大津皇子処刑の背景・・・①梅原猛説
梅原猛さんは、日本仏教の研究を中心とする哲学者であるが、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長等を歴任し、幅広く活動している。
また、日本古代史に関し、「梅原日本学」と呼ばれる一連の論考で、飛鳥時代の大和朝廷の権力闘争を追求し、「法隆寺論」や「柿本人麻呂論」など、情熱的な文章で古代史ファンの層を厚くすることに貢献した。
高松塚古墳の被葬者に関しても、『黄泉(よみ)の王(おおきみ)―私見・高松塚 (新潮文庫) 』(9007)で、ユニークな見解を披瀝しており、その中で大津皇子謀殺事件に触れている。
梅原さんは、歴史を動かす要因として、一般的意志と個別的意志がある。一般的意志というのは、時代の一般的傾向(ヘーゲル流に呼べば、時代精神)である、という。
古代のわが国の政治指導者たちは、隋唐に真似て、中央集権的官僚国家をつくり上げようとしたが、その先駆者が聖徳太子だった。
太子の後、天智や鎌足が大化改新を通じてこの路線を進めた。天智や鎌足の死後、壬申の乱を経て権力を奪取した天武が目指したものも、時代の一般的意志としての律令制の形成であった。
一方、天武の個体的意志は、彼によってつくられつつあった律令体制の日本国家を、永遠に彼の子供によって支配させようということだった。
しかし、天武の死後実権を握った持統皇后にとっては、天武の皇子たちのすべてが彼女の息子ではなかった。
持統の息子は、彼女が天武との間にもうけた草壁皇子ただ一人なのである。
他の皇子は、生まれがよく、能力があればあるほど、持統にとっては、草壁皇子の帝位就任を妨げる憎むべき競争者ということになる。
そのトップランナーが大津皇子だった。
大津皇子の母は天智の娘で、持統の同母姉の大田皇女だ。早く亡くなっているが、もし大田皇女が生きていたら、当然大田皇女が皇后で、大津皇子が皇太子となるべきはずであった。
その上大津皇子は、文才に恵まれ、武勇の人でもあった。
大津は、持統が唯一の帝王であるべきであると考える草壁皇子の存在を脅かすものであり、それは持統の存在を脅かすものでもあった。
朱鳥元(686)年9月9日に天武が亡くなるが、翌月10月2日には、持統は大津皇子を謀反の嫌疑でもってとらえ、翌3日に彼に死を賜う。
天武は、彼の死後、息子たちが一致協力して律令体制をつくりあげることを願って死んだが、その願いは、彼の最愛の妻によって、死後ただちに、破られたのである。
かくして大津は殺された。しかし、大津を殺しても、天智、天武の血をうけている長、弓削、舎人の三人の皇子がいる。
高松塚の被葬者は、持統に葬られた弓削皇子である、というのが梅原さんの推測である。
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