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2007年8月14日 (火)

終戦の経緯と国体護持

読売新聞戦争責任検証委員会『検証 戦争責任〈2〉 』中央公論社(0610)によれば、昭和天皇や天皇の側近だった木戸幸一内大臣が終戦工作に向けて動き始めたのは、1945(昭和20)年6月に入ってからだった。
5月にドイツが降伏し、本土は連日空襲に曝されており、沖縄戦も必敗の様相だった。
しかし、6月8日の御前会議で、戦争を継続することが決定された。そのことを天皇から聞いた木戸内大臣は、「時局対策私案」を一気に起草した。

その中に、天皇の親書を奉じてソ連に和平の仲介を依頼し、和平交渉に入ることが盛り込まれていた。
既に4月6日の時点で、ソ連から日ソ中立条約を継続しないことが通知されていたが、条約の有効期間は残っていた。その期間は、ソ連からの侵攻はないと考えるのが自然だろう。
しかし、ソ連は戦後を見据えて対日参戦の機会をうかがっていたのだ。
ソ連が和平の仲介に立つことは、客観情勢としては可能性がなかったわけだが、可能性があると考えたことが終戦の判断を遅延させる要因の一つとなった。

7月26日にポツダム宣言が発せられた。全13項からなり、トルーマン米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中華民国総統が署名した。
東郷茂徳外相は、ポツダム宣言が「日本政府は日本国軍隊の無条件降伏を保障する」ことを求め、「日本の無条件降伏」ではない点に注目した。
そして、ポツダム宣言後においても、宣言に加わっていないソ連を通じて、和平交渉を少しでも有利に交渉できるのではないか、と考えたのだった。
鈴木貫太郎首相は、7月28日の記者会見で、和平交渉のための時間を稼ぐ意図で、「ポツダム宣言を黙殺する」と発言するが、これが連合国に受諾拒否の意思表示と受け取られ、結果的に、原爆投下やソ連の参戦を誘発して(というよりもそれが可能な状況を作り出して)しまう。

8月9日に最高戦争指導会議が、天皇臨席のもとで開かれた。ソ連の対日宣戦布告で、和平工作の道は閉ざされてしまっていた。
東郷外相は、「天皇の国家統治の体験に変更を加うる要求を包含して居らざるとの了解の下に、日本政府はポツダム宣言を受諾す」との案を主張した。
米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長はこれに賛成したが、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、受諾条件を広げることを唱えて反対した。

鈴木首相は、天皇の判断を仰ぎ、天皇が「自分の意見は外務大臣に同意である」と決断を示した。
8月15日、天皇の詔勅がラジオで放送された。
結局、日本の指導者が最後まで拘ったのは、天皇大権の維持、つまり「国体護持」だった。天皇制は象徴天皇制として存続し、現在の日本国憲法でも、第1章は天皇に関する規定である。「国体」という言葉は戦後過程の中で死語化したが、僅か62年前には最大の関心事だったのである。

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