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2007年8月29日 (水)

中将姫の話

蘇生した滋賀津彦は、耳面刀自(ミミモノトジ)に語りかける。
耳面刀自は、藤原鎌足の娘(不比等の妹)であるが、滋賀津彦(大津皇子)が、磐余の池の草の上で命を召されるとき、ちらっと目に止め、それがこの世に残る執心となった。

もゝつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(大津皇子)

滋賀津彦が目を覚ましたのは、聖武天皇の御代(724~749年)と設定されている。
滋賀津彦の耳面刀自に寄せる執心は、藤原四流の中で一番美しい郎女(藤原豊成の娘)を耳面刀自と思わせてしまう。
藤原豊成の娘が生まれたのは、天平19(747)年とされるから、大津皇子(滋賀津彦)は死を賜った朱鳥元(686)年から、およそ70年ほど二上山の地底で眠り続けていたことになる。
『死者の書』は、大津皇子復活の物語であると同時に、中将姫と呼ばれた藤原豊成の娘の物語である。

藤原豊成は、不比等の子武智麻呂の嫡子であり、次弟が恵美押勝として知られる仲麻呂である。
中将姫は、当麻寺の曼陀羅の縁起由来に係わる物語(『中将姫本地』「室町物語草子集 」小学館(0208)所収)の主人公である。

奈良に都のあった頃、横佩右大臣豊成という人がいた。
学才が人より優れ、阿弥陀仏に心を寄せていた。娘が一人いて中将姫と名付けられ、父母に可愛がられていた。
娘が3歳のとき実母が亡くなり、継母に育てられることになるが、姫は継母との折り合いが悪い。
継母の奸計と讒言を信じた豊成は、武士に紀伊国の雲雀丘で姫の首を刎ねることを命じる。
武士は姫を殺すことができす。山中に匿うことにする。
後年、豊成が狩に出かけた際に姫と出会う。豊成は「亡き者にいたせ」と命じたことを後悔し、姫を館に連れ戻す。
姫は帝に后になることを望まれる程の美貌であったが、生母の供養と道心から出家を決意し、出奔して当麻寺に入り、出家得度して、せんに比丘という名前の尼になる。
せんに比丘の前に、黄金に輝く化尼(尼の姿となって現れた仏・菩薩)が現れ、極楽の有様を織物にせよ、という。
化尼とせんに比丘は、蓮の糸で曼陀羅を織り、せんに比丘は、その功徳で13年後に極楽の主となる。
それが当麻曼陀羅の由来である。

『死者の書』では、藤原家の郎女を二上山の麓の当麻に導くのは、滋賀津彦の執心である。
郎女は家を出て、二上山まで歩き、山を仰いで胸騒ぎを覚える。
郎女は、父豊成から贈られた阿弥陀経の千部手写を発願するが、次第に筆がはかどらなくなってくる。
郎女は、春分の日の夕方、二上山の二つの峰の間に、夕闇の上に鮮やかに荘厳な人の俤を見る。
やがて郎女は神隠しにあい、二上山の女人禁制の境内に入ってしまうが、一心に経を唱えて入山を許される。
郎女は、蓮の茎から取った糸で織物を織り、そこに荘厳な人の俤、彼岸の日の夕に見た幻を描き始める。
描き終えた郎女は、音もなく戸口に消えていくが、誰も気づかない。振り返った姫の頬には細く伝うものがあった。

『死者の書』は、以下のように結ばれている。

姫の俤びとに貸す為の衣に描いた絵様は、そのまま曼陀羅の相(スガタ)を具えて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を描いたに過ぎなかった。併し、残された刀自・若人たちの、うち瞻(マモ)る画面には、見るみる、数千地涌(スセンジユ)の菩薩の姿が、浮き出て来た。其は、幾人かの人々が、同時に見た、白日夢のたぐひかもしれぬ。

『死者の書』は、輻輳した構成で物語の筋を読み取るのが楽ではないが、大津皇子と中将姫の不思議な交感の物語である。

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