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2007年9月 9日 (日)

藤原京の意義

都市の定義にもよるが、藤原京は、わが国で最初に作られた都市であった。
7世紀以前のミヤコは、天皇の代替わり毎に移転するのが普通だった。ミヤコとは宮のある処、つまり天皇の居る場所を示す言葉だったから、天皇が代わり、その居所が移れば、ミヤコが変るのは当たり前とも言える。
大和朝廷を構成する有力豪族(氏族)がいくつかあり、氏族ごとに定まった仕事(蘇我氏は蔵の管理、物部氏は軍事や武器の保管、中臣氏は宮廷の祭祀を担当など)を分担しながら、全体として朝廷の運営にあたっていた。
仕事は氏族が単位となっていたから、天皇の居るミヤコはそれほど大きなものでなくともよかった。

推古朝の頃(6世紀末~7世紀初頭)になると、しだいに朝廷の組織が大きくなり、天皇の居所の近くに集中するようになってきた。
われわれが学校で教えられた頃は、推古朝は、聖徳太子が摂政として国政を担当したことになっていたが、聖徳太子についての『日本書紀』の記述には、とても事実とは思えないことが多い。
それはともかくとしても、朝廷の組織が整備されてきた時期と考えられている。
推古天皇は、飛鳥豊浦宮で即位し、後に小治田宮に移った。共に、今の明日香村の中である。
その後、持統が藤原宮(橿原市)に移るまでのおよそ100年間、宮の位置は飛鳥という狭い範囲に限られていた。いわゆる飛鳥時代である。

壬申の乱を勝ち抜いた天武は、律令国家建設の一環として、本格的な都城の造営を計画し、それが持統朝に引き継がれて完成したのが藤原宮である。
藤原宮は、天皇の代替わりと関わりなく営まれる固定された恒久的な宮であった。
結果的に、持統・文武・元明の三代で遷宮することになったが、それまでの宮とは全く設計思想が異なるものだった。

藤原宮は、宮内の中心的な建物である大極殿が初めて成立した宮であった。大極殿は、国家的な儀式の際に、天皇が出御する殿舎で、宮の中で最も重要で大規模な建物である。
また、藤原宮は、宮の外側に碁盤目状の道路によって区画された条坊を設け、そこに官人たちを居住させた京(すなわち藤原京)を伴う最初の宮であったと考えられている(前期難波宮や近江大津宮にも京があった可能性はある)。
律令国家の成立によって、豪族の配下で仕事をしていた官人が、直接天皇に仕える官僚になり、宮の近辺に居住することが必要になったことが京を成立させた。

都市とは何か。
いろいろな考え方があるだろうが、寺崎保弘『藤原京の形成 (日本史リブレット) 』山川出版社(0203)は、単に人口が集中する場というだけでなく、生産活動に直接従事しない人々が多数住んでいて、消費生活を営んでいることが不可欠の条件であるとする。
その意味で、多数の官人が半ば強制的に居住させられ、毎日宮司に通う官僚となり、それが中心的な住民となった藤原京こそ、わが国最初の都市であるということができる。

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