたった研究者たちは、「頭部外傷歴や乗馬の習慣等を考慮したい」としているが、被葬者が石上麻呂であるならば、『竹取物語』に描かれた籠からの落下という挿話とうまく一致する。
諸説ある高松塚被葬者については、墓誌等がない限り確定はできないのであろうが、物語の元祖と位置づけられる『竹取物語』の記述が、一つの傍証となる可能性があるとすれば、実に面白いことだと思う。

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コメント

ありがとう

投稿: ぼこ | 2007年9月29日 (土) 18時50分

ぼこさん?
こちらこそ

投稿: 管理人 | 2007年9月30日 (日) 03時25分

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