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2007年9月

2007年9月30日 (日)

紀広純

呰麻呂の反乱で殺された紀広純の肩書きは、按察使兼参議で、位階は従四位下であり、陸奥守も兼ねていた。
按察使は、大宝令以後に新設された特殊な官職で、地方行政の監督を本務とするものだった。
諸国按察使の中でも、陸奥国按察使は特別な存在で、陸奥・出羽両国にまたがる地域の最高官であり、軍事と政治を一手に握っていた。西の大宰府長官に匹敵する職だった。

広純が兼ねていた参議は、中央政府での立場である。
政策決定に関与するのは太政官であったが、大臣、納言、参議で構成され、十人ないし十数人であった。
参議で按察使だった広純は、当時の最高級エリートということになる。

紀氏は、古代からの名門といわれ、一族は広く西日本に広がっている。
祖先は武内宿禰とされているが、武内宿禰については、実在性に疑問が持たれている。
紀氏の本拠は紀伊国で、紀ノ川沿いに多くの古墳があるが、紀氏一族の栄華の跡とされている。
紀氏は、紀ノ川沿いに遡り、大和に入って中央政府に食い込んだ。

広純の曾祖父が紀臣大人で、臣の姓は地方豪族扱いである。
大人の子の麻呂が朝廷貴族に列せられ、朝臣の姓を賜り、大納言となっている。広純は麻呂の孫で、紀氏の中では最高位に位置していた。
紀大人の子供の一人である諸人の娘が天智天皇の皇子である志貴皇子の妃となり、白壁王(光仁帝)を生んだ。
そのため、光仁帝の時代には、紀氏の勢力が伸張し、藤原氏を脅かす可能性のある存在になっていた。
光仁帝が、藤原氏を牽制するために、紀氏の積極的な登用を図ったとみることもできよう。

広純は、そういう状況における紀氏の期待の星だった。
宝亀11(780)年2月1日、光仁帝は、太政官クラスの人事を発表し、広純が参議として入閣した。
陸奥按察使を兼ねていた広純は、胆沢平原の夷賊が言うことを聞かないので、覚鱉(カクベツ)の地に城を築くことが必要である旨の意見具申をした。
3月か4月になったら、3000人の部隊を出して賊地に入り、築城を強行したいので許可して欲しい。

勅許を得た広純は、宝亀11(780)年春3月中旬、胆沢平原を狙って出陣した。広純は、3000人の部隊を出動させるとしていたが、多賀城付近で1000人を集め、残りの2000人を伊治城の城兵で賄おうとしたらしい。
多賀城と伊治城の距離60kmを勘案すると、広純は17、8日頃伊治城に入城したと推測され、呰麻呂の反乱は、その5日ほど後に起きたことになる。

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2007年9月29日 (土)

多賀城炎上

有名な奈良東大寺の大仏は、天平15(743)年に聖武天皇が造立の詔を発して制作が始まった。
表面を飾る黄金が足りず苦慮していたところ、天平21(749)年、陸奥国で砂金が発見され、陸奥国司で百済王の子孫敬福が、900両(約34kg)を献上した。
天皇は大いに喜び、年号を「天平感宝」と改元したほどだった。
産金地は、現在の宮城県涌谷町・黄金山神社(国史跡)境内だったとされる。
天皇は、産金の慶事をただちに詔書で全国に伝え、越中守だった大伴家持は次の歌を詠んだ。

天皇(スメロギ)の御代栄えむと東なる陸奥山に金(クガネ)花咲く(万葉集・18-4097)

Photo_47世紀以降、左図に示すように、中央政府の蝦夷(エミシ)地域への進出が次第に拡大していったが、産金によって、律令国家の東北地方への勢力拡大が加速された。
各城柵の造営年は以下の通りである。
淳足柵:大化3(647)年
磐舟柵:大化4(648)年
多賀城:神亀元(724)年
雄勝・桃生城:天平宝字4(760)年
伊治城:神護景雲元(767)年
胆沢城:延暦21(802)年
志波城:延暦22(803)年

政府の進出地域が広がるに連れ、政府と蝦夷との間の軋轢も増大した。
上記の城柵の中で、歴史転回の舞台のなったのが伊治(コレハリ)城である。

宝亀11(780)年、陸奥国按察使(アゼチ)紀広純が、覚鱉城建設に際して伊治城を訪れた際に、伊治の有力者だった呰麻呂(アザマロ)が、紀広純を殺害するという衝撃的な事件が起きた。
按察使は、政府の陸奥国の最高責任者である。
それまでにも蝦夷の武装の抵抗はあたが散発的なものだった。呰麻呂の反乱は、蝦夷の反抗が統一戦線化していく契機を与える可能性があった。

『続日本紀』宝亀11(780)年3月22日条の記載を、石森愛彦絵・工藤雅樹監修『多賀城焼けた瓦の謎 』文藝春秋(0707)から引用する。

陸奥国上治郡の大領、外従五位下、伊治公呰麻呂反し、徒衆を率い、按察使、参議、従四位下、紀朝臣広純を伊治城に殺す。
(中略)
伊治呰麻呂是れ夷俘の種なり。初めは事に縁りて嫌うことあれども、呰麻呂怨を匿して陽(イツワ)りて媚び事(ツカ)う。広純甚だ信用して殊に意に介さず。また牡鹿郡の大領道嶋大楯、毎に呰麻呂と凌侮し、夷俘を以て遇す。呰麻呂は深くこれを銜(フク)む。時に広純建議して覚鱉(カクベツ)柵を造り、以て戌侯を遠ざく。因りて俘軍を率いて入る。大楯・呰麻呂並に従う。是に至りて呰麻呂自ら内応をなし、俘軍を唱誘して反す。先ず大楯を殺し、按察使を囲み、攻めて之を害す。独り介、大伴宿禰真綱を呼びて囲みの一角を開きて出し、護りて多賀城におくる。その城は久年国司の治所にて兵器、粮の蓄え勝て計うべからず。城下の百姓競い入りて城中を保たんと欲すれども、介真綱、掾石川浄足、潜に後門より出でて走る。百姓遂に拠る所なく、一時に散居す。後数日賊徒乃ち至り、争いて府庫の物を取り、重きを尽りて去る。その遺る所は放火して焼く。

つまり、元夷俘だった伊治呰麻呂が、俘軍を誘って按察使を囲んで殺し、多賀城に放火して焼き討ちしたのである。

時の天皇は光仁帝だった。称徳女帝のあとを受けて即位して10年後のことであるが、既に70歳を超えた老帝だった。
称徳女帝は、道鏡との関係で有名であるが、光仁帝は、即位の後、称徳時代の混乱の後始末に追われた。
乱れた律令制のタガを引き締めなおすことが大きな課題で、体制再建のためには、フロンティアとしての陸奥の存在が重要だった。
多賀城はその最重要の根拠地だったのだが、それが反乱軍に焼き討ちされてしまったのだ。

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2007年9月28日 (金)

律令国家と多賀城

日本古代史のハイライトの一つが、乙巳の変とそれに続く大化改新であろう。
坂本パラダイムのところ(9月14日の項)に記したように、古代史の枠組みを、律令国家の形成との関連で捉えるのが通説であり、乙巳の変と大化改新はいわばその起点だからである。

乙巳の変の経緯ついては、良く知られている。
主人公は、中大兄と中臣鎌足である。飛鳥寺の槻の木の下で打毬の遊びをしているときに、中大兄の靴が脱げたのを鎌足が拾ったのをきっかけとして2人は親しくなった。
そして、飛鳥の朝廷で絶大な権力を握っていた蘇我入鹿を暗殺する計画を密かに立てた。
唐への留学生だった南淵請安の講義を聴きに通う間に密議を凝らしたと伝えられている。

計画が実行されたのは、乙巳の年(645年)6月の雨の日だった。
皇極女帝の板蓋宮(現在の明日香村役場の北付近と推測されている)の大殿で、三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が、調(ミツギ)を奉る機会を利用したのだった。
『日本書紀』には、当日の様子がリアルに描かれている。例えば、入鹿に斬りつける実行予定者の佐伯子麻呂や葛城稚犬養網田が緊張の余り吐いてしまったとか、上表文を読み上げていた蘇我石川麻呂が汗を流し震えたとか、中大兄が「やあ!」と掛け声をかけて入鹿に斬りつけた、とかである。
しかし、そもそもの中大兄と鎌足の出会いからして、作り話めいている感がするのは否めないだろう。

この乙巳の変と呼ばれている宮廷内クーデターには謎が多いが、翌大化2(646)年の正月元日に発せられた四条からなるいわゆる「改新の詔」についても、その信憑性をめぐって論議が多い。
藤原宮出土の木簡によって、第二条で用いられている「郡」の用語が、後の大宝令によって修飾されていることがはっきりした(9月12日の項)。
つまり、『日本書紀』に記載されている改新の詔は原詔ではない、ということになる。
詔の史料批判について精細な研究が重ねられ、原詔の復元が試みられているが、未だに定説とされているところには至っていないようである。

2_2 改新の原詔がどういうものだったのかは別として、中大兄らが唐を手本に、律令国家形成を意識していたことは事実であると考えられる。
詔の第一条は、私地私民の廃止、公地公民制の導入を定めている。
公地公民制とは、各地の豪族が所有していた土地・人民を国家(天皇を中心とする朝廷)の所有とすることである。
律令国家の土地・人民支配体制の特徴とされるものであり、公地公民制の導入によって、社会構造は大きく変わることになる。

第二条は、京・畿内国・郡・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬をおき、鈴契を造り、山河を定める規定である。
「駅馬・伝馬を設置し、駅伝馬用の鈴契(駅鈴と通行証)を造り、山河によって行政区画を定める」とするもので、交通と通信網の整備が図られた。
改新の詔に示された方針の多くは、大化以降徐々に具体化されていき、大宝元(701)年の「大宝律令」によって体系として整備された、と考えられている。
こうした施策によって、7世紀後半には、中央政府の力が、東北地方に及び始めたわけである。

蝦夷の律令国家に対する反抗は、和銅元(708)年に出羽郡が設置されたことをきっかけとするものが最初だった。
2_3 郡の統括下に入ることによって、律令国家の圧力を肌で感じて蜂起したのであろうが、間もなく政府軍によって鎮圧されてしまった。
陸奥側では、養老2(720)年に、石城(イワキ)・石背(イワシロ/イワセ)の2国が福島地方に作られたことをきっかけに、按察使の上毛野広人が蝦夷に殺されるという事件が起きた。

按察使を殺された律令国家は、東北地方の支配体制の見直しを行い、出羽国を陸奥按察使の管轄とすると共に、多賀城を造営して東北統治の拠点とした。
多賀城の南に残っている碑文には、神亀元(724)年に多賀城が創建さと記されている。
また、史料上は、養老6(722)年から陸奥鎮所という名前がみえるが、多賀城に相当するものと考えられている。
(図は、石森愛彦・絵、工藤雅樹監修『多賀城焼けた瓦の謎 』文藝春秋(0707)。

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2007年9月27日 (木)

東北フロンティア

人工衛星「かぐや」は、宇宙空間の新しいフロンティアを探索する試みであるが、西日本から開けた日本列島において、古代におけるフロンティアは、東北地方であった。
雄略天皇のこととされる倭王武(9月6日の項)の上表文に、「毛人の国五十五国を討った」というような記述があるように、古くは東北地方は「毛人」の国と呼ばれていた。
東北地方でも、6~7世紀には太平洋側では阿武隈川の河口付近、日本海側では新潟市付近まで国造制が行われるようになる。国造制の及ぶ範囲より北側の地域は、蝦夷(エミシ)と呼ばれるようになった。

蝦夷の語については、さまざまな解釈があるようである。WIKIPEDIA(9月26日最終更新)では次のように説明されている。

古代の蝦夷ははじめ「毛人」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読み、7世紀から「蝦夷」と書かれるようになった。しかし、毛人や蝦夷にはえみしやえびすと通じる音がない。「毛」や「蝦」の字を用いたのは単なる音の転写ではなく、何らかの意味があると考えられる。ここで、毛人は蝦夷に体毛が多かったためだと解し、やはり体毛が多いアイヌと比べる説がある。蝦夷については、カイという音(アイヌ人はモンゴル人から「クイ」ロシア人からは「クリル」と呼ばれた)に通じる呼び名があったためとも、蝦(エビ)に似て髭が長かったためだとも推測される。ただし、これらは三説とも字を見て論じたもので、確かな証拠はない。蝦夷の「夷」の字は東方の異民族に対する蔑称である。

7世紀後半になると、蝦夷の地域の中で比較的政府の影響力の強い場所に城柵が設置された。
城柵の設置された地域では、律令制下の郡が置かれ、国司が駐在した。蝦夷と境を接する地域の国司には、饗給(キョウゴウ)・斥候・征討という任務が課せられた。
饗給は蝦夷に対し食料や武器を与えること、斥候は蝦夷側の動向を探ることである。

和銅元(708)年9月、越後の国司の新たに出羽郡を設置したいという申請が許された。越後の北側に張り出して、新しい郡を作ろうというものである。
翌年には、出羽柵に兵器が運ばれている。出羽柵は、最上川の河口に近いところにあったと推定されている。
日本海側の開拓は、出羽柵が中心になって進められ、和銅5(712)年10月には、出羽郡に、陸奥の国の最上、置賜の2郡を加えて、出羽の国が設置された。
余談ではあるが、置賜の名は、安倍内閣崩壊の原因の一つとなったのではないかと推測される遠藤元農水相が理事長の農業共済組合で有名になった(9月4日の項)。

出羽の国のような新しい国では、柵を作って武力で現地住民を押さえつけるだけでは開拓は進まない。
そこで、移民政策がとられ、東海・東山・北陸道の諸国から、一国あたり50戸ないし100戸というような単位で、集団移住させられた。
これらの移住民は柵戸と呼ばれ、開墾に従事したが、蝦夷との戦闘になれば武器をとって戦った。
蝦夷の側では抵抗する者もあったが、柵戸の新しい技術を受け入れ、多くは融合していく道を選んだ。
陸奥の国の方でも、和銅6(713)年に新たに丹取郡(仙台平野の南半と推定されている)が設置され、養老2(718)年には、石城(イワキ)・石背(イワセorイワシロ)の2国が分立した。

蝦夷の住民の方から、進んで律令体制に入ることを申し出るケースも出て、比較的順調に開拓は進んだが、暴動が起きることもあった。
養老4(720)年、陸奥の国の蝦夷が反乱を起こし、按察使の上毛野広人が殺されるという事件が起きた。按察使は、養老3(719)年に設置された地方行政を監督する令外官の官職で、数か国の国守の内から1人を選任し、その管内における国司の行政を監督させるものであった。

養老5(721)年には、石城・石背の2国を陸奥の国に戻し、出羽の国も陸奥按察使の管轄下に入れ、東北地方を一体的に管理する行政府ができた。
それと並行して、東北地方の軍事的拠点として、陸奥の鎮守府の建設が始まったらしい。
陸奥鎮所を強化するため、豪族たちから位階と引き換えに寄付を募った。
こうした動きが蝦夷を刺激し、養老8(神亀元、724)年、陸奥の海側の蝦夷が反乱を起こした。鎮圧のために、藤原宇合が持節大将軍に任命された。

陸奥鎮所が置かれたのが多賀城である。多賀城には、陸奥鎮守府、陸奥国司が置かれ、按察使が所在した。東北地方における大宰府という位置づけであった。
多賀城の建物は瓦葺にされ、蝦夷に対して国家の威信を誇示した。多賀城には瓦葺の寺院も建てられ、中央の文化の普及が図られた。
天平9(737)年正月、陸奥按察使兼鎮守将軍大野東人が、陸奥の国と出羽の国を結ぶ道路の建設を願い出て許された。

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2007年9月26日 (水)

「かぐや」打ち上げ

宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、9月14日、月探査機「かぐや」の打ち上げに成功した。
2 「かぐや」はアメリカのアポロ計画以来の本格的な月探査機で、月を周回し、14種の観測装置で月の地形、地下構造、元素、磁場、重力の分布などを高精度に調べ、月の起源や進化を探ることが計画されている。
順調にいけば、約3週間後に月の軌道に到着し、12月下旬に観測用の周回軌道に入り、約1年間本格的な観測を行うことになる。

月の探査は、1969~72年の「アポロ計画」が有名だ。
「アポロ計画」は、「マーキュリー計画」「ジェミニ計画」に続く3番目の有人衛星として計画されたものだが、1961年にケネディ大統領によって、「1960年代中の月面着陸」という挑戦的な目標に再設定された。
1969年7月20日、アポロ11号が、月の「静かの海」に着陸し、ケネディ大統領の立てた計画目標が達成された。
月着陸の歴史的な瞬間は、全世界5億人を超える人々がTVなどのメディアを通して視聴したという。
この年社会人となった私も、勤務先の食堂で昼休み(?)にTVで放映されていた歴史的瞬間を視聴した。そして、科学技術の進歩を実感した記憶がある。

アームストロング船長の、“That's one small step for a man, one giant leap for mankind.(これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である)”という言葉が、一世を風靡した。
また、この時月面で採取された「月の石」は、翌年大阪で開催された日本万国博覧会のアメリカ館で展示され、大きな人気を呼んだ。
万博のテーマだった「人類の進歩と調和」の「人類の進歩」の側面を象徴する展示でもあった。

「アポロ計画」は、ソ連との間で宇宙空間の軍事的覇権を争う冷戦宇宙開発競争の延長線上にあるものであり、巨額の国費が投入された。
そのため、当時推進されていたベトナム戦争と相まって、アメリカ経済に大きな悪影響を与えた、という批判も起きた。
「かぐや」計画は、この「アポロ計画」以来の本格的な月探査機である。

当然、「かぐや」計画もその成果の評価が、投入した費用との対比で問われることになるだろう。
しかし、なまじ経済性で判断するのはどうかと思う。
月の起源や進化などについては、まだまだ未解明の部分が多いのだから、波及効果などを考えずに、純粋に科学的な立場で考えればいいのではなかろうか。
一種の「遊びごころ」である。「ホモ・ルーデンス」という言葉があるように、「遊び」は人間の本質の一つである。文明や文化も「遊び」によって発展してきた要素が多いだろう。
まして、「かぐや」という愛称であることも含め、国威の発揚などは、結果ではあり得ても、目的にはして欲しくないと思う。

なお、「かぐや」計画の「かぐや」の愛称は、公募により選ばれたものだが、もちろん「かぐや姫」に由来している。
また、「かぐや」の語源については諸説あるが、「赫々(カッカク)」の「赫=光り輝く」から来ているという説が有力だという。
光る竹の中から見つけられ、光の中を月に帰っていく姫として、まことに相応しい名前といえよう。

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2007年9月25日 (火)

十里木街道関所跡

今日は旧暦の8月15日であるが、「三嶋暦師の館」の帰り道に雲間から顔を出した月を見た妻が、(明後日に)「とても満月になるとは思えない」と言い出した。
確かに、見た目はまだ70%くらいの感じで、満月には間がありそうだったが、視覚の誤差の問題だろうかと思っていた。
「三嶋暦師の館」のホームページに、毎日の月齢が載っている。調べてみたら、今日の0時で13.1とあった。
旧暦の15日で十五夜にあたるのだが、月齢とは必ずしも一致しないということだ。

Pict00162「三嶋暦師の館」の建物は、十里木街道の関所として使われていたものを、安政の大地震の後三島に移築した。
去年、十里木街道関所跡付近を歩いたことがあったが、その時は「三嶋暦師の館」との関係などは知る由もなかった。

十里木街道は、静岡県の富士宮から箱根竹之下を結ぶおよそ十里の道のりの街道である。
富士山と愛鷹山の間を縫うように走る道筋で、竹之下から足柄峠を越えて相模に通じ、静岡・山梨・神奈川を繋ぐ重要な交通路の一つだった。

高度の高いルートなので、往時は整備も行き届かず、かなりの難路だったのではないのだろうか。
直良信夫『峠と人生』NHKブックス(1976)では、延喜式に定められた古東海道の吉原-沼津-御殿場のルートの間道的役割を果たしていたと推測しているようだ。
現在は整備も進み、裾野・御殿場地域と富士・富士宮地域を結ぶ短絡路として交通量は結構多い。
関所は、小田原藩によって設置されたもので、旧富士郡と駿東郡の郡界にあたる場所にある。
説明文には、寛文年間に郡界をめぐって争いがあったことが記されている。
関所は、郡界の管理と街道の往来の管理をしていたのだろうが、江戸末期には既に役割を終えていたということになる。

十里木地域は、標高900~1100m程度の高原地帯で、温暖な静岡県では希少な避暑地である。首都圏からも便利なところなので、リゾート地域として開発が進められている。
現在は、子どもの国、サファリパーク、ゴルフ場、キャンプ場などのレジャー施設のほか、別荘、ペンションなども数多い。

建久4(1193)年、源頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを催した。
鎌倉に幕府を設置した翌年であり、武威を天下に誇示し、将兵の士気を鼓舞するのが目的だったとされる。
『吾妻鏡』によれば、5月8日から6月7日の間、1ヵ月に及ぶもので、約15万騎が参加したというから、その規模が想像できる。
有名な曽我十郎・五郎兄弟が、父親の仇の工藤祐経を討ったのは、この巻狩りの際である。
巻狩りは、現在の御殿場市から富士宮市にわたる広大な地域で行われ、場所を次々と移動していったらしい。
十里木高原にも本陣が置かれ、頼朝の喉を潤したといわれる「頼朝の井戸」が残されている。

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2007年9月24日 (月)

三嶋暦師の館の『竹取物語』

三嶋暦という暦(カレンダー)がある。
仮名文字の暦として日本で一番古いこと、木版刷りの品質が良く、細字の文字模様がたいへん美しいことなどが特徴で、江戸時代には東海道三島宿を往来する旅人の街道土産として人気があったという。
価格は慶応4年で、綴り暦(16ページ)が150文(今の価格で3,000円くらい)、一枚ものが15文(今の価格で300円くらい)だったらしい。
明治5年に明治政府によって、太陽暦が採用されるまで流通していた。

「三嶋」と明記された現存する最古の暦は、史跡足利学校(栃木県足利市)所蔵の周易古写本の表紙裏から発見された永享 9年(1437)の三嶋暦である。
また、南北朝時代の禅僧義堂周信の日記『空華日工集』の応安 7(1374)年 3月 4日の条に、三嶋暦の名が見えるという。
河合家の伝承では、祖先が山城国賀茂より三島神社を勧請して伊豆国三島に下ったのは、光仁天皇の宝亀年間(770~80)で、以後代々暦を製作してきた。
伊豆に流された源頼朝は、源氏再興を祈願するなど、三嶋大社を深く崇敬したことから、鎌倉幕府は、三嶋暦を使っていたのではなかと推測されている。

Photo_3河合家の建物が三島市に寄贈され、三島市はこの建物を、「三嶋暦師の家」として整備し、暦の歴史や文化に親しめる場所として活用している。平成18(2006)年6月、国の登録有形文化財に指定された。
河合家の元の建物は安政元(1854)年の大地震で倒壊してしまったが、韮山の代官であった江川太郎左衛門のはからいで、十里木(裾野市)に廃屋になっていた関所の建物を移築した。玄関は武家風で立派な式台が付いており、奥の座敷は一段高くなった上段の間になっている。

三嶋暦師の館で、9月23日、「仲秋の名月」のイベントが行われた。今年の旧暦8月15日は25日に当たるが、その近辺で人が集まりやすい日に設定したのであろう。
三嶋大社で開講されている万葉講座でご一緒のKさんのお誘いで、このイベントに参加した。
舞、朗読、ギター・ハモニカ・琴の演奏などが行われ、ボランティアの三嶋暦の会の人たちの努力で、手作りの快いイベントを楽しめた。
天候が危ぶまれたため、室内での開催となったが、当初の計画では屋外で観月をしようということだったらしい。
帰りの道すがらでは、時折雲の合間から月が顔を見せてくれた。

Pict0002_4_2朗読の作品が、偶然ではあるが、ちょうど『竹取物語』だった。
江戸期からの建物の中ということもあって、幻想的な雰囲気が醸し出されていた。
三島の有名な禅寺・龍沢寺の名僧として知られる山本玄峰師の手になる「掬水月在手」という軸が掛けられ、真ん中の見事な「月」の字が、観月の会を演出していた。
朗読は、時間の制約もあって細部は省略されていたが、ほぼ原作に忠実にあらすじを追ったもので、懐かしそうに耳を傾けている人が多かった。
私も、日本の建国事情とどう係わるのか、などといった余分なことを考えずに
、観月の夜に相応しいおとぎ話として素直に聞いた。

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2007年9月23日 (日)

石上麻呂は高松塚被葬者か?

かぐや姫に求婚する5人の貴人の中に、中納言石上麻呂足がいる。加納諸平により、石上麻呂と比定されている人物である。
石上麻呂は、舒明12(640)年に生まれ、霊亀3(717)年3月に亡くなった。氏(ウジ)は、はじめ物部氏で、後に石上に変えた。姓(カバネ)は、はじめ連で、後に朝臣となった。
天武元(672)年の壬申の乱で、物部麻呂は大友皇子の側につき、皇子の自殺まで従った。

壬申の乱後、赦されて天武5(676)年に遣新羅大使となり、文武4(700)年に筑紫総領になった。大宝元5(701)年に大納言になって政治の中枢に係わることになり、大宝4(慶雲元、704)年に右大臣、慶雲5(和銅元、708)年に左大臣に任じられた。
和銅8(霊亀元、715)年から霊亀3(養老元、718)年の死まで、太政官の最高位者であった。壬申の乱の敗者としては、異例の出世といえよう。

ところで、『竹取物語』において、石上麻呂足は、「燕の持たる子安の貝ひとつ取りて給へ」という課題を与えられる。
麻呂足は、大炊寮の飯炊きの建物の棟に燕が巣を作ると聞き、足場を組んで巣を探すが、人が大勢いては燕も巣に上がってこない。
そこで足場を外し、麻呂足自身が載った籠を引き上げさせて巣を探った。手が平たい物に触れたので籠を下ろそうとしたときに、綱が切れて麻呂足はあおむけに落ちてしまう。
それでも子安貝を掴んでいたので確認してみると、それは燕の糞だった。それが「カイナシ」という言葉の語源になった。
麻呂足は、このときの腰の打撃がもとで死んでしまうが、それを聞いたかぐや姫は、少し気の毒に思った。つまり「カイアリ」である。
『竹取物語』には、この章の「カイナシ-カイアリ」とか、9月18日の項の「不死の山→富士山」など、ダジャレ的な語源解説が随所に散りばめられており、読者サービスの精神が窺われる。

中納言麻呂足の場合は、他の4人がインチキをしてかぐや姫の課題に応える方策を考えようとしたのに対し、家人たちが知恵を貸すことによって「燕の持つ子安貝」という課題に応えようとする。
かぐや姫の「気の毒に思った」という慰めにしても、他の4人と比べると破格の扱いである。
モデルの石上麻呂が、『続日本紀』で、死に際して「百姓追慕し、痛惜せざるなし(人々すべてが痛惜した)」とされる人徳の人であったことを反映しているとも考えられる。

この石上麻呂が、高松塚古墳の被葬者ではないか、という説がある。
奈良新聞によれば、石上麻呂をはじめて被葬者候補に挙げたのは、稲荷山鉄剣銘のスクープで知られる元毎日新聞記者の岡本健一京都学園大学教授である。
高松塚古墳の彩色壁画の男子像にさしかけられた深緑の蓋(キヌガサ)が、被葬者が一位の人物を示している。701~710年の間で一位に叙せられた人物はいず、平城京遷都以降に目を向けると、霊亀3(717)年に死んだ後、元正天皇が長屋王を遣わして一位を追贈したと『続日本紀』に記されている石上麻呂が浮かび上がる。
石上麻呂は、和銅3(710)年に藤原京から平城京へ遷都する際の藤原京留守司に任ぜられている。
平城京遷都が不比等を中心に推進されたとすれば、藤原京に残った左大臣の石上麻呂と、右大臣不比等の間に軋轢があったとも考えられる。

高松塚の被葬者は、発掘調査の際のX線撮影によって、頚椎に「変形性骨変化」が認められた。
鑑定にあたった研究者たちは、「頭部外傷歴や乗馬の習慣等を考慮したい」としているが、被葬者が石上麻呂であるならば、『竹取物語』に描かれた籠からの落下という挿話とうまく一致する。
諸説ある高松塚被葬者については、墓誌等がない限り確定はできないのであろうが、物語の元祖と位置づけられる『竹取物語』の記述が、一つの傍証となる可能性があるとすれば、実に面白いことだと思う。

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2007年9月22日 (土)

倭国のラストプリンセス?

かぐや姫は「倭国」のラストプリンセスだった、という説がある。
日本が昔「倭」と呼ばれていたことはよく知られているが、ここでいう「倭国」とは、古田武彦氏によって提唱された「九州王朝説」でいう「倭国」である。

古田武彦氏は、もともと親鸞の研究者だったが、昭和45(1969)年に、「史学雑誌」に『邪馬壹国』を発表し、「邪馬壹国説」をもって日本古代史分野に登場した。
「邪馬壹国説」とは、いわゆる「邪馬台国」の「台」の旧字の「臺」が、原文では「壹」になっており、この原文を改定すべきではない、とすることを出発点とするものである。
「壹」か「臺」かをめぐって「壹臺論争」が発生したが、古田氏は、関連論考をまとめて『「邪馬台国」はなかった/解読された倭人伝の謎』朝日新聞社(7112)という刺激的なタイトルの著書として刊行し、折からの古代史ブームも追い風となて、たちまちにして版を重ねることになった。

その後、『失われた九州王朝/天皇家以前の古代史』朝日新聞社(7308)、『盗まれた神話/記・紀の秘密』朝日新聞社(7502)、『邪馬台壹国の論理/古代に真実を求めて』朝日新聞社(7510)と続けざまに著作を刊行し、「古田史学」と呼ばれる独特の史観、通説とは全く相容れない一つのパラダイムを提示した。
「古田史学」の論点は多岐にわたるが、その根幹はおおよそ以下の通りである。

古代は、近畿天皇家に先行や並立する権力が存在した多元的な世界であった。その中で、およそ前2世紀から7世紀にかけて、九州北部に勢力の中心をもつ一つの王朝というべきものが存在した。
中国等の史書に登場する「倭国」は、この九州王朝のことである。九州王朝は、白村江の敗戦によって解体から滅亡への道をたどり、それに替って近畿王朝が「日本」として興隆し、日本列島を代表する王朝になった。

通説的な古代史の枠組みは、例えば坂本パラダイム(9月14日の項)のように、4世紀半ば頃には大和朝廷は一応の成立をみた、とするものである。つまり「倭」から「日本」へ「発展」するのであって、その間権力の中心は継続して大和に存在した。
一方、九州王朝説は、「倭」から「日本」へ、九州から大和へ権力の中心が「交代」するとするものであrから、通説とは全く相容れない異説である。
アマチュアには根強い支持者がいるものの、アカデミズムの世界では、現在に至るまで珍説・奇説の一種として黙殺に近い扱いを受けている。
しかし、草の根的な探究を続けるアマチュアによって、実り豊かな論証が多数生まれており、それらはスリリングな知的刺激に満ちている。
全く個人的な感想ではあるが、日本古代史のパラダイムは、遠からぬ将来、大きな変革をみることになるのではなかろうか。

それはともかく、古田史学を発展的に継承しようとしている室伏志畔さんは、かぐや姫は九州王朝・倭国のラストプリンセスだった、と説いている。
白村江の戦いと大東亜戦争―比較・敗戦後論 』同時代社(0107)から引用する。

藤原氏は692年の持統天皇の伊勢行幸皮切りに伊勢神宮を創出し、天武の宗教政策を一手に引き受けていた多氏(物部氏)からその祭祀権をもぎとり、さらに天武も手に入れることができなかった九州王朝・倭国東朝の神器(正式には神宝)の簒奪に乗り出します。それは草壁皇子の即位は挫折(病没)したものの、その子・軽皇子(文武天皇)の即位がにわかに現実味を帯びてきたからで、それに箔をつけるためにも是非とも必要であったのです。

しかしどのような手管を弄して大和朝廷はこの神器を得たのでしょうか。それこそがかぐや姫の物語が生まれた所以といえましょう。おそらくかぐや姫の正式の求婚者は帝で、名は伏せられていますが、先の五人の時代から考えるとそれは後の文武天皇以外ではありえないのです。その婚約の盛儀を境に神器は大和朝廷に移ったのです。しかし不比等の娘・宮子がこれと前後して入内し、文武との間に首皇子(聖武天皇をもうけたことは、持統の崩御が重なったこともあって、成婚の儀は永久延期となり、それに変ってその婚儀を整えた取り巻き五人が、あろうことかかぐや姫に群がったというわけです。
つまり三種の神器だけを大和朝廷は掠めて、かぐや姫のお輿入れはなかったことになったのです。倭国の主神が月読命で、その王朝がすでに滅んでいたことを考えるとき、かぐや姫の月昇天とは自害を意味するといえましょう。
(中略)
神器を得た大和朝廷は、その獲得を701年に晴れやかに大宝と建元し、名実ともに日本国の盟主となったのです。

「かぐや姫=倭国のラストプリンセス説」は、「かぐや姫=藤原宮子説」とちょうど逆の視点ということになる。
もし、かぐや姫が、倭国から大和朝廷への権力の転換の狭間にいたプリンセスだったとすれば、古代史にとってきわめて重要な位置づけを占めるものといえよう。
しかし、現時点では、九州王朝説そのものが、オーソライズされているわけではない。九州王朝・倭国論をベースとする「かぐや姫=倭国のラストプリンセス説」もまた、論証が不十分ではあるが、大いに魅力的な仮説の一つと考えておくべきであろう。

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2007年9月21日 (金)

帝とかぐや姫のモデル

5人の貴人については、加納諸平による比定を多くの論者が受け入れているようである。
それでは5人以外の登場人物には、モデルはなかったのだろうか。
『竹取物語』の主人公は竹取の翁なのかも知れないが、物語の背景や意味を考える上で重要なのは、かぐや姫と帝のモデルであろう。
以下では、帝=文武天皇、かぐや姫=藤原宮子とするについて見てみよう。

先ずは帝であるが、5人の貴人がいずれも文武朝の重臣であることを考えれば、帝のモデルは文武天皇と考えるのが最も自然である。
文武の前後の天皇は、9月7日の項「藤原不比等」の系図に示したように、持統-文武-元明-元正である。
文武以外は女帝だから、当然のことながら、かぐや姫の求婚者としては該当しない。このことからも、他の候補者は考えにくいだろう。
文武天皇は、25歳の若さで夭折しており、「不死の薬」を焼き捨ててしまった帝に通ずるものがある、と考えることもできる。

帝を文武天皇とすれば、かぐや姫候補としては、文武の後宮に関係した女性が有力になる。
『続日本紀』の文武天皇元年8月条の癸未の項によれば、文武の後宮には以下の3人がいた。
①藤原朝臣宮子娘(夫人)(藤原不比等の娘、母は賀茂比売)
②紀朝臣竈門娘(妃)
③石川朝臣刀子娘(妃)
通常は、夫人よりも妃の方が上に位置づけられるべきであり、この記載の順はおかしい。
しかし、和銅6(713)年11月乙丑の項に、「貶石川紀二嬪号不得稱嬪貶(石川・紀の二嬪の号を下げて、嬪と名乗れないようにした)」という記載がある。
これは、不比等が、宮子の子を次の天皇にするために謀ったものと考えられているが、こういう事情を考慮して、紀氏、石川氏出身の妃よりも、藤原氏出身の夫人を上位にしたものであろう。

かぐや姫は、帝の求愛を斥けたのであるから、もし、帝が後宮に召そうとしながら果たせなかった女性がいれば、その女性が最有力である。
しかし、上で見たように、2人の妃を嬪に落とし、さらには嬪を称することすら許されない、という元明の措置は、元明が亡き文武の気持ちを無視して行ったとも考え難い。
とすれば、文武にとっての女性は宮子以外には考えられないのではなかろうか。

それでは、果たして宮子は、かぐや姫のモデルとして相応しいであろうか?
とてもそうは思えないと考えられる。
第一に、宮子が不比等の娘であれば、貴族の娘であるから、竹取の翁に育てられたかぐや姫のモデルには整合しない。
しかし、梅原猛さんは、『海人と天皇』新潮文庫(9503)で、宮子が紀州の海女であったとする考証を展開している。
梅原説の当否は議論のあるところにしても、仮に梅原説をとれば、かぐや姫が下賎な翁に育てられたことと矛盾するものではなくなる。

また、宮子の没年は、天平勝宝6(754)年であり、若くして昇天したかぐや姫のイメージと一致しないだろう。
しかし、天平9(737)年12月の条に、宮子が「幽憂に沈み久しく人事を廃す。天皇(聖武)を産みてより、いまだかつて相見えたまわず」とある。
つまり、宮子は首皇子(聖武天皇)を産んだ後、世間と隔絶した生活をしていたわけで、それは昇天してしまったことと通じるものがあると考えることができよう。

さらに、宮子は文武の意を受け入れて首皇子を産んでいるから、帝の求愛を拒絶したかぐや姫とは決定的に異なっているように思われる。
しかし、宮子=海女説をとるとすれば、宮子は帝からすれば、異界の者ということになる。
月の国つまり異界から来たかぐや姫と共通する。異界の者が、帝の求愛を受け入れることはできないのであって、それはかぐや姫も宮子も同じである。

以上は、「そう考えればそうとも考えられる」という推論である。
しかし、かぐや姫のモデルが誰であったかによって、『竹取物語』の意味するところは全く異なってくるし、作者が誰であったかという推論も変ってくる。
上記の論者は、かぐや姫=宮子説から、作者を僧玄昉と推論している。
それについて触れることはここでは割愛するが、登場人物のモデルをどう考えるかということは、歴史像のシミュレーションという面からも無駄ではないと思う。

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2007年9月20日 (木)

『竹取物語』の作者は誰か?

『竹取物語』の作者について、竹取物語(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) (0109)の「解説」は、「いつ、だれが書いたのか、わからない」としている。
古来、作者に関するさまざまな説が提唱されてきたが、関連資料等の分析の結果、最近では、9世紀末(平安時代初期)の成立であろう、とする説に落ち着いてきた。

作者の候補として名前が挙げられているのは、源順(三十六歌仙の一人)、源融(嵯峨天皇の皇子で臣籍に下った)、僧正遍昭(六歌仙の一人)、紀貫之(三十六歌仙の一人、『古今和歌集』の編纂者の一人)、紀長谷雄(漢学者で大学頭)などで、いずれも仏典・漢書・和歌などに造型が深いが、誰かに特定できるだけの根拠がない。梅澤恵美子さんは、『竹取物語と中将姫伝説 』の中で、紀貫之や紀長谷雄などの紀氏説を推している。

古代の歴代の重臣の名前が記されている『公卿補任』によれば、奈良時代末までに常に閣僚を出している氏族として、大伴氏、石川氏(蘇我氏の後継)、石上氏(物部氏)、藤原氏、阿倍氏、多治比氏、紀氏、巨勢氏の8氏がある。
紀氏は、紀ノ川流域に勢力を張っていた豪族で、早くから大和朝廷と結びつき、中央貴族として活躍していた。
奈良時代に入ると、藤原氏は、閣僚ポストを複数占めるようになり、次第に権力を強めていく。不比等が娘の宮子や光明子の姻戚関係を通じ、天皇家と血縁を深めていったことによるものである。

奈良時代の末期に紀氏を母に持つ光仁天皇が即位し、紀氏の勢力が相対的に強まった。
光仁帝は、勢力を増しつつある藤原氏を牽制するためにも、意図して紀氏の登用を進めたという面もあったのだろう。
宝亀11(780)年2月1日、光仁帝は、太政官クラスの人事を発表した。
紀氏からは、紀広純が参議として入閣した。広純は、陸奥守を兼ねていたのだが、同年3月に起きた伊治公呰麻呂の反乱で殺されてしまう。

藤原氏は、承和9(842)年の「承和の変」や貞観8(866)年の「応天門の変」などを通じて、他氏を排斥していく。
その結果、紀氏は、9世紀半ばの藤原良房の時代には、政界から姿を消し、活躍の場を神職や文芸に求めざるを得なくなり、『古今和歌集』の作者の2割までを紀氏一門が占めるまでになる。

『竹取物語』に登場する5人の貴人の中で、特に悪意をもって描かれている感じがするのは、不比等がモデルとされる車持皇子だろう。
車持皇子は、「心にたばかりある人にて」と書かれている。
<たばかり>というのは、「相手に誘いかけて自分の思うようにさせる。また、だまし欺く。ごまかす」の意味であり、要するに、卑劣でずるがしこい人物ということである。
こういう書き方から、作者は、藤原氏と対立し、政界を追われた大伴、石川、阿倍、石上、多治比、紀、巨勢のいずれかではないか、とする推測が生まれる。

梅澤さんは、藤原氏による排斥で政治の世界から姿を消さざるを得なかった怨みを、紀貫之あるいは紀長谷雄が、かぐや姫に託したのではないか、としている。
つまり、『竹取物語』で、「いざ、かぐや姫、穢きところに、いかで久しくおはせん」と、穢き所と指弾された現世とは、謀略を巡らして他氏を排斥することに成功した藤原氏が支配する世のことだろう、ということである。

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2007年9月19日 (水)

5人の貴人のモデル

かぐや姫はもちろん、竹取の翁や媼は、物語の作者の想像力によって生み出された人物である。
しかし、かぐや姫に求婚する5人の貴人については、実在のモデルがいるといわれている。
江戸時代の国学者である加納諸平は、『日本書紀』の持統10年10月22日の条の下記の記載が元になっている、と考証している(上坂信男『竹取物語 (講談社学術文庫 269) 』(7809)。

正広参位右大臣丹治比真人に、仮に舎人百二十人を私用することを許された。正広肆大納言阿部朝損臣御主人・大伴宿禰御行には、それぞれ八十人を、直広壱石上朝臣麻呂・直広貳藤原朝臣不比等には、それぞれ五十人を許された。
(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫)』(8808))

阿部御主人、大伴御行、石上麻呂足は、(ほぼ)同名であり、比定に問題はないだろう。
阿部御主人は、大宝元(701)年3月21日に「正従二位」「右大臣」になり、大宝3(703)年に薨じている。
大伴御行は、壬申の乱に戦功があり、乱の後、「大君は神にしいませば赤駒の腹這う田居を都となしつ」と詠んで、天武天皇を現人神と称した最初の人であるが、大宝元(701)年正月に薨じている。
石上麻呂は、壬申の乱の功臣であり、大宝4(704)年に右大臣、慶雲5(710)年に左大臣に累進して、養老元(717)年3月に薨じている。「百姓追慕し、痛惜せざるなし」と『続日本紀』に記されている。
いずれも、位人臣を極めた人物といえる。

残りの2人はどう考えられるか?
石作皇子は、丹治比の一族に石作氏がいるので、丹治比真人と考えていいだろう。
車持皇子は、藤原不比等の母親が車持氏だから、不比等に対応していると考えていいのではないか。
以上が、加納諸平による5人の貴人の推定である。

実名から遠い名前で登場している石作皇子、車持皇子の2人は、5人の中でもどちらかといえば好感をもって描かれていない人物である。
石作皇子のモデルとされる丹治比真人嶋は、持統朝で右大臣、文武朝で左大臣であるから、不比等と同時代に勢力を伸ばした人だった。
つまり、この2人は、不比等体制を代表する人物ということになる。
その2人が好感をもって描かれていないとすれば、作者は、その体制を快く思っていなかった人物人だと考えられる。

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2007年9月18日 (火)

竹取物語

かぐや姫は、いうまでもなく『竹取物語』のヒロインの名前である。
かぐや姫の話は、日本人ならば誰でも子供の頃に聞いたり読んだりした記憶があるだろうし、『源氏物語』の「絵合」の巻において、『竹取物語』は「物語の元祖」と称揚されている。
「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」と始まる辺りは覚えているが、登場人物などについて、細かいところまで記憶している人は少ないのではないだろうか。
ここで、もう一度そのあらすじを振り返ってみよう。

竹を加工して製品を作って暮らしていた竹取の翁とその妻の媼がいた。
ある日、竹取の翁が竹林に出かけていくと、根元が光り輝いている竹があり、中に可愛らしい女の子が入っていた。
翁は、女の子を、自分たちの子供として育てることにした。そして、竹の中に金を見つける日が続くようになり、竹取の翁夫婦は、豊かになっていった。
女の子はどんどん成長し、3ヵ月ほどで成人並みの身長になったが、とても美しく、「なよ竹のかぐや姫」と名付けられた。

かぐや姫の噂を聞き、多くの男たちが、かぐや姫と結婚することを望んで、翁の家の周りをうろうろした。
最後までかぐや姫に執着した5人の貴人がいた。石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂足である。
翁はかぐや姫に結婚をすすめるが、かぐや姫は、5人の貴人に課題を出し、それに応えた人と結婚するという。

その課題とは、以下のようなものであった。
石作皇子:仏の御石の鉢
車持皇子:蓬莱山にある白銀を根とし、黄金を茎とし、真珠を実とする木の一枝
阿倍御主人:火鼠の皮衣
大伴御行:龍の首の玉
石上麻呂足:燕の子安貝

5人の貴人は、いずれもかぐや姫の出した課題に応えられない。
やがてかぐや姫の噂は帝の耳に届くところとなり、帝の使いが翁の家を訪ねるが、姫は会おうともしない。
帝は、翁へ官位を与えることを条件に出し、翁は喜ぶが、姫はそうさせるなら自分は死んでしまう、と言う。
帝が狩に出たふりをして姫の家に入ると、光が家中に満ち、帝が姫を宮中に連れて行こうとすると、姫の姿は突如消えてしまう。

3年ほど経った春のはじめ頃から、姫は月を見て物思いに沈むようになる。8月15日の仲秋名月に近くなったある夜、かぐや姫は、月の光の中でひどく泣いている。
そして翁に、「自分はこの世の者ではなく、月の都の者だが、前世の因縁で人間社会にやってきった。いま帰る時となり、やがて迎えが来る。お爺さんと別れるのがつらくて泣いているのです」と言う。

このことを聞いた帝は、竹取の翁の家に2000人を派遣して、姫を防衛しようとする。
子(ネ)の時ごろになると、翁の家の辺りが昼間以上の明るさに光り輝いた。
大空から人が雲に乗って下りてきて並んでいる。天人である。
天人が、「さあ、かぐや姫、穢れたところに、どうしていつまでもいらっしゃることが許されよう」と言うと、閉め切ってある戸が一枚残らず開いてしまった。
かぐや姫は、天人の持ってきた天の羽衣を着て、空に昇っていった。

別れに際し、姫は帝に、不死の薬を送った。
帝は、それを駿河の日本で一番高い山で焼くように命じた。それからその山は、「不死の山」と呼ばれるようになった。

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2007年9月17日 (月)

中将姫とかぐや姫

中将姫は美しく育ち、帝から求愛を受けるが、それを断り、光の中を浄土に消えていく。そのストーリーは、私たちが子どもの頃に親しんだ『竹取物語』とよく似ているといえよう。
実際に、梅澤恵美子『竹取物語と中将姫伝説 』三一書房(9808)は、かぐや姫のモデルは中将姫であり、『竹取物語』の作者が中将姫の生涯を、かぐや姫に姿を変えて世に出したのだ、としている。

梅澤氏によれば、中将姫とかぐや姫の共通性として、以下のような点が挙げられる。
①時代背景
共に藤原の世である
②誕生
中将姫:蓮の花の化身として
かぐや姫:竹の中から
③求婚
共に多くの貴族や帝から求婚されるが拒否する
④昇天
中将姫:天から菩薩が来迎し昇天
かぐや姫:天から迎えが来て昇天
⑤因果応報
中将姫:過去よりの怨みを含める悪しき因縁に苦しむ
かぐや姫:前世の因縁で(月の国から)穢き世に落とされた

梅澤氏によれば、藤原氏が権力を掌握していく根源に位置した光明子は、とり憑かれたように善行を繰り広げる。病者に薬を施し治療する施薬院や、貧窮者を収容・救済する悲田院などである。
光明子がことさらに“積善”を強調しなければならなかったのは、長屋王などの祟りに脅えていたからではないか。
その贖罪の意識は、中将姫に共通する。
つまり、中将姫を苦しめたのは、藤原氏のあり方であって、光明子が積善にとり憑かれたものと同根である。
かぐや姫が中将姫から発想されたものであるとすれば、『竹取物語』は、藤原氏批判の書としての性格を持っていることになる。

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2007年9月16日 (日)

すだち

知人からたくさんの「すだち」を頂いた。すだちは、WIKIPEDIA(9月6日最終更新)では、以下のように説明されている。

ミカン科の常緑低木ないし中高木。ユズの近縁種であり、日本では古来から馴染みのある柑橘類である。スダチの名は酢橘(すたちばな)に由来する。花期は5-6月頃で白い花を咲かせる。秋頃に果実が実る。青いうちに収穫し出荷するが、熟すとミカンと同様に黄色くなる。
徳島県の特産であり、県の花に指定されている。徳島県の中でも、鳴門市大麻町板東の中山間部において昔から
栽培され、昭和の時代には「大麻山の見えないところでは、スダチは育たない」と言われていた。

「すだち」は、ポン酢などに加工されているが、産業廃棄物として捨てられている皮などの搾りかすに、血糖値の上昇を抑える効果のあることが、徳島大学薬学部の高石喜久教授(生薬学)、土屋浩一郎助教授(薬理学)らのラットによる研究で明らかにされた(読売新聞060830)。
今後、人間でも効果が確認されれば、社会的関心を集めているメタボリック・シンドローム対策に有効なサプリメントの開発などに活用できる可能性がある。

食通として知られた作家の立原正秋さんは、「すだち」を、秋を代表する味覚としてこよなく好んでいた。立原正秋文学研究会編著『立原正秋食通事典』青弓社(9706)によれば、以下のようにさまざまな作品で「すだち」に触れている。

「すだちの秋」で九月のはじめに、四国から送られてくるすだちを冷蔵しておき、秋刀魚や松茸を焼いて、横に二つ割にして、その汁を絞りかけると初秋の香りがすると書いている。「秋の香り」では、<ことしは松茸は不作らしい。ずだちが待っているのに松茸が顔を見せないのは不都合だ>と書き、<合鴨鍋にもすだちをしたたらせる。味噌汁にも数滴、香のものにも、野菜サラダにも、すだちは味が中和する。カンパリの水割りに一切浮かべると、味がまろやかになる>ともいい、すだちの<数滴>を絶賛している。
(中略)
「旅のなか」の「モーツァルトと魚」では、柚子とすだちを比べて、香りも味もすだちの方が秀れていると書き、
(中略)
「徳島のすだち」では、<緑色の皮をうすく削ぎこまかく刻んでおくと、なんにでも使える。里芋の煮ころがしを小鉢に盛り、その上にこの刻んだのをかけてみたまえ。色合もよいが
味がまた格別である>と書き、徳島のすだちと共に秋を迎え、秋は舌の上からやってくる、ともいっている。

今の季節、焼いた秋刀魚に「すだち」を絞ってかけて食べることは、贅沢な喜びである。幸いにして、その喜びをしばらくの間楽しむことができる。
そして、頂いた「すだち」を知人たちにお裾分けし、この喜びの輪を広げることによってその喜びを何倍かに増幅することができる。

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2007年9月15日 (土)

藤原四兄弟と中将姫

9月7日の項の続き)
不比等の死後、不比等の後妻の県犬養橘宿禰三千代が、藤原氏にとって重要な働きをする。
三千代ははじめ美努(ミノ)王に嫁いだが、後に不比等の後妻となって、大宝元(701)年、安宿媛(光明子)を生んだ。
文武天皇の後は、草壁皇子の正妃だった母の阿陪(閉)皇女が即位して元明天皇となり、その次が文武の姉の氷高内親王が継いで元正天皇となった。女帝が続いたので、後宮の役割が大きい時代だったと考えられる。

安宿媛が首親王の妃になると、三千代にとっては、首親王は義理の娘(宮子)の子であり、かつ自分の娘の夫ということになる。
神亀元(704)年、元正天皇は皇太子首親王に譲位した。聖武天皇の誕生であるが、それは藤原氏の血の流れる天皇の誕生でもあった。不比等の死後4年目のことである。

2不比等の死後政治の実権を持った長屋王は、藤原氏による陰謀説が強い「長屋王の変」で自害し、聖武天皇と光明皇后、これをとりまく藤原四兄弟の時代となった。藤原四兄弟とは、以下の不比等の4人の息子のことである。(系図:虎尾俊哉『奈良の都』講談社(6812)
・藤原武智麻呂(ムチマロ) 680~737(藤原南家)
・藤原房前(フササキ) 681~737(藤原北家)
・藤原宇合(ウマカイ) 694~737(藤原式家)
・藤原麻呂(マロ) 695~737(藤原京家)

長屋王の死後、不比等の四子が政権を担っていた時代を、藤原四子政権と呼ぶが、旱害や飢饉が続き、盗賊が横行するなど、社会不安が増大した。
天平7(735)年には、九州で発生した疫病(天然痘の一種だと考えられている)が全国に蔓延し、2年後には畿内でも大流行した。
藤原四兄弟は、この流行に罹患し、房前が4月17日、麻呂が7月13日、武智麻呂が7月25日、宇合が8月5日と相次いで没した。

藤原四兄弟を失った藤原氏は、それを“長屋王の祟り”として怯える。
中将姫の父藤原豊成は、四子の長兄武智麻呂の嫡子であるから、藤原氏の直系である。
中将姫は、藤原氏の威勢が盛んな中に生まれるが、その背景にある藤原氏の罪を購うが如く、当麻寺で光の中を極楽浄土にへ向かったのである。

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2007年9月14日 (金)

坂本パラダイム

坂本太郎は、「大化改新の研究」で文学博士の学位を得た。それは、先行する津田左右吉の「大化改新の研究」を批判的に乗り越えようとするものであった。

津田は、戦前・戦中の皇国史観が絶対的な影響力を持っていた時代に、『記紀』の記載内容、特に神話の部分等に関し、厳しい史料批判を行った学者として知られている。
それは、歴史学の方法論としては当たり前のことではあったが、天皇制の正当性に触れるタブーを侵すものであり、昭和15(1940)年には、『古事記及び日本書紀の研究』などの著書が発禁処分を受けた。
その弾圧体験によって、敗戦後は、一転して軍国主義に屈しなかった進歩的学者として持ち上げられたが、昭和21(1946)年には、「世界」に天皇制擁護の論文を発表している。

坂本は、昭和20(1945)年12月に、東京帝国大学文学部教授に就任し、古代史学界をリードする立場に立った。
そして、敗戦により、皇国史観を主導してきた平泉澄らが辞職するなどして、混乱を余儀なくされていた東京帝国大学の国史学科を再建するのに貢献した。
坂本の立場は、津田が『日本書紀』の記載を否定的にとらえるのに対して、厳密な史料批判は必要としつつも、とくに大きな矛盾を生じない記載については容認するものといえる。

昭和24(1949)年~昭和34(1959)年の間、史学会の会長を務めるなど、学界全般に大きな影響力を持ち、「今日の『日本古代史』という分野の大枠を設定し、研究の方向性を明示する役割を果たした人物である」と評価されている。(吉田一彦『近代歴史学と聖徳太子研究』/大山誠一編『聖徳太子の真実 』平凡社(0311)所収)。
また、「坂本パラダイム」と呼ばれる認識の枠組みは、歴史教育にも取り入れられ、「古代史の部分は坂本説が教科書に書かれ、教えられたので、それが国民的歴史常識となっていった」とされる。(上掲吉田論文)

記憶を辿ってみると、高校時代の日本史の教科書は、坂本太郎の監修のものだったはずなので、私もまさに「坂本パラダイム」で教育されたことになる。
しかし、工学部を受験するつもりでいたこともあって、受験に必要な程度の勉強しかせず、本質を考えようという発想が無かったので(まあ、受験生はほとんどそうだろうが)、古代史に代替的な歴史像があり得るなどと考えてもみなかった。
また、その後、予定通り工学部に入り、エンジニアとして社会人になったので、日本史とはほとんど縁がない人生だった。だから、「坂本パラダイム」などという言葉を知ったのも、最近のことである。

「坂本パラダイム」を簡単に要約することは難しいが、ここでは坂本自身が平易に語った文章を引いてみよう(坂本太郎『国家の誕生』講談社(6811))。

(日本国家は四世紀半ばに一応の成立をみた。しかし、それは時とともに発展し、充実していく。)その姿は、あたかも、誕生してから、日とともに成長し、成人となる個々の人間に似ている。もし、この成人の日をむかえるときを、第二の誕生とするなら、日本の国家にも第二の誕生があった。それは、七世紀にあったとわたしは考える。
七世紀のはじめ、古代史上の偉人聖徳太子が現れた。太子は新しい国造りの理念を示した。その理念は半世紀の後に実現されて、唐にならった中央集権機構が完成し、日本は、強大な君権をいただいた国家に成長した。学問・宗教・芸術が栄え、他国におとらない文化水準に達した。
四世紀半ばに誕生し、三世紀を経て第二の誕生をむかえた日本古代国家は、ここに名実ともに整ったといってよい。

「坂本パラダイム」は、上掲吉田論文から引用すれば、日本古代史の発展過程を、以下の4つのフェーズに分けて理解するもの、ということになる。
①聖徳太子太子の新政
②大化改新
③律令国家の成立
④律令国家の崩壊

吉田氏によれば、「坂本パラダイム」のうち、④の平安時代の理解や②の改新之詔の理解については、多くの批判を受けて、もはや成り立たなくなっている。
また、①聖徳太子の新政についても、その実像について多くの疑念が呈されている。
しかしながら、大枠、つまり③律令の諸制度を中心に古代国家が成立する、という考え方は、未だ中心的位置を譲っていない。

聖徳太子の時代から、律令国家が成立するまでの時代とは、中国や朝鮮半島など東アジアが激動する中で、日本列島が震撼しながら、自律した国家を形成しようとした時代である。日本という国のアイデンティティを理解する上でも、きわめて重要な意味を持っていると思う。
現在も、グローバル化が進む中で、特に東アジア諸国との関係にさまざまな問題を抱えている。
その意味で、この時代の像を問い直すことは、今日的な課題でもあるといえるのではなかろうか。

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2007年9月13日 (木)

安倍辞任をめぐって

安倍首相が辞任した。
12日の14時、昼から開会する予定だった国会を開会しないで、緊急記者会見を開いて表明した。超ド級の「日本列島大異変」(8月18日の項)だろうが、この時点では、安倍続投が異変的なことだと考えていたのだから、遅きに失したと思う。
「晴天の霹靂」とは、こういうことを言うのだろうか?
辞書によれば、「晴天時の突然の雷。急に起こる事件。不意の衝撃の意。」とある。不意の衝撃ではあるが、晴天時の雷に譬えるのが適切かどうかは疑問だろう。今の日本の状況は、決して「晴天」とはいえないのではないか。

目にするコメントのほとんどが、「無責任」としている。
まあ、私もそう思う。
何しろ、先の参院選では、「総理に相応しいのは、(民主党党首の)小沢さんか、(自民党党首の)私か?」と二者択一的に問いながら、選挙後には、「政権選択の選挙ではないから」と言って、歴史的大敗の総括をやり過ごす。
内閣改造をした途端に、いわくつきの農水相ポストでミスをする(9月4日の項)。外遊先で、「『テロ対策特措法』の延長に職を賭す」と自ら退路を断ち、10日に召集された国会の本会議で「ここで撤退し、国際社会における責任を放棄して本当にいいのだろうか」と所信表明したばかりである。

誰が見ても、タイミングが悪すぎるだろう。
辞めるなら、参院選の結果が出た段階だった。8月12日の項では、「自民党の歴史的大敗」に触れつつ、祖父である岸信介元総理の言葉を借りて、「続投表明後の安倍総理の姿勢は、まさに「声なき声」を頼りに、「歴史の判断を仰ぐ」と言いたげにも見える」と書いた。
しかし、7月29日の参院選から1ヶ月半、この期間は何だったのだろうと思う。テロとの戦いに存在を賭けると言っていた人が、「自爆テロ」を敢行してしまっては、シャレにもならない。

もちろん、辞任を決した胸中の本当のところは、本人しか分からない。
辞任表明の記者会見では、小沢民主党党首との党首会談を断られて、テロ特措法の延長の見通しが立たなくなったことを、自分が首相をしていることが原因だから、辞任によって局面の転換を目指す、というような説明をしている。
しかし、党首会談にそんなに重きを置いていたとしたら、そのこと自体が如何かと思う。論戦ならば、国会の場で、ガラス張りの中でやればいい。
非公開の党首会談は、内容が全面的に開示されることが前提だったにしろ、密約などがあれば当然秘匿される。まあ一種の談合とも言えるだろう。

また、与謝野官房長官は、「健康上の問題があった」というような発言している。だとすれば、それは昨日や今日といった話ではないだろう。遅くとも、国会召集前に辞任すべきだと考える。
あるいは、某週刊誌が相続税に疑惑があるという記事を掲載しようとしていたという情報もある。真偽のほどは、今のところ分からない。
しかし、いずれも「いま、このタイミングで」という説明にはなっていないように思う。
いずれ、真相が明らかになるのかも知れないが、現段階では不可解というしかない。

精神的にかなり追い詰められた状態だったことは間違いないと思われる。
自身の信念として、あるいはブッシュ大統領との関係等において、「テロ特措法延長」は至上命題と認識していたに違いない。一方で、客観情勢は、とてもそれが叶わないと感じられただろう。
この狭間で煩悶したのだと想像される。
ある意味で、「偽装国家」(9月2日の項)における改革の建前と実体の矛盾が露呈したものだろうし、自己の政治理念と参院選での大敗という「理念と現実」(9月3日の項)の乖離に引き裂かれた結果であろう。

しかし、そもそも「テロ特措法」は期限付きの法律であって、それは国会が決めたことである。
国際公約というならば、その「期限付き」が公約だったと考えるべきではないのだろうか。
だから、安倍さんの煩悶は、第三者的にみれば、見当違いだった。
延長を至上命題と考えるならば、期限が来る前に十分な時間的余裕をみておくべきだった。
参院選の歴史的大敗で見通しが立たなくなったと判断したならば、その時点で辞めるべきだった。

東亜・太平洋戦争においても、敗戦の決断の遅延が、途方もなく犠牲を拡大した(8月9日の項8月10日の項8月15日の項)。
決して「美しい」とは言えない安倍さんの引き際を見ると、何事も、始めるよりも終わりにする方が難しい、と改めて思う。

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2007年9月12日 (水)

藤原宮木簡と郡評論争

『万葉集』の「藤原宮御井歌(巻1-52)」によれば、藤原宮は耳成山、畝傍山、香具山の三山に囲まれていることが分かる。だから、おおよその位置は分かるけれど、細かい場所については確定できず、論争があった。

江戸時代の国学者賀茂真淵は、高殿村の大宮殿という地にある土壇状の高まりが宮の中心だとする説を唱えた。
これに対し、大正初めになって喜田貞吉が、そこより西北方約700mの醍醐村長谷田が中心部だとする説を主張した。喜田の説は『扶桑略記』や『釈日本紀』の、「藤原宮は鷺栖坂の北にある」という記述を論拠としたものであった。
この議論は、黒板勝美(当時東大教授)によって創設された日本古文化研究所によって、昭和9(1934)年から始められた発掘調査により、大宮殿が中心であることが確認され決着する。
調査主任は、法隆寺の「再建非再建論争」(07年8月30日の項)でも重要な働きをした建築史家の足立康だった。
日本古文化研究所による発掘調査は、足立の死と東亜・太平洋戦争の進展によって、昭和18(1943)年に終了する。

藤原宮の発掘調査は、昭和40年代に再開された。この調査で、数多くの木簡が発見された。
木簡とは、木の札に文字を書き記したものである。文献資料の少ない古代の木簡は、当時の実態を示す史料として重要である。
藤原宮跡から出土した木簡が決定的な役割を果たした例として、「郡評論争」が有名である。
この論争は、昭和26(1951)年11月の史学会大会における井上光貞(元東大文学部長、当時東大教養学部助教授)の「大化改新詔の信憑性」と題する報告を発端とするものであった。

井上は、『日本書紀』の大化2(646)年正月条に記されている大化改新詔の用語が、大化当時のものではなく、後世の大宝律令によって大幅に修飾されていることを、地方行政単位のコオリ(郡)と、その役人の官職名の表記(郡司の大領・少領)を手がかりに論じたのだった。
『日本書紀』では、地方行政組織である「クニ-コオリ-サト」を「国-郡-里」と記しているが、特に「郡」については、『日本書紀』以外の金石文などでは、すべて「評」となっており、その役人も「大領・少領」ではなく、「評督・助督」という表記である。「郡」「大領・少領」などは、大宝令で初めて使用された用語であるから、大化改新詔は、大宝令によって大幅に修飾されている、と論じた。

これに対し、井上の師だった坂本太郎(当時東大教授)は、「大化改新詔の信憑性の問題について」(『歴史地理』83-1、1952)で、改新詔が大化当時のものであって、語句の改変は認められない、と反論した。
この後、井上-坂本の応酬だけでなく、多くの古代史家を巻き込んだ大論争に発展した。
直接の対象は、7世紀のコオリが「郡」か「評」かという地方制度の問題であったが、次のような大きな問題を包含するものであった。

第一に、大化改新詔の具体的内容はどうであったのか
第二に、『日本書紀』の記述の信憑性をどう判断すべきか

昭和41(1966)年から始まった藤原宮の調査で出土した木簡を分析すると、ちょうど大宝律令成立の大宝元(701)年を境にして、「評」から「郡」への転換が行われたことが明らかになった。
井上説が正しいことが証明されたわけである。
しかし、上記の「大化改新詔の具体的内容」や「『日本書紀』の記述の信憑性」については、まだまだ多くの課題が残されている。

論争の一方の当事者である坂本太郎は、「郡評論争」について、以下のように振り返っている(坂本太郎『史書を読む』中央公論社(8111)。

それにしても、改新の詔の第二条は、京都から国司・郡司などの地方行政機関を定めているが、そこで郡の範囲、郡司の任用方法などをこまかに述べている。この「郡」が当時の金石文では「評」と書かれている。そこで郡の部分は後の令文の転載で、改新の詔では評とあったのではないかと、井上光貞氏が言い出した。私は早速、『書紀』の天武・持統の巻のように史実と認められる部分にも郡の字が使われている実例を挙げて改新の詔に郡は存在したと反駁した。学界がいう郡評論争の始まりであるが、その後藤原宮から木簡が発見されて、大宝以前は郡に当る所に評の字が使われていることがわかって、私の説は誤りだということになった。
しかし、私はこれに対してどうも釈然としない。あの矛盾の多い『書紀』がどうして郡ばかり真剣にその文字を改定したか。少しは改定を洩らした痕跡でもありそうであるのに、それが見当たらない。また大宝令制に従って用字を改定する方針を貫くとすれば、ほかに改めなければならぬ記事はたくさんある。それらには手を触れないで、郡ばかりに熱心であった理由がわからないのである。

坂本は、日本古代史について、現在の通説となっている考え方の枠組みを設定した学者である。
それは、律令国家(律令制)の形成過程を中心として理解すべきである、とするもので、「坂本パラダイム」と呼ばれている。
「坂本パラダイム」の立脚点は、「六国史」(古代律令国家が編纂した6つの一連の正史。『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)であり、『日本書紀』については、前半の神話的な部分は別としても、7世紀の推古朝以降は、おおよそ史実に基づいた記述であって、特に天武・持統朝に関しては信憑性は確かなものである、というところにある。
だから、木簡の示す事実には理解を示しても、『日本書紀』の信憑性を揺るがすことになる「郡評論争」の帰結に、心から納得することができなかったのだろう。

それはともかく、藤原宮出土の木簡は、『日本書紀』という超一級史料ですら、木簡という一次史料に比べれば二次史料に過ぎないことを改めて示したものといえよう。
特に、信憑性が高いとされてきた天武・持統朝について、厳しい史料批判が必要であることが再認識されたわけで、古代史像形成の上でも、きわめて重要な論争であったということになる。

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2007年9月11日 (火)

藤原京の時代と皇統

朱鳥元(686)年9月に天武天皇が没した。
有力な皇位継承者候補として、鸕(ウ)野皇后(持統)を母とする草壁皇子と、鸕野皇后の実姉大田皇女を母とする大津皇子がいた。
草壁は、既に天武8(679)年の「吉野の盟約」によって事実上の天武の後継者の位置に立ち、天武10(681)年2月には立太子していたのだから、皇位継承候補の第一であったことは間違いないだろう。

しかし、草壁が、病弱で文武も凡庸だったのに比べ、大津は文武両道に秀でていて、人気が高く、しかも草壁立太子の2年後の天武12(683)年には、朝政を委ねられる立場になっていた。
これが天武の意向であったことは間違いないから、見方によっては、草壁への皇位継承は白紙に戻ったとも考えられる。
草壁を皇位に就けたい鸕野皇后は、天武が没すると、電光石火ともいうべき早業で大津に謀反の嫌疑を被せ、死に至らしめる。
この事件は、鸕野の謀略の疑いが濃く(8月31日の項)、それに藤原不比等が深く係わっていたらしい(9月1日の項)。

天武の殯は2年2ヵ月の長きにわたったが、持統2(688)年11月に終わり、皇太子草壁の即位儀式を待つばかりになった。
しかし、その草壁が、即位しないうちに、半年後の持統3(689)年4月に28歳で急逝してしまう。
草壁と妃の阿陪(閉)皇女(鸕野の異母妹)との間には、軽皇子が生まれていたが、まだ7歳であった。この時点では、天武の皇子たちの方が、皇位継承順位上優位な立場にあったとも考えられる。

鸕野は、自分の孫である軽皇子の成長をまって皇位を継承させようと考え、そのために自分が中継ぎをしようとしたのではないか、と一般に考えられている。
持統4(690)年正月、即位儀式が行われ、正式に天皇となった。
天武天皇の一番年長の皇子は高市皇子である。母が胸肩君という地方豪族だったので、当時の皇位継承序列では低かったが、壬申の乱の時には、全軍の指揮を任され、大きな役割を果たした。
そのため、持統も一目置かざるを得なかったものと思われ、天皇・皇太子以外では最高位の太政大臣に任命された。
ということを考えれば、高市皇子の存命中は、軽皇子の立太子は難しかったのかも知れない。

高市皇子は、持統10(696)年7月、43歳で亡くなったとされる。
しかし、『日本書紀 (5) (ワイド版岩波文庫 (234)) 』には、「庚戌に、後皇子尊薨せましぬ」という記述があるだけである。この「後皇子尊」を高市皇子であるとするのが通説であるが、「後皇子」にしても「尊」にしても、何ゆえにそういう書き方をしているのか、謎である。
高市皇子が亡くなると、持統は群臣を集めて皇太子の問題を論議させた。しかし、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかったらしい。
その時に、天智の皇子大友の忘れ形見の葛野王が、次のように主張したと『懐風藻』に書かれている。(高橋紘、所功『皇位継承 』文春新書(9810))。

我が国家の法たるや、神代より以来、子孫相承けて天位(皇位)を襲(ツ)げり。もし兄弟相及ぼさば則ち乱これより興らん。……然して人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。この外に誰か敢えて間然せんや。

つまり、日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとになる、というような意味である。
これは持統の意に添うものであるが、祖父の天智は、弟の大海人皇子ではなく、子供の大友皇子に皇位を継がせようとしていたこと、その大友皇子が壬申の乱で亡くなっていることなどを踏まえた発言かと思われるが、ここでも藤原不比等が入れ知恵をしたのではないか、とする説がある。
実際には古来から兄弟間での天皇位の相続は一般的であり、それについて弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝したという。

Photo_3結果として、弓削皇子も持統天皇の意向を呑み、軽皇子を皇太子とすることが決定した。
それはともかく、不思議なことには、軽皇子立太子の記事が『日本書紀』にはないのである。
『続日本紀』に、持統11年立太子という記事があるので、高市皇子薨去によって、立太子できる状況になったのだろうと推測されているのだ。

孫の成長を待ち望んでいた持統天皇は、持統11(697)年8月、軽皇子に譲位し、文武天皇が誕生する。軽皇子は15歳であった。
持統の悲願は文武の即位によって達せられたかのように見え、持統は大宝3(703)年に死去する。しかし、期待された文武は、慶雲4(707)年に25歳の若さで没してしまった。
文武と不比等の娘の宮子の間には、首皇子が生まれていたが、まだ7歳だった。
そこで、文武の母の阿陪(閉)皇女が即位し、元明天皇となる。子から母へという異例の皇位継承であったが、持統に倣い、孫の首皇子への皇位継承を図ったものと考えられている。(系図:直木孝次郎『万葉集と古代史 (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館(0006))

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2007年9月10日 (月)

茜ちゃん、おめでとう!

4_3 飯島茜さんが、日本女子プロゴルフ選手権コニカミノルタ杯でメジャー初制覇を果たし、3年間のシード権を獲得した。
先週のゴルフ5レディースに続く2週連続の勝利である。宮里藍、横峯さくら、上田桃子らの若手選手が華々しく活躍している中で、際立った戦績を上げてきたわけではなかったが、個人的には、2005年のステップアップツアー「SANKYOレディース」で初優勝した時から贔屓にしてきた選手だ。先ずは、「茜ちゃん、おめでとう!」と言わせて貰おう。

茜プロのプロフィールは、ゴルフダイジェストによれば、以下のようである。

幼少時代から運動神経に恵まれ、陸上、バスケットとあらゆるスポーツをこなし、13歳から本格的にゴルフに取り組み英才教育を受けた。
中学時代からその恵まれた才能を発揮。数々のアマチュアトーナメントにおいて輝かしい成績を収め、2003年には、「日本女子オープン」で10位に入り、セカンドアマを獲得。
(中略)
シード権を獲得して臨んだ2006年、「近未来通信クイーンズオープン女子ゴルフトーナメント」でツアー初優勝。若い世代の注目の一人として、目が離せないプレーヤーである。

初優勝の後、間を置かず2勝目をあげるかと思われたが、そう簡単ではなかった。
しかし、先週ようやく2勝目をあげたかと思えば、直ぐに3勝である。茜人気は一気に高まるものと思われるが、ファン心理というのは微妙なもので、華々しく活躍して注目度が高まるのが嬉しいのと同時に、目立たないでいて欲しかったような気もする。

身長157cm、体重50kgというから、決して恵まれた体格とはいえないだろう。
しかし、しっかり練習を積んできたという感じの美しいスイングである。父親の一男氏がビデオ撮影し、それをパソコンに取り込んで、ゴルフスイング解析用のソフトで解析し、フィードバックするのだという。
ゴルフの世界でも、ITが有力な武器になっていることを改めて感じさせられた。

茜プロの魅力は、その控えめな雰囲気とファッションセンスにあるといえよう。
昨日の優勝を決めたパットの後のガッツポーズも、大げさなものでなく遠慮がちだった。しかし、プロとして第一線で活躍しているのだから、控えめといっても見かけだけで、実際は気が強いのだろう。
プロだから戦績第一だとは思うが、女子プロはおしゃれであった方がいい。いくら強くても、女性としての魅力に欠けるのでは物足りない。

もちろん、私がファッションを云々することはお門違いもいいところなのだが、茜プロのセンスは女子プロの中でも群を抜いていると思う。
彼女自身がピンクが好きだと書いているが、昨日のコニカミノルタ杯の優勝ブレザーがピンクだった。
プレー姿は、黒のシャツと白のスカートだったが、黒のシャツとピンクのブレザーの取り合わせがとても映えていた。
優勝ブレザーを意識して黒のシャツを着用していたとすれば、それもなかなかではないだろうか。

オフィシャルサイトは
http://akane-iijima.jp/

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2007年9月 9日 (日)

藤原京の意義

都市の定義にもよるが、藤原京は、わが国で最初に作られた都市であった。
7世紀以前のミヤコは、天皇の代替わり毎に移転するのが普通だった。ミヤコとは宮のある処、つまり天皇の居る場所を示す言葉だったから、天皇が代わり、その居所が移れば、ミヤコが変るのは当たり前とも言える。
大和朝廷を構成する有力豪族(氏族)がいくつかあり、氏族ごとに定まった仕事(蘇我氏は蔵の管理、物部氏は軍事や武器の保管、中臣氏は宮廷の祭祀を担当など)を分担しながら、全体として朝廷の運営にあたっていた。
仕事は氏族が単位となっていたから、天皇の居るミヤコはそれほど大きなものでなくともよかった。

推古朝の頃(6世紀末~7世紀初頭)になると、しだいに朝廷の組織が大きくなり、天皇の居所の近くに集中するようになってきた。
われわれが学校で教えられた頃は、推古朝は、聖徳太子が摂政として国政を担当したことになっていたが、聖徳太子についての『日本書紀』の記述には、とても事実とは思えないことが多い。
それはともかくとしても、朝廷の組織が整備されてきた時期と考えられている。
推古天皇は、飛鳥豊浦宮で即位し、後に小治田宮に移った。共に、今の明日香村の中である。
その後、持統が藤原宮(橿原市)に移るまでのおよそ100年間、宮の位置は飛鳥という狭い範囲に限られていた。いわゆる飛鳥時代である。

壬申の乱を勝ち抜いた天武は、律令国家建設の一環として、本格的な都城の造営を計画し、それが持統朝に引き継がれて完成したのが藤原宮である。
藤原宮は、天皇の代替わりと関わりなく営まれる固定された恒久的な宮であった。
結果的に、持統・文武・元明の三代で遷宮することになったが、それまでの宮とは全く設計思想が異なるものだった。

藤原宮は、宮内の中心的な建物である大極殿が初めて成立した宮であった。大極殿は、国家的な儀式の際に、天皇が出御する殿舎で、宮の中で最も重要で大規模な建物である。
また、藤原宮は、宮の外側に碁盤目状の道路によって区画された条坊を設け、そこに官人たちを居住させた京(すなわち藤原京)を伴う最初の宮であったと考えられている(前期難波宮や近江大津宮にも京があった可能性はある)。
律令国家の成立によって、豪族の配下で仕事をしていた官人が、直接天皇に仕える官僚になり、宮の近辺に居住することが必要になったことが京を成立させた。

都市とは何か。
いろいろな考え方があるだろうが、寺崎保弘『藤原京の形成 (日本史リブレット) 』山川出版社(0203)は、単に人口が集中する場というだけでなく、生産活動に直接従事しない人々が多数住んでいて、消費生活を営んでいることが不可欠の条件であるとする。
その意味で、多数の官人が半ば強制的に居住させられ、毎日宮司に通う官僚となり、それが中心的な住民となった藤原京こそ、わが国最初の都市であるということができる。

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2007年9月 8日 (土)

藤原宮大極殿跡の発掘

01_3奈良県文化財研究所が、奈良県橿原市の藤原宮(694~710年)跡で、天皇の政治の場だった大極殿の南にある正門の遺構が見つかったと、発表したことが報じられている(7日各紙)。

藤原宮への遷都は、持統8(694)年に行われるが、既に天武天皇の時代から計画されていたと考えられている。
天武の病気や死によって造営が遅れ、持統の即位後に本格的に着手された。『日本書紀』の持統4(690)年10月条に、「壬申に、高市皇子藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり」とあり、12月条には、「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とある。
また、8年12月条に「藤原宮に遷り居します」とあって、このとき飛鳥から遷都されたことになる。

藤原京は、和銅3(710)年に平城京に遷都するまで、持統・文武・元明の三代の都だった。
国内初の都城制の都とされ、大極殿・朝堂は、大和の古道中ツ道と下ツ道の中央に位置している。
藤原京の中軸線をまっすぐに南下させると、天武・持統合葬陵につきあたる。いわゆる「聖なるライン」である。

今回見つかった正門跡は、国内の宮殿や寺社の門としては最大級だという。
門前の広場は、律令政治の重要な国家儀式が行われたとされている。
『続日本紀』の大宝元(701)年の条に、以下のような記載がある。

大宝元年春正月乙亥朔、天皇大極殿に御して朝を受く、其の儀、正門に於いて、烏形の幢を樹つ。左に日像青竜朱雀の幢、右に月像玄武白虎の幢、蕃夷の使者は左右に陳列す。文物の儀は是に於いて備れり。

大宝元年は、大宝律令のできた年であるから、「文物の儀は是に於いて備れり」はそのような状況をいっていると考えられる。
正門は、大極殿の南約55mにあり、役人が政務にあたった朝堂院につながっている。
基壇の規模などから、正門は東西約35m、南北約10mの平屋と推定されている。門の南北に東西幅約25mにわたる幅広い階段が付けられ、見栄えを良くしている。
北側の階段の最下段とみられる11個の石材が出土し、兵庫県の加古川流域で産出する竜山石が用いられていたことが分かった。
基礎になる地面は、基壇よりひと回り大きい範囲を1m以上掘り下げ、土を入れて突き固めながら埋め戻す工法で地盤を固めていた。

今回の発見により、正門がこれまで考えられていた規模より大きく、門というより殿堂のように立派な建物だったことがはっきりした。
当時の門が、通り抜けるだけでなく、大宝元年正月の賀に見られるように、儀式の場でもあった。
天皇が臣下に権威を誇示する効果も考え、大きく立派な建物を入れて作ったのではないかと思われる。

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2007年9月 7日 (金)

藤原不比等

8月29日の項の続き)
中将姫は、藤原豊成の娘である。藤原氏は、もとは中臣氏といって、神事をもって朝廷に仕えてきた家柄であった。
中臣氏が藤原氏になったのは、中臣鎌足が亡くなる前日に、天智天皇がその功績を称えて、藤原の氏を賜ったということになっている。
鎌足の長男は定恵といい、遣唐使と共に唐に渡って仏教を学んだが、帰国してすぐに亡くなった。唐に渡ったのが10歳、亡くなったのが23歳とされており、その実像は分からない部分が多い。

2_6 鎌足の次男が不比等である。定恵と不比等は16歳違いで、不比等は、定恵が亡くなったとき7歳、鎌足が亡くなったとき11歳だった。
また、壬申の乱が14歳のときで、大津皇子が謀反の嫌疑で死を賜ったときが28歳だった。
大津皇子処刑に不比等が係わっていたはすだ、という上山春平さんの推測を9月1日の項に記したが、文武天皇が即位するまでの不比等に関してはほとんど史料が残されていない。

文武天皇が即位した翌年、藤原氏を名乗ることができるのは、不比等とその一家だけに限られることになった。
例えば、大伴氏は軍事を担当し、中臣氏は神事を担当する、というように、氏(ウジ)にはその氏が担当する職務が決まっていた。
しかし、藤原氏は、天智から賜った新しい氏であるから、そういう伝統から自由であった。つまり、神事に係わる仕事は中臣氏の担当となり、伝統から自由でしかも名誉ある氏は不比等の一族が独占することになった。
鎌足が藤原氏を名乗ることができたのが、わずか1日であったことを考えれば、藤原氏は実際的には不比等から始まったといっていい。
『日本書紀』の編纂に不比等の意向が反映されているとされており、天智が鎌足に藤原の氏を賜ったという『日本書紀』に記載されている経緯も、不比等によって造作された可能性が高い、と考えられる。

文武元(697)年、持統天皇は孫の軽皇子に譲位して、太上天皇となり、軽皇子は文武天皇となった。
文武天皇が即位するとすぐ、不比等は娘の宮子を文武の夫人とした。文武は皇后や妃を置かなかったから、宮子が事実上の皇后だった。
宮子は、首皇子を生む。後の聖武天皇である。
さらに、不比等は後室橘三千代の娘の光明子を首皇子に嫁がせ、皇室との間の姻戚関係をより深いものとした。
文武天皇は、慶雲4(707)年に25歳で崩御するが、首皇子はまだ7歳だったので、母の阿閉皇女が元明天皇として即位した。

文武4(700)年3月、文武天皇は、刑部親王、藤原不比等らに命じて律令の編集に着手させ、翌大宝元(701)年、律6巻、令11巻の大宝律令が完成した。
不比等は、律令国家形成という時代の要請の中で、大宝律令に深く係わることによって権力を把握して行った。
また、『日本書紀』の全体にわたる編纂責任者であると考えられている。
『日本書紀』は、漢文で書かれており、中国や朝鮮半島などの外国を意識して、日本の独自性を主張するものであったとされる。
その独自性とは、神道を基盤とする天皇制(国体)であり、戦中まで継続された国家観は、不比等の発案になるもの、ということになる。
養老4(720)年、『日本書紀』が完成するのを見届けるかのように死去。淡海公を贈諡される。(系図参照)

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2007年9月 6日 (木)

偽装の原点?

9月2日の項の続き)
永躰典男『日本の偽装の原点は古代史にあり』ブイツーソリューション(0705)という本を読んだ。
「まえがき」に、今の日本の世の中に溢れている偽装は、『日本書紀』や『古事記』以来継続されているものだ、と書いてある。
偽装も古代史も、いま関心を持っているテーマだから、期待して読んだ。
帯には、「古代史偽装の発案者は藤原不比等であり」と書かれているが、本文を読んでみると、不比等に触れている部分はない。
「あとがき」に、「今回は」とか「次回は」と書いてあるので、その辺りは次回に触れるということだろう。

著者は、埼玉県行田市にある「さきたま資料館」で、「ワカタケル大王=雄略天皇(大王)」と書かれているのを読む。
そして、それがどうしても受け入れられなかったことをきっかけとして、日本古代史の文献を渉猟し、従来の定説に大きな疑問を抱くようになった、と書いている。
しかし、そもそもなぜワカタケル=雄略説に疑問を持ったのかの説明が不十分でよく分からない。
著者は、「ワカタケル大王=欽明天皇(大王)」とする石渡信一郎氏の説を正しいと評価しているのであるが、その論証過程が明快でないのだ。

中国の史書『宋書によれば、讃・珍・済・興・武と称される倭王がいて、中国の冊封体制に入ることを求めた。
西暦でいえば、421~478年にわたる。
最後の武の上表文には、「自分の祖先は苦労して周辺諸地域を征服したが、高句麗が中国への朝貢を妨げてきた。自分が中国に忠節を尽くせるように、自分が要求する官位を授与していただきたい」というような内容のことが立派な文体の漢文で記されている。
中国吉林省にある公開土王(好太王)碑文などにも、倭と高句麗の間の衝突の様子が記されていることなどから、当時、倭と高句麗が争っていたのは事実だと考えられる。

この武の上表は中国王朝に受け入れられるところとならず、倭は中国の冊封体制から離脱する。
讃から武までの倭の五王を、『日本書紀』や『古事記』に記載された系譜とどう関連づけるか、多くの議論が重ねられているが、五王のすべてをうまく比定することができない。
古代史における大きな謎の一つとされている。

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に、ワカタケル大王と読める部分がある。また、熊本県の江田船山古墳出土の太刀銘にも、ワカタケル大王と読める部分がある。
とすれば、ワカタケル大王は、東国から九州までをその勢威下に置いていたと理解される。
『日本書紀』では、雄略天皇の和風諡号を大泊瀬幼武としている。幼武は、ワカタケルと読めるから、ワカタケルは雄略のことと考えていいだろう。
また、『万葉集』の巻頭には、太泊瀬稚武天皇(オホハツセワカタケノスメラミコト)の「籠もよ御籠持ち……」の歌が置かれている。この天皇が何らかの画期を作りだした大王だったことを感じさせる。
つまり、ワカタケル=雄略は、治天下大王として中国の冊封体制から離脱した天皇(大王)だったのではないか。
とすれば、倭王武=雄略=ワカタケルとなる。これが現在の多数派説である。

著者の言うように、日本の古代史には、曖昧であったり不可解であったりすることが数多い。
それが『日本書紀』や『古事記』の記述に起因する、という指摘も納得できる。
しかし、日本古代史の理解の根幹に係わる問題であり、『記紀』の記述を「偽装」と論難するからには、緻密な論証が求められるはずだ。
残念ながら、この書だけでは十分に説得的とは言い難い。
また、全体として「ですます」と「である」体が混在していて気になるし、論理構成を辿り難い。
論理は文章で表現されるから、論理が明晰であるためには、文章が明晰でなければならない、ということだろう。

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2007年9月 5日 (水)

瀬島龍三氏の死/追悼(1)

瀬島龍三氏が、昨日95歳で亡くなった。
富山県の農家に生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した。陸大は首席で、昭和天皇から恩賜の軍刀を賜った。
東亜・太平洋戦争では大本営参謀として作戦立案を担当、敗戦直前に関東軍参謀に就任した。
戦後はソ連軍の捕虜になりシベリアに連行され、約11年間の抑留生活を経て、昭和31(1956)年に帰国。
昭和33(1958)年に伊藤忠商事に入社し、航空機商戦などで手腕を発揮し、取締役に就任。副社長、副会長を経て、昭和53(1978)年に会長に就任した。
昭和56(1981)年には、中曽根行政管理庁長官(当時)の要請で第二次臨時行政調査会委員に就任し、土光会長を支え、3公社(国鉄、電電公社、専売公社)の民営化を導いた。

華麗な履歴というべきだろう。
戦中・戦後レジームを通じて、時代の重要課題に係わり、敏腕を振るった。
山崎豊子さんのベストセラー『不毛地帯』は、シベリア抑留から帰った商社マンが国際商戦で活躍する小説だが、主人公の壱岐正は瀬島氏がモデルである。
陸軍大学校を首席で卒業した「秀才中の秀才」は、大本営においても、総合商社においても戦略策定の中心に位置し、その情報分析と情勢判断は、「瀬島神話」とも言われる評価を得た。

確かに、優れた参謀だったのだろうと思う。一方で、果たしてその戦略は正しかったのだろうか、という疑問が湧くことも否定できない。
われわれの世代からすれば、東亜・太平洋戦争は、もともと勝てる見込みなどなかったように見える。
戦死者の半分以上が餓死者と言われるように、ロジスティックスへの配慮が足りないし、非戦闘員の多くの市民が犠牲になっている。
もちろん、一参謀の責任とはいえないだろうし、当時の参謀本部の判断のあり方や、ラインへの影響力がどの程度あったのかも考えなければならないだろう。
しかし、そもそも戦争の全体(開戦から終結)に関して、どのような戦略構想があったのか、あるいはなかったのか。瀬島氏を含め、当事者だった人たちが総括して、分かりやすく後世に伝えるべき責務を負っていたのではないかと思う。

シベリア抑留中は辛苦をなめたであろうことは想像できる。
シベリア抑留に関して、関東軍とソ連極東軍の停戦交渉の過程の中で、将兵の労務提供に関する密約があったのではないか、それに瀬島氏が係わっていたのではないか、という疑惑を持たれたことがある。
これについては、スターリンが、日本軍兵士の連行を指示した秘密指令文書なども発見されているので、瀬島氏らが関与した密約などは、なかったのだろうと思う。
しかし、抑留時代の実相については、瀬島氏が多くを語らなかったことも含め、よく分からないことが残されたままになってしまった。

伊藤忠時代の手腕についても多くのサクセス・ストーリーが残されている。
例えば、戦術しかなかった伊藤忠に戦略を持ち込んだ、と評価されている。確かに、繊維商社の色合いが強かった伊藤忠が、総合商社に発展していく過程で、瀬島氏の果たした役割は非常に大きなものだったのだろうと思う。
企業参謀の一つのモデルであったことは間違いない。
一方で、瀬島氏に注入された攻めの社風が、大規模不動産開発などの負の遺産を生んだ、ということも言われている。
もちろん、一つの事象には、必ず光の面があるのと同時に影の面があるだろう。
だから瀬島氏の評価が二分されることは当たり前のことでもある。

今年の点鬼簿には、宮沢喜一氏、宮本顕治氏、瀬島龍三氏という、戦中・戦後レジームの異なる側面を代表する人たちの名前が載ることになった。
それぞれ有為転変の人生だったというべきだろうし、それぞれの分野で湧源として活躍し、多くの業績をのこされた人たちだと思う。
しかし、これらの人たちの名前を見ると、「戦後レジーム」をどう評価するかは別として、時代が確実に転換して行っていることを実感する。
そして、改めて、生あるものは必ず終わりの時を迎えるものだな、と思う。
合掌。

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2007年9月 4日 (火)

不正の温床

「またしても……」ではあるが、改造安倍内閣の遠藤武彦農水相が、辞任せざるを得ないことになった。
自身が理事長を務める農業共済組合が、補助金を不正に受給していた件が発覚したことによる。8月27日の改造から僅か1週間である。
自殺した松岡利勝氏、絆創膏の赤城徳彦氏に続くものだから、安倍首相にとって、農水相は鬼門なんだろうとか、「二度あることは三度ある」などと言っている場合ではないようだ。

今回の事件は、遠藤前大臣が理事長を務める「置賜農業共済組合」(山形県米沢市)が 、国から補助金を不正に受給していたというもので、会計検査院から2004年に指摘を受けながら、国庫に返還されていなかったという。
農業共済組合の理事長が農水相に就任すること自体如何なものかと思うが、指摘を受けていながらも返還していないのであるから、過失だったという言い訳は通用しない。
松岡氏もそうだったのだろうが、行政に影響力を持つ族議員と呼ばれる政治家が、業界団体に補助金を給付するように誘導し、当該団体から献金を受ける。典型的な癒着の構造である。

この夏、文字通り猫の額ほどの面積ではあるが、野菜作りにトライした。ナス、トマト、ピーマン、インゲン、オクラ、ネギ、ニラ……と、まあ家庭菜園の定番的なものばかりである。
それでも、ほぼ自分たちで食する分程度は賄うことができた。何よりも、種を蒔いたあと、芽を出し、あるものは勢いよく、あるものは遅々とした感じで、成長していくのを観察すること自体が楽しみである。
まして、それを食卓にのせて味わうときには、多少見た目は冴えなくても、何と言っても生産者の素性がはっきりしている産直品であり、そこに心理的な満足感も生まれてくる。
「農」というには程遠い体験であるが、食材について思いを新たにしていたところだった。

しかし、食材の生産を「業」としてやるとなると、全く別の状況になるだろうことは容易に想像できる。
天候の影響、市況の見通し、省力化のための投資の判断、海外生産品の動向、マクロな産業構造との関連、後継者問題……、課題が山積しているだろう。
もちろん、それは農業に限らず、ほとんどの職業で起きてくる問題ではあるのだが。

人間は、「食」なくしては生きて行けない。
食糧を安定的に供給すること、しかもそれを可能な限り公平に、安全に行うことは、いつの時代でも最重要の政策テーマである。
だから、農業の保護・育成の努力が続けられ、その結果さまざまな規制や補助金など助成措置が生まれた。
利権と裁量の構造である。
しかも、土地と切り離せない産業なので、地域振興など多くの政策課題と関連してくる。
農業行政は、もともと不正の温床となり易い素地を持っているといえよう。

であればなおさら、政治の責任者は、「李下に冠を正さず」という言葉もあるように、疑いを招くような行動はしてはならないはずだ。
しかし、遠藤前大臣は、冠を正すどころか、李に直接手を出している。
普通に考えれば、そんなことバレないはずがないではないか。どうして平然と任命を受けたのか不可解であるし、任命する側も事前に分からなかったのかがむしろ不思議である。
それにしても、安倍首相が、辞職は本人の意思と強調しているのも解せない。はっきりと、「更迭した」と言い切るべきではないか。
今回の更迭劇は、与謝野-麻生ラインのイニシアティブで進められ、安倍首相は蚊帳の外だったという。
勘繰れば、安倍倒閣のための謀略ではないか、という気さえしてくる。

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2007年9月 3日 (月)

理念と現実

勝谷さんは、現在の日本社会に氾濫する諸種の偽装は、本音(実体)と建前が乖離しているところに原因があるとしているが、石原慎太郎東京都知事が、今日の産経新聞に、『理念と現実』という一文を寄せている。
1回/月の「日本よ」という連載コラムである。
石原さんの小説は好きだが、その政治姿勢には賛同できないことがしばしばある。しかし、今日のコラムは、私の関心と重なるところが多かった。

石原さんは、文頭で、先頃亡くなった城山三郎さんが、「戦争に負けていろいろな抑圧から解放され、空がこんなに高く明るいものだと知らされた」とTV番組で述懐していたことを紹介する。
そして、石原さん自身、敗戦時に逗子に住んでいて、目の前の海岸が本土決戦に備える準備で、立ち入り禁止だったことが、遊び盛りの子供だった石原さんにとっては業苦だった思い出に触れている。城山さんと石原さんは、「敗戦による解放感」という体験を共有していたわけだ。
そして、戦争中の抑圧をもたらした日本社会は、天皇の神格絶対化を含めて、一種の狂気に囚われていたとしか思えない、という。

戦後の日本社会は、戦争中の抑圧への跳ね返りとして、個人の自由と権利主張を容認し続けてきた。
その結果が、石原流に言えば、「もはや成熟とはいいきれぬ社会の糜爛」である。
石原さんは、戦中も戦後も(現象は全く異なるが)、ある種の理念の追求がもたらした結果であるとする。
そして、その理念とあいまみえる、場合によっては対立する現実との相克があり、それは個人的現実と社会的現実の相克と似通っている。

人間は理念を持たなければ、人間として生きていることにならない。
しかし、人間社会は、結果的に理念離れした現実をつくり出してしまう。言い換えれば、理念と現実の相克は、人間の歴史そのものである。
例えば、原爆の父オッペンハイマーは、アメリカ人としての愛国心から原爆を開発するが、その余りの破壊力にショックを受け、水爆の開発については拒否した。
そのことにより、オッペンハイマーは、共産主義者ではないかと疑われ、いわゆる赤狩り旋風の中で孤立を余儀なくされるのだ。
愛国心と悲惨な結果、悲惨な結果に対する良心の反省とそれに対する社会的な圧力、オッペンハイマーを襲った相克は複合的だった。

理念と現実の相克は、個体としての人間だけでなく、歴史にも常に起きている。
ルーズベルトに日本への参戦を促されたスターリンは、日本に大軍を送るため、シベリア鉄道の輸送力を高めて準備した。
しかし、ルーズベルトの後継者トルーマンは、ソ連の参戦を回避するために、参戦前に原爆投下して日本を降伏させることを決意する(8月9日の項)。
かくして、広島と長崎に原爆が投下され、かつてない惨状がもたらされたが、それでも日本は降伏をためらっていた。
そのため、ソ連の参戦を許し、北方領土を失った(8月10日の項)。しかし、辛うじてソ連が本土に侵攻するのを防ぐことができ、日本は分断国家になることを免れた。

そのことと原爆投下による惨害をどう比較考量するのか。あるいはできるのか。
理念と現実との相克は不可避である。そして、最終的には現実に寄り添うしか生きる道はない。
確かに理念なくして人間的存在の意味はないが、理念を原理主義的に信奉することは危険である。優秀な(?)理系の学生を吸引したオウム真理教にしても、ライブドアやMファンドなどの市場主義者もその轍を踏んでいるのではなかろうか。
戦前・戦時中の皇国史観も同じことだろう。
理念は大事にしたいが、原理主義の危険性については、常に心しておくようにしたいと思う。
理念と現実のバランスを、どこでどうとるか、「人間学」というようなものを考えるとしたら、それが最重要のポイントではないだろうか。

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2007年9月 2日 (日)

偽装国家

「白い恋人」の賞味期限改竄のニュースには、多くの人が「お前もか!」と思ったのではないだろうか。
同じ北海道のミートホープ社の食肉偽装事件の記憶が未だ生々しいが、「白い恋人」も、1996年から、賞味期限の改竄を日常的に行っていたということだ。

「白い恋人」は、私も北海道に行ったときに土産として買った記憶がある。
北海道のイメージに似合ったネーミングとパッケージ、そして北海道限定販売といったマーケティング戦略が功を奏して、高い知名度を獲得していた。

「白い恋人」は、石屋製菓という会社が製造元である。
当初、オーナーの石水社長は、「私は知らなかった」と言っていたのだが、長期にわたる改竄を認識していたことを認めざるを得なくなり、結局、引責辞任という形になった。
振り返ってみれば、ここ数年、偽装事件のオンパレードだ。

大手食品会社が輸入牛を国産牛と偽装。建築士がマンションの構造計算を偽装。政治家が事務所経費や学歴を偽装。進学校が必修単位の履修を偽装。新興企業の期待の星が決算を偽装。考古学の研究者が遺跡を偽装・・・
数え上げれば切りがない。
そういう状況を勝谷誠彦さんは『偽装国家―日本を覆う利権談合共産主義 』扶桑社(0703)と呼ぶ。

勝谷さんは、テレビのコメンテーターとして活躍しているが、もともとは旅のエッセイなどを書いてきた(いる)人だ。
いつか旅するひとへ』潮出版社(9808)という本を読んだとき、テレビでのアグレッシブな印象と違って、繊細な感覚の持ち主だと感じた記憶がある。
勝谷さんは、偽装が発生するのは、本音(実体)と建前に乖離があるからだ、とする。本音(実体)と建前が乖離していれば、そこに裁量と利権が生じ、談合が生まれる。
本音(実体)と建前の乖離は至るところにあるだろう。だから、偽装の材料は尽きることがない。

勝谷さんは、政界で「改革」という言葉が氾濫している状況を、「偽装改革」だとする。
その典型例が、郵政総選挙だ。
離党させ刺客まで送った造反議員の復党を認めるのは、検査のときだけ違反状態を正し、検査が終わったら元に戻すのと同じことではないか。
あるいは、飲酒運転の検問を通りすぎてから居酒屋の駐車場に車を乗り入れて、じっくり飲むようなものだろう。

8月29日に発表された改造安部内閣の副大臣の中に、4人の郵政造反組がいる。
復党から完全復権へ、ということだろうか。
まあ、もともと自民党は「何でもアリ」だから、想定の範囲内とも言えるが、勝谷さんの選挙を検査に喩えるアナロジーは、その通りだろう。
偽装国家の耐用年数は既に終わっている。

本音と建前が一致した国家は「実質国家」で、実質国家への転換を急ぐべきだ、という意見には同意するが、自分について考えてみても、本音と建前が乖離していることがしばしばあるのを否定できない。
程度の問題ではあるが、実質国家への転換は簡単ではないと思う。

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2007年9月 1日 (土)

大津皇子処刑の背景・・・②上山春平説

上山春平さんは、京都大学人文科学研究所長などを務めた哲学者であるが、戦中派の一人として、天皇制の問題に深い関心を寄せている。その関連で、日本の国家形成史に関する論考も数多い。
埋もれた巨像』岩波書店(7710)は、日本が国家として生成していく過程における藤原不比等の役割について論じた書であるが、その中に、大津皇子処刑に関する箇所がある。

大津皇子処刑は、余りにも段取りが良すぎるように思われる。その実像はどういうことだったのだろうか。
大津皇子処刑が謀殺だったとすれば、これほど迅速な処置を行うには、かなり慎重な準備が必要だったはずだ。
しかし、大津皇子は、天武の皇子たちのなかでもとくに人望があったので、大津排除の計画を安心してまかすことのできる協力者はおいそれとは見出せないだろう。

上山さんは、大津皇子の謀殺に関して、持統と不比等が協力関係にあったのではないか、持統は天智の娘であり、不比等は鎌足の息子だから、乙巳の変などにおける天智と鎌足の関係の再現ともいうべき親密さがあったのではあるまいか、と推測する。

不比等は、父の鎌足が、持統の父天智の寵臣であり、持統と不比等のあいだに親密な信頼関係の成立しやすい条件があった。
しかも、壬申の乱のときに、不比等の近親者たちは大友皇子の側であったから、不比等は、壬申の功臣たちや天武の皇子たちにたいして一種の違和感をもっていたのではないか。
持統の側からは、ほとんど裏切られるおそれのない協力者として位置づけられ、不比等の側からは、持統の秘密の協力者となることが、壬申の功臣たちをおしのけて政界の優位に立つ唯一の血路と見られたにちがいないだろう。

大津皇子の処刑された朱鳥元年の3年後の持統3(689)年2月に、不比等は判事に任命され、正史に初めて登場する。
そのとき一緒に判事に任命されたの中臣意美麻呂と巨勢多益須は、大津皇子の謀反に連座して逮捕されている。余りにも早い復権ではないか。
ひょっとしたら、意美麻呂たちは、不比等の意を体して、大津皇子に謀反をそそのかし、多少の言質をとらえたところで、謀反の事実を誰かに密告させる、といったワナを仕掛けたのではないか。

大津の謀反事件に連坐したものの中に、不比等と密接な関係にあったと想定される壱岐博徳もいる。
彼は、孝徳朝から天智朝にかけて、唐との外交の任務にたずさわり、斉明5年に遣唐使の随員として唐に派遣されたこと、天智3年に唐の使節、郭務悰の接待に当ったこと、天智6年に唐の使節、司馬法聡の送使に任命され、華々しく活躍したことが分かっている。
しかし、天武朝では全く忘れられた存在となっていた。

それが、大津皇子の事件に連坐した後に、カムバックして活動を開始し、文武4(700)年には、大宝律令の編纂メンバーの一人に挙げられている。
律令編纂の実質的なリーダーは不比等であり、不比等と博徳の関係を窺わせるものだ。
不比等は、天武朝のもとで不遇をかこっていた博徳を、意美麻呂らとともに、大津事件の仕掛役に使ったのではないか。
つまり、大津皇子謀殺に、藤原不比等が大きな役割を占めていたはずだ、というのが上山さんの推測である。

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