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2007年8月30日 (木)

若草伽藍の瓦出土

8月29日の各紙は、奈良県教育委員会から、法隆寺境内で創建当初の若草伽藍のものと見られる鴟尾(大型建物の屋根に載る飾り瓦)の破片が出土したという発表があったことを報じている。

2法隆寺は、世界最古の木造建築として、平成5(1993)年に、世界遺産に登録された。
一般に、聖徳太子が創建したと言われているが、聖徳太子には謎が多く、近年、「聖徳太子はいなかった」とする説が盛んになっている。

法隆寺自身の伝承では、現在の伽藍は、聖徳太子創建のままであるとされているらしいが、『日本書紀』には、天智9(670)年の条に、法隆寺が全焼したという記事がある。

夏四月の癸卯の朔壬申に、夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も余ること無し。大雨ふり雷震る。
(坂本太郎他校注『日本書紀 (5) (ワイド版岩波文庫 (234)) 』(0311))。

このため、明治時代から、現存する法隆寺が、創建時のものか再建されたものかについての論争が行われてきた(再建非再建論争)
再建派は、『日本書紀』の記載を重視する史学界の黒川真頼、小杉温邨、喜田貞吉らが中心で、非再建派は、建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺らが中心だった。
つまり、論争は、文献を重視するか、実物の様式や尺度を重視するかの立場の違いによるものでもあった。

論争は長期に及び、なかなか決着しなかったが、昭和14(1939)年に、石田茂作らによる発掘調査で、創建当初のものと考えられる伽藍(若草伽藍)の遺構が確認され、それが位置や方位などから現存伽藍と両立するのが難しいと判断されたため、論争は再建説で決着したと考えられてきた。

平成16(2004)年7月に、奈良文化財研究所は、法隆寺の建築部材に関して、年輪年代法の精度を高めた測定結果を発表し、現在の西院伽藍に使われている木材が668~669年頃に伐採されたものであるとした。
これにより、7世紀末の再建が確認されたと考えられる。しかし一方で、年輪年代法の精度の判断にもよるが、伐採が焼失以前であったことになり、その理由をどう考えるかが新たに問われることになった。
これについては、若草伽藍の焼失前に、現在の西院伽藍の一部の建設が始まったとする二寺併立説などが唱えられているが、そもそも二寺併立は難しいだろうというのが、若草伽藍発掘時からの一般的な見方であった。

また、2004年12月には、彩色壁画の一部と見られる破片が出土し、エックス線解析により、1000~1200℃の高熱にさらされたことが判明して、『日本書紀』の全焼記事を裏付けるものと考えられている。
壁画破片の出土位置から、若草伽藍の寺域が従来の想定よりも広がるとも考えられ、二寺併立はより考え難くなった。
年輪年代法による伐採年の推定と焼失時期とをどう考えるかは、十分に説得的な説明がなされないままである。

建築部材のうち、五重塔の心柱については、年輪年代法による測定により、推古2(594)年に伐採されたと推定されており、伐採から再建までの時間の長さが大きな謎になっている。
鴟尾で屋根を飾るのは講堂などの主要な建物に限られることから、今回の出土によって、若草伽藍に講堂などの施設があったことが改めて確認されたことになる。

講堂などを具えた創建法隆寺としての若草伽藍が存在し、それが焼失した後、現存法隆寺が新たに再建されたことはほぼ間違いないだろう。
しかし、現存する再建五重塔の心柱が、焼失よりも80年近く前に伐採されていたものであることはどう解釈すべきであろうか。
また、非再建説の論拠とされてきた様式論や尺度論は、意味を失っているのであろうか。

新たに追加された知見が、新たな謎を生み出すことになる場合がしばしばある。
法隆寺は、もともと謎の多い寺とされてきた。
聖徳太子の実像をどう考えるかとも関連するが、法隆寺の謎は深まるばかりのような気がする。

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