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2007年8月 8日 (水)

はじめまして

知人・友人にもブロガーがずいぶん増えてきました。遅ればせながら今日から仲間入りしますので、宜しくお願いします。

私は、1944(昭和19)年8月8日生まれだから、今日でちょうど満63歳。朝早くからセミの声がうるさいほどだし、少し歩けば汗が吹き出してくるが、もう立秋。季節の盛りには、もう次の季節への移ろいが確実に準備されている。
思えば長いこと生きてきたし、おそらくはもうしばらくの間生きているだろうと思うが、この歳になって感じるのは、個体の一生の儚さである。振り返ってみれば、何事のことをなし得たのか、その心許なさは、まさに「夢幻の如くなり」という気がする。

  夢の世に葱を作りて寂しさよ(永田耕衣)

その夢幻のような人生の中で、人は、喜び、悲しみ、悩み、煩悶し、悦楽し、……する。そしてそれぞれに固有のなにがしかの痕跡を残すことになる。葱を作るのも痕跡だろうし、ブログを書いてみるというものも痕跡を残そうという試みの一種だろう。

個体としての人の一生は儚いものであるとしても、類としてみれば、人は自然の営みを超越した成果(文明・文化)を残してきた。その成果の個々の側面については評価が分かれるかも知れないが、人類が他の動物と異なる創造力を発揮してきたこと自体は否定できない。
その創造のエンジンを、日本初のノーベル化学賞受賞者の福井謙一博士は、「湧源」という言葉で表現された。『学問の創造』佼正出版社(8904)から引用する。

流体力学の専門用語で、吸い取る口(吸入口)を「シンクsink」という。対して、湧き出るところ(湧源)を「ソースsource」という。この言葉を借りれば、これまでもっぱら「シンク」に終始してきた日本は、この先「ソース」になることをめざさなければならないという意見を私はもっている。日本は新しい技術という「水」を湧き出でさせ、それを他国へ流していく、その「湧源」にならなければならないと私は思う。

私自身は、きわめて湧源性に乏しい存在であることを自覚しているが、夢幻の如き人生において、湧源になることの重要性は人並みに認識しているつもりである。
言葉遊びのようになってしまうけれど、夢幻の如き人生においてなし得ることは有限でしかないが、湧源性を志向することによって、無限の可能性への道が開けてくる、と言えるのではなかろうか。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。

こちらのblogを拝見させていただいて、テーマの立て方がとても興味深く、文体も格調高く、圧倒されました。
私のほうは、10才ぐらい若輩ですが、毎日、雑文のチャチャ入れだけで、なんら系統的に思考を整理することは出来ておらず、恥かしい限りです。教養のベースの違いでしょう。

たまたま高橋五郎さんの著作からのリリー資金がらみをたどって、このblogの存在を知りました。
トレジャーハンターの夢追人が、知り合いで何人かいまだジャングルを彷徨ってますので、せめて、こちらのblogでも、いくつか考察されていますが、それぐらいを頭に入れて、好きにおやりなさい、と言ってあげるつもりです(笑)

「湧源」というのは、とてもいい言葉ですね。

投稿: kimion20002000 | 2009年9月18日 (金) 19時52分

kimion20002000様

過分なお言葉、恐縮に存じます。
読み返してみると、書き始める前はずいぶん肩に力が入っていたな、と苦笑せざるを得ません。
ご覧のように、連想の赴くまま、思いついたこと、新しく仕入れた知識などを、勝手気ままに書くスタイルとなってしまいました。
書くネタに苦労するのではないか、と当初は考えていましたが、そういう心配は無用のようです。
貴ブログを拝見すると、ずっと先達ですね。
いろいろご教示いただければ幸いです。
今後とも宜しくお願いします。

投稿: 管理人 | 2009年9月19日 (土) 17時59分

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