ソ連の対日参戦
8月9日は、長崎への原爆投下だけでなく、ソ連が国境を越え、満州・中国東北部への侵攻を開始した日だったことを忘れてはならないだろう。相互不可侵などを定めた日ソ中立条約を一方的に破棄しての電撃的な作戦だった。「死に体」だった日本に、敢えてソ連が参戦したのも、戦後に対する思惑からだった。
ソ連の対日宣戦布告が佐藤駐ソ大使に伝達されたのが満州時間で8月8日の深夜であり、9日午前零時を以て戦闘が開始された。後から振り返ればいささか戯画的にも見えるが、当時、日本は連合国との和平工作を、ソ連を仲介者として進めようとしていたのだった。
日ソ中立条約については、既に1945(昭和20)年4月6日に、ソ連から延長しない旨通告されていたが、同条約の期限が1946(昭和21)年4月25日だったから、日本政府や軍関係者は、ソ連の対日参戦の意思を認識できていなかった。
7月25日に、佐藤駐ソ大使は、近衛文麿を特使として派遣することを受け入れるよう要請したが、ソ連からは何の回答も得られなかった。日本必敗は明白だったから、戦後を見据えて、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、対日参戦する大義名分を探していた。
8月6日に広島に原爆が投下され、直ぐにでも日本が降伏するかという情勢だったが、8月7日に佐藤大使がモロトフ外相に面会を申し込んだことにより、日本がまだソ連の仲介に希望を繋いでいることをソ連側は理解した。
スターリンは、日本が降伏してしまうと参戦の機会が失われるので、当初11日に予定されていた戦闘開始を9日に前倒しするよう指示した。
8月8日にクレムリンを訪れた佐藤大使に対して、モロトフ外相は、日本がポツダム宣言を拒否したこと、ソ連が連合国から対日参戦を提案されていることを理由に、ソ連がポツダム宣言に参加し、日ソ中立条約を破棄して対日参戦することを伝えた。
ソ連の仲介に一縷の望みを託していた日本は、冷たく突き放されたのだった。佐藤-モロトフ会談の1時間後には、ソビエト極東軍は満州の日本軍への攻撃を開始した。さらに10時間後には、長崎に原爆が投下された。
8月14日に、日本はポツダム宣言を受諾し、これを受けてアメリカは停戦命令を発したが、ソ連は攻撃を緩めることなく、南樺太、千島への侵攻を開始した。ソ連は、北海道の北半分を占領する分割案を提案していたが、アメリカはこれを拒否した。
8月22日、ソ連は北海道分割案を撤回し、部隊を国後・択捉・歯舞・色丹に転戦させ、全千島を占領した。現時点で、どこで戦争を終結すべきだったかを言うのは後知恵というものかも知れないが、最後の何日間かの終戦の遅延が、今日に至る北方領土問題を生みだしたのだとは言えよう。
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