「選句」の遊び適性
「選句遊び」は、俳人の方から見れば、素人の向こう見ずな所業ということになるのかも知れない。
しかし、これをきっかけに俳句への興味が深まれば、それはそれでいいのではないだろうか。少なくとも、選句をしている間は、それなりに俳句に真面目に向き合うことになる。
振り返ってみると、そもそも「選句」そのものが、遊びに適しているのではないか、と思える。いわば「選句」に遊び適性があるということである。
先ず第一に、俳句という短詩型が選択に適している。基本的に17音なので、紙に書いても省スペースである。
実際に50句を対象とすると、少し小さい字ならばA4で1ページに収まるし、大きめの字でも2ページあれば十分だ。
つまり、対象を一覧でき、それが選び出すのを容易にする。これが何ページにもわたるようだと、比較対照が難しくなって、面倒だということになるに違いない。
同じ短詩型でも、短歌になると31/17≒1.8だから、約80%もボリュームが増えてしまう。短歌だと結構シンドイ作業になるのではなかろうか。
第二に、アンソロジーから抽出すれば、基本的に名句揃いである。選句の基準は、句の良し悪しというよりも、選者の好みの問題になる。
つまり、自分のレベルというようなことを意識しないですむ。だから、比較的素直に自分の感覚を出すことができる。その結果が、他人と似ていたり、共通性が無かったりする。
何となく潜在意識を覗き見してみたような気になったりするが、余りそういうことを真剣に考えることも必要ないだろう。
第三に、俳句の良否の基準が、必ずしも明快ではないことである。つまり、選句結果に間違いという評価がないのだから、気楽にできる。
世の中には数多くの結社があるが、例えば結社の主宰者クラスになれば、それぞれが評価の判断基準を確立しているだろう。
そういう人たちが集まって選句をしてみたら、おそらく結果はかなりバラツキがあるだろう。また、そうでなければ、多くの結社が存在する理由もないのではなかろうか。
第四に、結果が直ぐ集計できることである。これは一番目と相関しているが、結果を見ながら、それを話題にしたコミュニケーションが可能になる。
結果をフィードバックし、さらにそれを遊びの材料として活用し得る。結構高度な遊びともいえる。
ところで、俳句の良否の基準に関連することだが、私は、世に名句という定評のある句の良さが理解できないことがある。有名な次の句についても、法隆寺そのものに人並みの関心はあるのだが、正直に言って、それほど素晴らしい句なのだろうか、と思ってしまう。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(正岡子規)
奈良県は柿の名産地だし、子規は柿が好きだったらしいが、だからどうだ、という感じである。
しかし、それが鑑賞のレベルということかも知れない。とすれば、私のレベルが向上すれば、いずれこの句の良さが分かるようになるのだろうか。
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コメント
私も俳句の良し悪しが分からない。
基本的には人それぞれの評価でいいのではないだろうか、と思う。
そういう中で、多くの人を引きつける句が名句として残っていくのだろうが、どうも偶然の要素が大きいような気がする。
まあ、素人の感想ですが。
投稿: ケンタロー | 2007年8月30日 (木) 12時49分