5人の貴人のモデル
かぐや姫はもちろん、竹取の翁や媼は、物語の作者の想像力によって生み出された人物である。
しかし、かぐや姫に求婚する5人の貴人については、実在のモデルがいるといわれている。
江戸時代の国学者である加納諸平は、『日本書紀』の持統10年10月22日の条の下記の記載が元になっている、と考証している(上坂信男『竹取物語 (講談社学術文庫 269) 』(7809)。
正広参位右大臣丹治比真人に、仮に舎人百二十人を私用することを許された。正広肆大納言阿部朝損臣御主人・大伴宿禰御行には、それぞれ八十人を、直広壱石上朝臣麻呂・直広貳藤原朝臣不比等には、それぞれ五十人を許された。
(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫)』(8808))
阿部御主人、大伴御行、石上麻呂足は、(ほぼ)同名であり、比定に問題はないだろう。
阿部御主人は、大宝元(701)年3月21日に「正従二位」「右大臣」になり、大宝3(703)年に薨じている。
大伴御行は、壬申の乱に戦功があり、乱の後、「大君は神にしいませば赤駒の腹這う田居を都となしつ」と詠んで、天武天皇を現人神と称した最初の人であるが、大宝元(701)年正月に薨じている。
石上麻呂は、壬申の乱の功臣であり、大宝4(704)年に右大臣、慶雲5(710)年に左大臣に累進して、養老元(717)年3月に薨じている。「百姓追慕し、痛惜せざるなし」と『続日本紀』に記されている。
いずれも、位人臣を極めた人物といえる。
残りの2人はどう考えられるか?
石作皇子は、丹治比の一族に石作氏がいるので、丹治比真人と考えていいだろう。
車持皇子は、藤原不比等の母親が車持氏だから、不比等に対応していると考えていいのではないか。
以上が、加納諸平による5人の貴人の推定である。
実名から遠い名前で登場している石作皇子、車持皇子の2人は、5人の中でもどちらかといえば好感をもって描かれていない人物である。
石作皇子のモデルとされる丹治比真人嶋は、持統朝で右大臣、文武朝で左大臣であるから、不比等と同時代に勢力を伸ばした人だった。
つまり、この2人は、不比等体制を代表する人物ということになる。
その2人が好感をもって描かれていないとすれば、作者は、その体制を快く思っていなかった人物人だと考えられる。
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