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2007年8月16日 (木)

戦争を拡大させた体制

1945(昭和20)年8月15日に敗戦した戦争をどう呼んだらいいだろうか?
私たちが受けた学校教育では、ほぼ100%「太平洋戦争」という言い方がされていた。一方、日本の国としては、「大東亜戦争」と命名したままで、その後正式に改称したことはないらしい。
「太平洋戦争」は、太平洋における戦い、あるいは太平洋を挟んでの戦いということだろうから、アメリカとの関係を意識した名称だろう。敗戦国日本に進駐してきたのがアメリカ軍だったのだから、戦後直ぐの段階での呼称としては、止むを得ないことだったと思う。

しかし、日本はアメリカに負けただけではないことを忘れるべきではないだろうし、太平洋戦争という言い方では、東アジアとの関係が抜け落ちているように思われる。東アジアとの関係は、いつの時代においても重要だろう。
また、戦中に使われていた大東亜戦争という言葉は使いたくない。「アジア・太平洋戦争」「15年戦争」などとも呼ばれるが、余りしっくりした感じはしない。当時の歴史的背景や東アジアとの関係を視野に入れれば、折衷的ではあるが、「東亜・太平洋戦争」という辺りが妥当なのではないだろうか。

太平洋戦争は、昭和16年12月8日に、米英に宣戦布告し、真珠湾を奇襲したときに始まるといえよう。
しかし、「東亜・太平洋戦争」と考えるとすれば、その起点はどこにあったと考えるべきであろうか? 「15年戦争」とも呼ばれるように、1931(昭和6)年の満州事変から、とするのが一般的だと思われる。

満州事変から日中全面戦争を経て、米英との戦争に泥沼的に拡大していった。
田原総一郎さんが司会するTV番組「朝まで生テレビ」での討論を編集した『日本はなぜ負ける戦争をしたのか。』アスキー(0108)において、笠原十九司都留文科大学教授は、その泥沼的拡大の背景に「天皇制集団無責任体制」があった、と指摘する。
戦争を拡大した結果の責任を問われることがなかったから、軍部が暴走して戦争を拡大するのには容易で、戦争の終結を図るのには困難な体制だった。

戦争指導者の中で、政府と軍が対立、軍の中でも陸軍と海軍が対立、陸軍の中では参謀本部と陸軍省が、海軍内部では軍令部と海軍省が対立するという構造があった。
もちろん、集団指導体制の頂点には、大元帥として昭和天皇が君臨し、統帥権は天皇大権の一つだった。
しかし、軍部は、統帥権の独立を謳って天皇の統帥権を名目的に利用し、実質的な主導権を握っていた。

明治天皇が陸海軍軍人に下賜した「軍人勅諭」には、「上官の命令は朕の命令と心得よ」とされていたから、軍の指導者たちも、天皇の名を用いることによって、自分たちの責任を感じなくて済んだのだろう。
そして、制度上の統帥権者である天皇は、「神」だとされていて、責任を免れることになっていた。
つまり、誰もが責任を回避できる体制だったのだ。しかし、未曾有の犠牲をもたらした戦争について、責任を問われることがない体制、というのはいかにも不思議な感じがする。

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