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2007年9月21日 (金)

帝とかぐや姫のモデル

5人の貴人については、加納諸平による比定を多くの論者が受け入れているようである。
それでは5人以外の登場人物には、モデルはなかったのだろうか。
『竹取物語』の主人公は竹取の翁なのかも知れないが、物語の背景や意味を考える上で重要なのは、かぐや姫と帝のモデルであろう。
以下では、帝=文武天皇、かぐや姫=藤原宮子とするについて見てみよう。

先ずは帝であるが、5人の貴人がいずれも文武朝の重臣であることを考えれば、帝のモデルは文武天皇と考えるのが最も自然である。
文武の前後の天皇は、9月7日の項「藤原不比等」の系図に示したように、持統-文武-元明-元正である。
文武以外は女帝だから、当然のことながら、かぐや姫の求婚者としては該当しない。このことからも、他の候補者は考えにくいだろう。
文武天皇は、25歳の若さで夭折しており、「不死の薬」を焼き捨ててしまった帝に通ずるものがある、と考えることもできる。

帝を文武天皇とすれば、かぐや姫候補としては、文武の後宮に関係した女性が有力になる。
『続日本紀』の文武天皇元年8月条の癸未の項によれば、文武の後宮には以下の3人がいた。
①藤原朝臣宮子娘(夫人)(藤原不比等の娘、母は賀茂比売)
②紀朝臣竈門娘(妃)
③石川朝臣刀子娘(妃)
通常は、夫人よりも妃の方が上に位置づけられるべきであり、この記載の順はおかしい。
しかし、和銅6(713)年11月乙丑の項に、「貶石川紀二嬪号不得稱嬪貶(石川・紀の二嬪の号を下げて、嬪と名乗れないようにした)」という記載がある。
これは、不比等が、宮子の子を次の天皇にするために謀ったものと考えられているが、こういう事情を考慮して、紀氏、石川氏出身の妃よりも、藤原氏出身の夫人を上位にしたものであろう。

かぐや姫は、帝の求愛を斥けたのであるから、もし、帝が後宮に召そうとしながら果たせなかった女性がいれば、その女性が最有力である。
しかし、上で見たように、2人の妃を嬪に落とし、さらには嬪を称することすら許されない、という元明の措置は、元明が亡き文武の気持ちを無視して行ったとも考え難い。
とすれば、文武にとっての女性は宮子以外には考えられないのではなかろうか。

それでは、果たして宮子は、かぐや姫のモデルとして相応しいであろうか?
とてもそうは思えないと考えられる。
第一に、宮子が不比等の娘であれば、貴族の娘であるから、竹取の翁に育てられたかぐや姫のモデルには整合しない。
しかし、梅原猛さんは、『海人と天皇』新潮文庫(9503)で、宮子が紀州の海女であったとする考証を展開している。
梅原説の当否は議論のあるところにしても、仮に梅原説をとれば、かぐや姫が下賎な翁に育てられたことと矛盾するものではなくなる。

また、宮子の没年は、天平勝宝6(754)年であり、若くして昇天したかぐや姫のイメージと一致しないだろう。
しかし、天平9(737)年12月の条に、宮子が「幽憂に沈み久しく人事を廃す。天皇(聖武)を産みてより、いまだかつて相見えたまわず」とある。
つまり、宮子は首皇子(聖武天皇)を産んだ後、世間と隔絶した生活をしていたわけで、それは昇天してしまったことと通じるものがあると考えることができよう。

さらに、宮子は文武の意を受け入れて首皇子を産んでいるから、帝の求愛を拒絶したかぐや姫とは決定的に異なっているように思われる。
しかし、宮子=海女説をとるとすれば、宮子は帝からすれば、異界の者ということになる。
月の国つまり異界から来たかぐや姫と共通する。異界の者が、帝の求愛を受け入れることはできないのであって、それはかぐや姫も宮子も同じである。

以上は、「そう考えればそうとも考えられる」という推論である。
しかし、かぐや姫のモデルが誰であったかによって、『竹取物語』の意味するところは全く異なってくるし、作者が誰であったかという推論も変ってくる。
上記の論者は、かぐや姫=宮子説から、作者を僧玄昉と推論している。
それについて触れることはここでは割愛するが、登場人物のモデルをどう考えるかということは、歴史像のシミュレーションという面からも無駄ではないと思う。

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