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2007年9月15日 (土)

藤原四兄弟と中将姫

9月7日の項の続き)
不比等の死後、不比等の後妻の県犬養橘宿禰三千代が、藤原氏にとって重要な働きをする。
三千代ははじめ美努(ミノ)王に嫁いだが、後に不比等の後妻となって、大宝元(701)年、安宿媛(光明子)を生んだ。
文武天皇の後は、草壁皇子の正妃だった母の阿陪(閉)皇女が即位して元明天皇となり、その次が文武の姉の氷高内親王が継いで元正天皇となった。女帝が続いたので、後宮の役割が大きい時代だったと考えられる。

安宿媛が首親王の妃になると、三千代にとっては、首親王は義理の娘(宮子)の子であり、かつ自分の娘の夫ということになる。
神亀元(704)年、元正天皇は皇太子首親王に譲位した。聖武天皇の誕生であるが、それは藤原氏の血の流れる天皇の誕生でもあった。不比等の死後4年目のことである。

2不比等の死後政治の実権を持った長屋王は、藤原氏による陰謀説が強い「長屋王の変」で自害し、聖武天皇と光明皇后、これをとりまく藤原四兄弟の時代となった。藤原四兄弟とは、以下の不比等の4人の息子のことである。(系図:虎尾俊哉『奈良の都』講談社(6812)
・藤原武智麻呂(ムチマロ) 680~737(藤原南家)
・藤原房前(フササキ) 681~737(藤原北家)
・藤原宇合(ウマカイ) 694~737(藤原式家)
・藤原麻呂(マロ) 695~737(藤原京家)

長屋王の死後、不比等の四子が政権を担っていた時代を、藤原四子政権と呼ぶが、旱害や飢饉が続き、盗賊が横行するなど、社会不安が増大した。
天平7(735)年には、九州で発生した疫病(天然痘の一種だと考えられている)が全国に蔓延し、2年後には畿内でも大流行した。
藤原四兄弟は、この流行に罹患し、房前が4月17日、麻呂が7月13日、武智麻呂が7月25日、宇合が8月5日と相次いで没した。

藤原四兄弟を失った藤原氏は、それを“長屋王の祟り”として怯える。
中将姫の父藤原豊成は、四子の長兄武智麻呂の嫡子であるから、藤原氏の直系である。
中将姫は、藤原氏の威勢が盛んな中に生まれるが、その背景にある藤原氏の罪を購うが如く、当麻寺で光の中を極楽浄土にへ向かったのである。

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