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2007年8月

2007年8月31日 (金)

大津皇子処刑の背景・・・①梅原猛説

梅原猛さんは、日本仏教の研究を中心とする哲学者であるが、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長等を歴任し、幅広く活動している。
また、日本古代史に関し、「梅原日本学」と呼ばれる一連の論考で、飛鳥時代の大和朝廷の権力闘争を追求し、「法隆寺論」や「柿本人麻呂論」など、情熱的な文章で古代史ファンの層を厚くすることに貢献した。

高松塚古墳の被葬者に関しても、『黄泉(よみ)の王(おおきみ)―私見・高松塚 (新潮文庫) 』(9007)で、ユニークな見解を披瀝しており、その中で大津皇子謀殺事件に触れている。

梅原さんは、歴史を動かす要因として、一般的意志と個別的意志がある。一般的意志というのは、時代の一般的傾向(ヘーゲル流に呼べば、時代精神)である、という。

古代のわが国の政治指導者たちは、隋唐に真似て、中央集権的官僚国家をつくり上げようとしたが、その先駆者が聖徳太子だった。
太子の後、天智や鎌足が大化改新を通じてこの路線を進めた。天智や鎌足の死後、壬申の乱を経て権力を奪取した天武が目指したものも、時代の一般的意志としての律令制の形成であった。
一方、天武の個体的意志は、彼によってつくられつつあった律令体制の日本国家を、永遠に彼の子供によって支配させようということだった。

しかし、天武の死後実権を握った持統皇后にとっては、天武の皇子たちのすべてが彼女の息子ではなかった。
持統の息子は、彼女が天武との間にもうけた草壁皇子ただ一人なのである。
他の皇子は、生まれがよく、能力があればあるほど、持統にとっては、草壁皇子の帝位就任を妨げる憎むべき競争者ということになる。

そのトップランナーが大津皇子だった。
大津皇子の母は天智の娘で、持統の同母姉の大田皇女だ。早く亡くなっているが、もし大田皇女が生きていたら、当然大田皇女が皇后で、大津皇子が皇太子となるべきはずであった。
その上大津皇子は、文才に恵まれ、武勇の人でもあった。

大津は、持統が唯一の帝王であるべきであると考える草壁皇子の存在を脅かすものであり、それは持統の存在を脅かすものでもあった。
朱鳥元(686)年9月9日に天武が亡くなるが、翌月10月2日には、持統は大津皇子を謀反の嫌疑でもってとらえ、翌3日に彼に死を賜う。

天武は、彼の死後、息子たちが一致協力して律令体制をつくりあげることを願って死んだが、その願いは、彼の最愛の妻によって、死後ただちに、破られたのである。
かくして大津は殺された。しかし、大津を殺しても、天智、天武の血をうけている長、弓削、舎人の三人の皇子がいる。
高松塚の被葬者は、持統に葬られた弓削皇子である、というのが梅原さんの推測である。

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2007年8月30日 (木)

若草伽藍の瓦出土

8月29日の各紙は、奈良県教育委員会から、法隆寺境内で創建当初の若草伽藍のものと見られる鴟尾(大型建物の屋根に載る飾り瓦)の破片が出土したという発表があったことを報じている。

2法隆寺は、世界最古の木造建築として、平成5(1993)年に、世界遺産に登録された。
一般に、聖徳太子が創建したと言われているが、聖徳太子には謎が多く、近年、「聖徳太子はいなかった」とする説が盛んになっている。

法隆寺自身の伝承では、現在の伽藍は、聖徳太子創建のままであるとされているらしいが、『日本書紀』には、天智9(670)年の条に、法隆寺が全焼したという記事がある。

夏四月の癸卯の朔壬申に、夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も余ること無し。大雨ふり雷震る。
(坂本太郎他校注『日本書紀 (5) (ワイド版岩波文庫 (234)) 』(0311))。

このため、明治時代から、現存する法隆寺が、創建時のものか再建されたものかについての論争が行われてきた(再建非再建論争)
再建派は、『日本書紀』の記載を重視する史学界の黒川真頼、小杉温邨、喜田貞吉らが中心で、非再建派は、建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺らが中心だった。
つまり、論争は、文献を重視するか、実物の様式や尺度を重視するかの立場の違いによるものでもあった。

論争は長期に及び、なかなか決着しなかったが、昭和14(1939)年に、石田茂作らによる発掘調査で、創建当初のものと考えられる伽藍(若草伽藍)の遺構が確認され、それが位置や方位などから現存伽藍と両立するのが難しいと判断されたため、論争は再建説で決着したと考えられてきた。

平成16(2004)年7月に、奈良文化財研究所は、法隆寺の建築部材に関して、年輪年代法の精度を高めた測定結果を発表し、現在の西院伽藍に使われている木材が668~669年頃に伐採されたものであるとした。
これにより、7世紀末の再建が確認されたと考えられる。しかし一方で、年輪年代法の精度の判断にもよるが、伐採が焼失以前であったことになり、その理由をどう考えるかが新たに問われることになった。
これについては、若草伽藍の焼失前に、現在の西院伽藍の一部の建設が始まったとする二寺併立説などが唱えられているが、そもそも二寺併立は難しいだろうというのが、若草伽藍発掘時からの一般的な見方であった。

また、2004年12月には、彩色壁画の一部と見られる破片が出土し、エックス線解析により、1000~1200℃の高熱にさらされたことが判明して、『日本書紀』の全焼記事を裏付けるものと考えられている。
壁画破片の出土位置から、若草伽藍の寺域が従来の想定よりも広がるとも考えられ、二寺併立はより考え難くなった。
年輪年代法による伐採年の推定と焼失時期とをどう考えるかは、十分に説得的な説明がなされないままである。

建築部材のうち、五重塔の心柱については、年輪年代法による測定により、推古2(594)年に伐採されたと推定されており、伐採から再建までの時間の長さが大きな謎になっている。
鴟尾で屋根を飾るのは講堂などの主要な建物に限られることから、今回の出土によって、若草伽藍に講堂などの施設があったことが改めて確認されたことになる。

講堂などを具えた創建法隆寺としての若草伽藍が存在し、それが焼失した後、現存法隆寺が新たに再建されたことはほぼ間違いないだろう。
しかし、現存する再建五重塔の心柱が、焼失よりも80年近く前に伐採されていたものであることはどう解釈すべきであろうか。
また、非再建説の論拠とされてきた様式論や尺度論は、意味を失っているのであろうか。

新たに追加された知見が、新たな謎を生み出すことになる場合がしばしばある。
法隆寺は、もともと謎の多い寺とされてきた。
聖徳太子の実像をどう考えるかとも関連するが、法隆寺の謎は深まるばかりのような気がする。

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2007年8月29日 (水)

中将姫の話

蘇生した滋賀津彦は、耳面刀自(ミミモノトジ)に語りかける。
耳面刀自は、藤原鎌足の娘(不比等の妹)であるが、滋賀津彦(大津皇子)が、磐余の池の草の上で命を召されるとき、ちらっと目に止め、それがこの世に残る執心となった。

もゝつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(大津皇子)

滋賀津彦が目を覚ましたのは、聖武天皇の御代(724~749年)と設定されている。
滋賀津彦の耳面刀自に寄せる執心は、藤原四流の中で一番美しい郎女(藤原豊成の娘)を耳面刀自と思わせてしまう。
藤原豊成の娘が生まれたのは、天平19(747)年とされるから、大津皇子(滋賀津彦)は死を賜った朱鳥元(686)年から、およそ70年ほど二上山の地底で眠り続けていたことになる。
『死者の書』は、大津皇子復活の物語であると同時に、中将姫と呼ばれた藤原豊成の娘の物語である。

藤原豊成は、不比等の子武智麻呂の嫡子であり、次弟が恵美押勝として知られる仲麻呂である。
中将姫は、当麻寺の曼陀羅の縁起由来に係わる物語(『中将姫本地』「室町物語草子集 」小学館(0208)所収)の主人公である。

奈良に都のあった頃、横佩右大臣豊成という人がいた。
学才が人より優れ、阿弥陀仏に心を寄せていた。娘が一人いて中将姫と名付けられ、父母に可愛がられていた。
娘が3歳のとき実母が亡くなり、継母に育てられることになるが、姫は継母との折り合いが悪い。
継母の奸計と讒言を信じた豊成は、武士に紀伊国の雲雀丘で姫の首を刎ねることを命じる。
武士は姫を殺すことができす。山中に匿うことにする。
後年、豊成が狩に出かけた際に姫と出会う。豊成は「亡き者にいたせ」と命じたことを後悔し、姫を館に連れ戻す。
姫は帝に后になることを望まれる程の美貌であったが、生母の供養と道心から出家を決意し、出奔して当麻寺に入り、出家得度して、せんに比丘という名前の尼になる。
せんに比丘の前に、黄金に輝く化尼(尼の姿となって現れた仏・菩薩)が現れ、極楽の有様を織物にせよ、という。
化尼とせんに比丘は、蓮の糸で曼陀羅を織り、せんに比丘は、その功徳で13年後に極楽の主となる。
それが当麻曼陀羅の由来である。

『死者の書』では、藤原家の郎女を二上山の麓の当麻に導くのは、滋賀津彦の執心である。
郎女は家を出て、二上山まで歩き、山を仰いで胸騒ぎを覚える。
郎女は、父豊成から贈られた阿弥陀経の千部手写を発願するが、次第に筆がはかどらなくなってくる。
郎女は、春分の日の夕方、二上山の二つの峰の間に、夕闇の上に鮮やかに荘厳な人の俤を見る。
やがて郎女は神隠しにあい、二上山の女人禁制の境内に入ってしまうが、一心に経を唱えて入山を許される。
郎女は、蓮の茎から取った糸で織物を織り、そこに荘厳な人の俤、彼岸の日の夕に見た幻を描き始める。
描き終えた郎女は、音もなく戸口に消えていくが、誰も気づかない。振り返った姫の頬には細く伝うものがあった。

『死者の書』は、以下のように結ばれている。

姫の俤びとに貸す為の衣に描いた絵様は、そのまま曼陀羅の相(スガタ)を具えて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を描いたに過ぎなかった。併し、残された刀自・若人たちの、うち瞻(マモ)る画面には、見るみる、数千地涌(スセンジユ)の菩薩の姿が、浮き出て来た。其は、幾人かの人々が、同時に見た、白日夢のたぐひかもしれぬ。

『死者の書』は、輻輳した構成で物語の筋を読み取るのが楽ではないが、大津皇子と中将姫の不思議な交感の物語である。

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2007年8月28日 (火)

死者の書

折口信夫には、なぜかとっつき難い印象を持っていた。しかし、『死者の書』が大津皇子に係わる物語であるならば、読んでみなくては……、である。
私が手にしたのは、中公文庫版『死者の書・身毒丸』であるが、解説を川村二郎氏が書いている。
「『死者の書』は、明治以後の日本の近代小説の、最高の成果である」というのが、川村氏の評価だ。
私にはもちろんそこまで断言するような識見はない。
しかし、何とも不思議な読後感を残す小説だった。冒頭の死者が蘇生するところからして、印象的な文章だ。

彼(カ)の人は、まっ暗やみの中で、徐(シズ)かに眠りから覚めて行った。

した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。

やがて、彼の人が滋賀津彦(大津皇子)で、そこが二上山の地底であることが分かる。

大津皇子は天武天皇の皇子だが、天武の死の直後に皇后持統から、謀反の嫌疑をかけられて死を賜る。
そのさまを、『日本書紀』は、次のように淡々と叙述している(宇治谷孟訳/日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫) (8808))。

(朱鳥元年)冬十月二日、皇太子大津の謀反が発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇子大津に欺かれた直広肆八口朝臣音橿・小山下壱岐連博徳と、大舎人中臣朝臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅の沙門行心と帳内礪杵道作ら三十余人を捕らえた。
三日、皇子大津に訳語田の舎で死を賜った。時に年二十四。妃の山辺皇女は髪を乱し、はだしで走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。

大津皇子は実際に謀反を起こしたのか、あるいは何らかの謀略に嵌められたのか。
その実相は謎であるが、謀反の発覚から死に至らしめるまでの手際の良さからして、何らかの謀略があったと考えるのが自然だろう。
産経俳壇の句は、二上山の地底から、「した した した」と水の滴る音とともに、謀略により不本意な死を余儀なくされた大津皇子のうめくような声が聞こえてくる、ということだろう

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2007年8月27日 (月)

偶然か? それとも・・・②大津皇子

8月26日の産経新聞の投稿欄「産経俳壇」の宮坂静生選の第一席に次の句が選ばれていた。

滴りや地底ゆ大津皇子の声(杉下賢三/宇治市)

宮坂さんの<評>として、「二上山は伝大津皇子の墓がある。山の滴りに耳を澄ますと、地の底から皇子の声が聞こえてくるという。「ゆ」は「から」の意。大津は謀反の嫌疑で殺された悲劇の皇子。追慕の作である。」という文が付いている。

大津皇子と石川郎女の間に、有名な相聞歌がある。

あしびきの山のしづくに妹待つと吾れ立ち濡れぬ山のしづくに(大津皇子)
吾を待つと君が濡れけむあしびきの山のしづくにならましものを(石川郎女)

何かの本で、この相聞歌を知った。
う~ん、羨ましい。こんな返歌を貰ったら、それこそ男冥利というものだろう。
ミーハー的に大津皇子ファンになった。もう少しその境涯を知りたいと思い、関係書を探し初めていた今年の3月のことである。
小学校の同窓会があって、奈良県の二上山の麓と同山を挟んで大阪側に住んでいる幼馴染が参加した。
大津皇子について知る人は少なかったが、是非大津皇子の墓参ツアーを企画したい、などと勝手に盛り上がったのだった。

たまたまその時、、井沢元彦『猿丸幻視行』講談社文庫(8308)を途中まで読んでいた。
1980年に、第26回江戸川乱歩賞を受賞した伝奇ミステリーである。
時は明治42(1909)年。後に国文学・民俗学の大家となり、また釈迢空のペンネームで数多くの短歌を残した折口信夫は、まだ國學院大學の学生である。
その学生折口に、実像がまったく不明で「謎の歌仙」といわれている猿丸大夫にまつわる謎解きをさせる、という趣向の小説だ。

2人の幼馴染を新幹線に送ったあと、続きを読んでみてびっくりした。
最後のページに、折口の人生を総括する記述があり、「唯一の小説『死者の書』は大津皇子復活物語である」と書いてあった。
折口信夫の名前や『死者の書』のタイトルくらいは知っていた。
しかし、この書は、折口の作品の中でも難解といわれているようなので、興味の外にあった。
それが、まさか、大津皇子を主人公としているとは・・・
不思議な因縁を感じざるを得なかった。 

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2007年8月26日 (日)

第二芸術論への応答

桑原武夫の『第二芸術』について、阿部誠文『戦後俳句の十数年』(佐藤泰正編『俳諧から俳句へ 』笠間書院(0507)所収)は、名家を選ぶ基準も示されず、手元の資料だけにより、素人数人の意見で結論を急いでいるなど、方法にも結論も妥当性を欠き、無効である、としている。
しかし、同時に、きわめて有効な評論であった、ともする。反響が大きく、阿部氏の調査の範囲で、昭和22年だけで、90篇の反論が書かれている、という。

阿部氏によれば、反響は反発や批判が多かったが、それはいきなり俳句を否定された反発であり、俳人は、反発を示しながらも、俳句性の探究に向かった。
つまり、時代の転換期にあって、俳句転換を求める方向性が探求されようとしている折り、桑原の論は、俳句界のみならず、短歌界にも影響を及ぼした有効な批評であった、という評価である。
『第二芸術』に挑発されて(?)多くの論考が発表され、俳句の本質を探る試みが深まった。阿部氏の論文から抜粋してみよう。

1.山本健吉「挨拶と滑稽」(「批評」昭和22年12月号)
この論文は、「第二芸術論」と並行して書かれたもので、応答という位置づけではないが、俳句の本質に係わる論考として、幅広い影響を与えた。
俳句性(俳句が他のジャンルと違う点)として、「有季・定型・切れ」の三要素があげられる。山本はそのよってくるところは何か、と問い、「滑稽、挨拶、即興」を抽出した。
それは発句の要件というべきものであって、現代俳句には必ずしもそぐわないが、「第二芸術論」と相まって、俳人たちを俳句性探究に向かわせる役割を担った。

2.根源俳句
山口誓子は、「天狼」昭和23年1月号において、「人生に労苦し、齢を重ねるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが何を根源とし、如何にして現るるかを体得した」と書いて、俳句の根源について、問いかけた。
山口自身は、最初は生命イコール根源とし、後に無我・無心の状態が根源だと変化したが、多くの俳人が俳句の根源について論じ、「内心のメカニズム」「実存的即物性」「抽象の探究」などが論じられた。

3.境涯俳句
境涯俳句とは、人それぞれの境涯、その人の立場や境遇を詠んだ俳句をいう。
狭い意味では、昭和27、8年頃まで貧窮・疾病・障害などのハンディを負った生活から詠まれた句を指す。戦争の影響が、多くの人に重い境涯をもたらしたことの反映でもある。

4.社会性俳句
社会性俳句は、歴史的な社会現象や社会的状況のなかに身を置き、関わりながら詠んだ作品である。
狭い意味では、「俳句」昭和28年11月号で、編集長の大野林火が、「俳句と社会性の吟味」を特集して以後の流れを指す。

5.風土俳句
社会性俳句の中で、地方性、風土性の強い俳句を指す。俳句はもともと風土的であるが、特に地方の行事、習俗、自然を詠んだものをいう。

6.前衛俳句
金子兜太が、「俳句」昭和32年2月号に、『俳句の造型について』という俳句創作の方法論に関する論考を発表した。
「諷詠や観念投影といった対象と自己を直接結合する方法に対し、直接結合を切り離してその中間に“創る自分”を定置させる」というもので、そこから生まれた流れが「前衛俳句」と呼ばれた。
具体的には、以下のような作品を指す。
 a 有機的統一性のあるイメージが、同時に思想内容として意味を持つ作品
 b 二つのイメージを衝突させたり組み合わせた作品
 c 多元的イメージを一本に連結した作品

阿部氏によれば、戦後の十数年は、政治的・経済的な混乱・転換期で、生活することや精神面で自らの拠り処を必要とした。
その起爆剤となったのが、桑原武夫の「第二芸術論」であり、それを表現の探究へ向かわせたのが、山本健吉の「滑稽と挨拶」だった。
しかし、社会が安定するにつれ、自己の拠り処を求める切実さは失われ、新しい俳句の探究も影をひそめていった。

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2007年8月25日 (土)

第二芸術論再読

「選句」をめぐる議論といえば、桑原武夫の「第二芸術論」が有名だ。
フランス文学者だった桑原は、京都大学人文科学研究所を中心に、ユニークな共同研究の組織者として活躍したことでも分かるように、広い視野とバランス感覚の持ち主だった。
その桑原が、俳句は心魂を打ち込むべき芸術ではなく、その慰戯性を自覚した方がいい、と論じたのだった。
岩波書店発行の雑誌「世界」の昭和21年11月号に掲載されたもので、原題は、『第二芸術-現代俳句について』である。夏石番矢編『俳句 百年の問い』講談社学術文庫(9510)に収録されている。

桑原が、俳句を「第二芸術」と断ずることになるきっかけは、自分の子供が国民学校(戦時中の小学校)で俳句を習ってきたことである。子供に実作の指導を依頼されたことから、手許にあった雑誌に載っている諸家の俳句を読んでみようという気になった。

10人の俳人の作品から1句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を5句まぜたリストをつくって、周りにいた同僚や学生に示して優劣の順位をつけさせた。
対象とされた句は以下の通りである。

1  芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
2  初蝶の吾を廻りていづこにか
3  咳くとポクリッとベートーヴェンひゞく朝
4  粥腹のおぼつかなしや花の山
5  夕浪の刻みそめたる夕涼し
6  鯛敷やうねりの上の淡路島
7  爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
8  麦踏むやつめたき風の日のつゞく
9  終戦の夜のあけしらむ天の川

10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし

桑原自身は、これらの句に優劣をつける気も起こらず、ただ退屈したばかりだった、と述べている。
そして、周りの人の評価を集約すると、作者の優劣や大家と素人との区別がつけにくい、ということになった。
確かに、この中には大家の作品(草田男-3、井泉水-7、たかし-10、亜浪-11、虚子-13)などが含まれているが、それを他よりも優れたものとして選び出すことは殆んど不可能であろう。
桑原があえて凡作を選んだわけではないだろうが、これらの句が、黛まどかさんの『知っておきたい「この一句』に収録されていたとして、私も高い評価をしないだろうと思う。

とすれば、現代の俳句は、作品自体で作者の地位を決定することが難しく、作者の地位は作品以外の、例えば俗世界における地位のごときもので決められるしかない。
それは、弟子の数や主宰誌の発行部数などであるから、党派を作ることが必然の要請になり、有力な党派から別派が生まれるのは自然で、数多くの派が生まれることになる。
その党派は、中世職人組合的で、神秘化の傾向を含み、古い権威を必要とする。俳句の場合、その聖者が芭蕉であり、「さび・しおり・軽み」等々がその経文である。

桑原は、水原秋桜子の「俳句の取材範囲は自然現象及び自然の変化に影響される生活である」という説を認めつつ、その方法として、「小品の絵を描くようなつもりで」という言葉に疑問を呈する。
指導者が、他のジャンルに方法を学べというような修業法を説くようでは、既に命脈が尽きているのではないのか。かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするのがふさわしいだろう。
それを「芸術」と呼ぶのは言葉の乱用であって、あえて言えば「第二芸術」として区別すべきである。

私たちのような素人の読者にとっては、俳句が第一芸術であろうが、第二芸術であろうが一向に構わない。しかし、俳人と呼ばれるような人たちにとっては、強いインパクトがあったようだ。
(因みに、作者は、上記以外に、青畝-1、草城-4、風生-5、蛇笏-8、秋桜子-15が著名人で、他が新人または無名の人である)

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2007年8月24日 (金)

俳句評価の難しさ

子規の名句の良さがよく分からない、と書いたら、北川透さんの『鶏頭の句の分からなさ』という論が目に入ってきた。
大学で行われた公開講座がベースになっているもので、佐藤泰正編『俳諧から俳句へ (笠間ライブラリー―梅光学院大学公開講座論集) 』笠間書院(0507)に収められている。
北川さんは、「よく知られているというだけでなく、その俳人最高の句」つまり代表句とされるような作品を詠んだとき、作者はどの程度の手応えを感じたのだろうか、と問題を設定する。
「柿くへば」の句もそのような句の一つだろうと思うが、ここで取り上げられているのは次の句である。

鶏頭の十四五本もありぬべし(正岡子規)

北川さんは、この句を「よく知られた正岡子規の代表句」とした上で、「この句はどこがいいのだろうか」と問う。
そして、「実は、この句が分からないのか、それとも俳句というものが分からないのか、正直に申しますと、そのことすら、よく分からないのです」と書いている。
この部分だけ読めば、まさに「我が意を得たり」である。
しかし、すぐ、「《柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺》や、《いくたびも雪の深さを尋ねけり》などの句が、安定した評価を得られているのに比べて・・・」という趣旨のことが書かれていて、「柿くへば」の方は、問題にするまでもなく「名句である」という評価のようである。

子規の作句の方法論として、「写生」という言葉が使われる。当時の新進洋画家だった中村不折との交流のなかから得たものだという。
そして、「鶏頭」の句は、子規の写生論を取り上げるときには、必ずといっていいほど言及される作品である。
問題は、「ありぬべし」という語を、写生との関係でどう解釈するかである。「十四五本」に係るのか「鶏頭」に係るのか。
前者ならば、鶏頭の花が咲いていることは観察されていて、その本数を推量している、ということになるが、後者ならば、鶏頭の花が咲いていること自体が推測ということになる。
子規の病状との関連で、写生の対象(つまり目に見えているものの範囲)をどう考えるかにより、多様な解釈が生まれてくる。

この句は、現在では、子規晩年の代表作としての評価が定着していると思われる。しかし、子規の第一の弟子だった高浜虚子は、一貫して佳句として認めることがなかった。
虚子ばかりではなく、この句が生まれた句会でも評価されなかったらしい。
この句は、明治33年9月9日の子規庵句会で、「鶏頭」という席題で詠まれたものだが、この句会で、子規は9句を出した。しかし、当該句は、子規を除いた参加者18名のほぼ全員から無視されたという。
虚子も他の俳人も、同じような評価だったということだろう。

「鶏頭」の句は、長塚節や斉藤茂吉などの歌人が称揚したことによって、改めて俳壇でも再評価されることになった。
しかし、茂吉らがこの句を称揚した後に虚子が編んだ『子規句集』においても、この句は採られていない。
つまり、虚子は茂吉らの評価を踏まえた上で、あえて落としているのであり、その評価は確信的なものだったと考えざるを得ない。

名句として高い評価を得ている句を、「選句は創作である」を旨とし、大岡信さんをして「大変な眼力の持ち主」と言わしめる虚子が選ばなかった。
そこが面白いところとも言えるのだが、俳句の評価は難しいものだと思う。

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2007年8月23日 (木)

「選句」の遊び適性

「選句遊び」は、俳人の方から見れば、素人の向こう見ずな所業ということになるのかも知れない。
しかし、これをきっかけに俳句への興味が深まれば、それはそれでいいのではないだろうか。少なくとも、選句をしている間は、それなりに俳句に真面目に向き合うことになる。
振り返ってみると、そもそも「選句」そのものが、遊びに適しているのではないか、と思える。いわば「選句」に遊び適性があるということである。

先ず第一に、俳句という短詩型が選択に適している。基本的に17音なので、紙に書いても省スペースである。
実際に50句を対象とすると、少し小さい字ならばA4で1ページに収まるし、大きめの字でも2ページあれば十分だ。
つまり、対象を一覧でき、それが選び出すのを容易にする。これが何ページにもわたるようだと、比較対照が難しくなって、面倒だということになるに違いない。
同じ短詩型でも、短歌になると31/17≒1.8だから、約80%もボリュームが増えてしまう。短歌だと結構シンドイ作業になるのではなかろうか。

第二に、アンソロジーから抽出すれば、基本的に名句揃いである。選句の基準は、句の良し悪しというよりも、選者の好みの問題になる。
つまり、自分のレベルというようなことを意識しないですむ。だから、比較的素直に自分の感覚を出すことができる。その結果が、他人と似ていたり、共通性が無かったりする。
何となく潜在意識を覗き見してみたような気になったりするが、余りそういうことを真剣に考えることも必要ないだろう。

第三に、俳句の良否の基準が、必ずしも明快ではないことである。つまり、選句結果に間違いという評価がないのだから、気楽にできる。
世の中には数多くの結社があるが、例えば結社の主宰者クラスになれば、それぞれが評価の判断基準を確立しているだろう。
そういう人たちが集まって選句をしてみたら、おそらく結果はかなりバラツキがあるだろう。また、そうでなければ、多くの結社が存在する理由もないのではなかろうか。

第四に、結果が直ぐ集計できることである。これは一番目と相関しているが、結果を見ながら、それを話題にしたコミュニケーションが可能になる。
結果をフィードバックし、さらにそれを遊びの材料として活用し得る。結構高度な遊びともいえる。

ところで、俳句の良否の基準に関連することだが、私は、世に名句という定評のある句の良さが理解できないことがある。有名な次の句についても、法隆寺そのものに人並みの関心はあるのだが、正直に言って、それほど素晴らしい句なのだろうか、と思ってしまう。

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(正岡子規)

奈良県は柿の名産地だし、子規は柿が好きだったらしいが、だからどうだ、という感じである。
しかし、それが鑑賞のレベルということかも知れない。とすれば、私のレベルが向上すれば、いずれこの句の良さが分かるようになるのだろうか。

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2007年8月22日 (水)

選句遊び

妻が、「選句遊び」というゲームを発明した。
先ずは、アンソロジーなどから適当数の俳句を抽出する。その中から、複数人が自分の気に入った句を選び出し、それを比べてみる、という趣向である。
俳句を作ろうということになるとちょっと腰が引けるけど、与えられた句の中から、自分の感覚で選句することは、やろうと思えば誰でもできる。

もちろん、古今の名句に対して選句などとはおこがましいことは承知しているが、そこは遊びである。
きっかけは、妻が暇そうにしていたので、手許にあった黛まどかさんの『知っておきたい「この一句」 』PHP文庫(0706)を奨めたことだった。
妻は読書家というタイプではないので、(手抜きをして)自分の気に入った句を選び出して、そこから読み始めたらしい。そのうちに、他の人はどれを選ぶか、ということに関心を持ったという。
そして、私に「ベスト5と次点3作を選べ」ということになった。ちょうど私が、黛さん選定の50句を一覧表にしていたので、気楽にそれに点を入れてみた。

その結果、ベスト5のうち、妻と私で共通するものは1句もなかったが、次点まで入れると4句が共通していた。
意外と面白かったので、同じフォーマットのものを兄姉たちに郵送して回答して貰おうということになった。ついでに、時節柄暑気払いを兼ねて集まろうか、ということに。
複数の人でやってみると、「ふ~ん、こんな句を選ぶのか」とか、「共通性が多いね」とか、「なんでこの句を選んだの?」とか言いながら、結構盛り上がる。
俳句が「座の文芸」と言われるのを疑似体験した気分である。

各人の選択結果を、1位に選出した句に6点を付け、以下順に次点作に1点というように重み付けをして集計してみた。
ダントツの1位だったのが、松本たかしさんの次の句である。

ひく波の跡美しや櫻貝(松本たかし)

10人中で、1位とした人が2人、次点までに選んだ人が7人いた。私も5位の句として1票を投じたが、美しいイメージの句だというのが共通の評価のようだ。

高浜虚子は、「選句は創作である」と言っているから、選句のレベルというものもあるのだろうとは思うが、遊びだからそんなに真面目に考えてはいない。
しかし、今まで自分が俳句に対してどういう嗜好を持っているのか、余り考えたことがなかったので、面白い体験だった。
私の選句基準は、どうやら視覚的なイメージの鮮やかさと音の響きやリズム感にあるように思う。
視覚性は、よく言われる写生ということに繋がるだろうし、音韻性は、俳句が詩であることの反映だから、まあ当たり前のことではあるのだろうが。

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2007年8月21日 (火)

偶然か? それとも・・・

近所の古本屋で、遠藤周作『ピアノ協奏曲二十一番』文藝春秋(8705)を手にした。
遠藤周作の本は今までほとんど読んだことがなかったが、タイトルが、若い頃良く聴いたモーツアルトに因んだものだったので、ちょっと読んでみようか、という気持ちになった。
「遠藤周作 小説の館」というサブタイトルの10の小編(掌編というべきか)を収めた作品集である。

この短編集の中に、『箱』という作品がある。冒頭で、植物も面倒を見てくれる人の心や言葉を理解する、というような話があって、朝顔に水をやるときに、「いつまでも花を咲かせろ」と言葉をかけて水遣りを続けた結果、冬でも花をつけていた、というような話が載っている。
確かに、植物は愛情の掛け具合に素直に反応する、ということはよく聞く。しかし、私は唯物論者だから、それは栄養バランスが良くなる等の結果だろうと考える。
作者(小説は一人称で書かれており、以下「私」と表記)もそう考えていたのだが、朝顔体験などから、どうもそうでもない、と考えるようになる。

「私」は中軽井沢の別荘で小説を書いている。タイトルの「箱」は、「私」が、上田市の古道具屋兼骨董屋で買った千代紙を貼った「木箱」のことである。骨董にもならないようなモノで、店主が「タダでもいい」というような何の変哲もない「箱」だ。
その木箱の中に、絵葉書が入っていた。ルジェールという名前の女性宛の、友人、知人らからの絵葉書である。
軽井沢の路地裏にある古いクリーニング屋の主人が、ルジェールの消息を記憶していた。

軽井沢は、昔から外国人が夏の間の避暑地として利用していた。ルジェールの一家もそうだった。
ルジェール自身は、東京の某国大使館のタイピストをしていた。
戦局が悪化してくると、特に外国人の生活環境は悪化し、食べるものにも困窮するようになる。そこに憲兵が目をつけ、ルジェール自身や老いた父を痛い目に遭わせるなどと脅迫して、ルジェールを協力者に仕立てることに成功する。

軽井沢では、反東条英機派が和平工作を進めていた。その工作の橋渡しをルジェールの勤務する中立国に依頼するという計画であり、その情報の入手活動をルジェールにさせようということだ。
しかし、結果として、疑わしい手紙などが一通も見当たらないことが分かった。
そのルジェールが残した絵葉書だった。
「私」は、ふと、何の変哲もない絵葉書の文面が、一種の暗号文ではないか、という思いに捉えられる。しかし、そう考えればそうとも考えられる、ということで、裏付ける根拠があるわけではない。

この作品集を読んでいると、遠藤周作の小説創作の腕の冴えとでもいうべきものを感じる。最近は余り小説を読んでいなかったが、久しぶりに物語の面白さを堪能した。
ありもしない、ありそうなことを紡ぎ出す小説家というのは、典型的な想像力の持ち主であろう。
終戦直前の近衛文麿らによる和平工作という歴史的事実を背景に、ルジェールというキャラクターを設定し、そのキャラクターを引き出すために、木箱や絵葉書という小道具を作り出す。それは、小説家の湧源性というものだと思う。

この作品の一節に、箱の中の何枚かの葉書がひとつの念力になって、「私」のような男に読まれるのを待っていた、というようなことが書いてある。心や言葉を解する朝顔の話の続きである。
私がこの作品集を手にしたのは、ほんの偶然である。
それは、「ソ連の対日参戦」(8月10日の項)や「終戦の経緯と国体護持」(8月14日の項)で、終戦直前のソ連を仲介者とする和平工作に触れたばかりのタイミングだった。
ひょっとしたら、この本も、古書店の片隅で、私が終戦直前の和平工作に関心を持つのを待っていたのかも知れない。

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2007年8月20日 (月)

プチ旅行②甘利山

夜叉神峠に行かないことにしたので、どこか眺望のいいところに行きたいと思って地図を眺めていたら、近くの甘利山が、頂上近くまで車で行けることが分かり、行ってみようということになった。
結果的に、これが大正解だった。
頂上近くの駐車場から、1731mの頂上まで、約800mののんびり歩ける散策路がある。その間に素晴らしいお花畑が広がっているのだ。

Pict00354_2 整備された木道

Pict00514_2
花の種類も豊富。季節も良かったのだろう。
いくつかの花の名前も覚えた。

Pict00434_3 カワラナデシコ

Pict00534_2 アザミ

Pict00504_3 ヤマハハコグサ

Pict00524_2 タマガワホトトギス

Pict00324_2 ヤナギラン

Pict00554_2 クサレダマ

Pict00344_2
白根三山は地理的に視界の外だったが、富士山(写真中央)や八ヶ岳などを遠望することができる素晴らしいパノラマを楽しめた。

甘利山を下り、山梨県立美術館に立ち寄った。ミレーの「種蒔く人」や「落穂拾い」の収蔵・展示で有名だ。
ミレーは、いわゆるバルビゾン派を代表する画家であるが、バルビゾン派の作風は、全体の色調が暗すぎて個人的には余り好きとは言えない。
金額は忘れたが、びっくりするような価格で購入したと報じられた記憶がある。
絵の価値などは客観的に決められないものだろうが、県外からも多くの参観者を惹きつけるのだから、美術館政策としては成功したのかもしれない。

かくして、夏休みは終わった。「安・近・短」ではあるが、バラエティに富んだプチ旅行だった。

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2007年8月19日 (日)

プチ旅行①湯の宿

夏になるとどこかへ出かけよう、という習性が抜けない。といっても、最近はもっぱら「安・近・短」である。
今年は、16、17日に山梨県の芦安温泉に一泊旅行に行ってきた。長姉夫婦、次姉、妻の内輪だけだから、至って気が楽である。俳句もどきをひねったりしながら、温泉を楽しむことができた。

芦安温泉のある南アルプス市は、2003年4月1日に、「平成の大合併」によって誕生した。
南アルプス市の名前は一般公募をもとに決定されたとのことだが、カタカナの使用に対しては反対意見もあるようだ。
日本的でないとか、日本語の冒涜だというような意見であるが、それはまあ好みの問題ということだろう。
カタカナが好ましくない、というのならば、南アルプスという表現自体を問題とすべきだ。しかし、南アルプスは、日本の山岳地名として十分に定着している。
また、カタカナも立派な日本語である。
私は、美しい日本語は大事に護りたい、という立場ではあるが、南アルプス市については、それ程目くじらを立てるようなことではないのではないか、と思う。
端的に南アルプスの山麓という市のアイデンティティを示しているし、カタカナ使用は目立つという効用もあるだろう。

芦安温泉へ行くならば、近くの夜叉神峠に行ってみたいと思った。夜叉神というなにやらおどろおどろしい名前がちょっと気になるところだし、白根三山(北岳、間の岳、農鳥岳)の眺望が素晴らしいという。
結婚して間もないころ、妻と2人でテントを背負って北岳に登ったことがあり、その白根三山を眺めてみたいと思ったのだ。
北岳は富士山に次ぐ標高だが、北岳に登頂した日は快晴で、農鳥岳までくっきりと展望できた。せめて間の岳まで行ってみたい気がしたが、妻の脚力と疲労度を勘案して断念したのだった。
その三山を眺望できれば、と考えたのだが、他の3人が「この暑さの中をとても行く気がしない」ということなので、夜叉神峠は断念し、のんびり途中で寄りたい所に寄ることにした。

先ずは、NHKの今年の大河ドラマの『風林火山』とも関係の深い武田神社だ。
Pict00015_4
武田神社は、躑躅ヶ崎の武田家の居館跡である。
私は大河ドラマを殆んど見ないが、ちょうどいい機会なので宝物殿も拝観した。境内は蝉がにぎやかに鳴いている。

  つわものの夢はるかなり蝉時雨

武田神社境内の松は、葉(針)が3本だという。実際に落ち葉を拾って確認してみた。Pict00104_2

信玄は、御勅使川が釜無川に合流する地点の「信玄堤」に名を残すように、治水に長けていた。
聖牛と呼ばれる水防工法が特徴で、「自然の力を以って自然を制する」ことに狙いがあり、甲州流と呼ばれた。
P10100662_8
八ヶ岳山麓の「三分一湧水」も信玄ゆかりと伝えられるが、こちらの方は史実かどうか疑問もあるらしい。
しかし、そういう伝承があることは、信玄が治水のみならず利水にも卓越していたことを示すものだろう。まさに「水を治める者は、国を治める」である。

武田神社から、ほど近い昇仙峡に回った。何回か来ているが、初めて影絵美術館に入り、ロープウェイに乗ってパノラマ台まで行った。
影絵美術館では、藤代清治氏の影絵作品の他、山下清氏、水木しげる氏の絵の展示と共に、漫才師の内海桂子さんの「どどいつ絵画」や女優の東ちずるさんの絵本の原画など盛り沢山の展示を楽しめた。

  風青き影絵の森を尋ねけり

美術館の入館券とセットになっているロープウェイでパノラマ台まで昇った。結構高いところのはずだが、やはり炎暑だった。うぐいす谷という展望場所から見る積乱雲に盛夏を感じる。

  次々とうぐいす谷に夏の雲

昇仙峡から、芦安温泉に向かった。われわれが泊まったのは、岩園館という芦安温泉で一番大きく古い旅館だ。23部屋あるという。
1998年に改装して、新館の東館ができたが、古い方の本館に泊まった。3つの大浴場があり、湯治等にも好適な湯の宿である。登山客も結構宿泊していたようだ。
宿に着いて夕食まで少し時間があったので、近くの滝を見てこようということになった。
滝に向かい始めて間もなく、雨がパラパラ降り出した。引き返そうと思っているうちに、急に雨足が強くなりはじめ、慌てて宿に戻った。

  夕立に追われる如く宿に入る

その内に、雨は一段と激しくなり、稲妻が走り、宿の前の御勅使川の水があっという間に茶色の激しい流れに変わった。

  芦安の谷を切り裂く稲光り

展望風呂に入って部屋に戻って見ると、何と雨漏りがしている。宿の人の説明だと、こんな降り方は初めてだという。
そんなこともないだろうと思いつつ、一応雨漏りが止まり、満室で変われる部屋もないとのことなので、部屋はそのままとした。
Pict00244_3
夕食は旅館という感覚だといささか淋しいが、われわれ位の年齢にはちょうどいいくらいのボリュームだ。食べ切れない程の料理が並んでも、メタボリック症候群の身には切ない。岩魚が旨かった。  

  夜叉神という名の酒を飲みながら岩魚愛でたり芦安の宿

満室で100人くらいの宿泊者がいたが、幻の魚といわれる岩魚も養殖できるようになったのだろうか。
食事をしてるとき、峡谷の向こうに虹がかかるのを見た。虹を見るのも久しぶりだ。

  万緑の湯の宿に来て和みけり

 

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2007年8月18日 (土)

日本列島大異変

このところ、日本列島に異変が頻発している。

異変の第一は、株価の急落である。
17日の東証は、日経平均で874円下落した。1日の下落幅としても記録的(7年4ヶ月ぶり)だが、15、16日と年初来最安値を更新した後だから、衝撃的である。3日間で1500円超、10%近く下落した。
背景として、アメリカの低所得者向け高金利型住宅ローン問題による信用不安が指摘されている。
日本円が買われ、円高が急進して、輸出企業への影響が懸念され株安となり、個人投資家が信用取引の担保割れに追い込まれ、「売りが売りを呼ぶ」展開になっている、というものだ。
いつまでも下がり続けることはあり得ないにしても、果たしてどこが底なのか?

異変の第二は、熱波である。
16日に、岐阜県多治見、埼玉県熊谷で40.9℃を記録し、最高気温の記録を74年ぶりに更新した。私が生まれてから最も暑い夏、ということになる。
南米ペルー沖で海面水温が低下する「ラニーニャ現象」により、太平洋高気圧の勢力が強まったことが背景だという。
猛暑は17日も続き、日本列島は3日連続「40℃超え」を記録した。この暑さで、熱中症が原因と見られる死者は17人に上っている。

異変の第三は、安部内閣である。
防衛省の事務次官人事を巡り、小池防衛相と守屋次官の対立が続いていたが、17日に、安部首相が断を下す形で、両者の案とは別の第3案で決着した。「喧嘩両成敗」というところであろうか。
しかし、そもそも先の参院選の結果を受けて、今月中にも内閣改造が予定されているのだから、「留任は当然」という態度の小池防衛相はスタンドプレーの印象を免れ得ない。
また、守屋次官は在任期間が既に4年超という異例の長さだし、上司の大臣に造反したのだから、組織人としては、いかがなものかと思う。
というよりも、参院選で有権者にNOを突きつけられ、こんな状態でも政権を継続していること自体が、大きな異変であろう。

異変の第四は、中央競馬会(JRA)が36年ぶりに競馬開催を中止せざるを得なくなったことである。週末に出走予定の馬の少なからぬ数が、馬インフルエンザに感染しているのだという。
1971~72年に、同じく馬インフルエンザの流行で2ヵ月間中止したことがあり、それ以来だという。馬インフルエンザ自体は、人間や他の動物に感染することはないらしが、鳥インフルエンザの流行といい、何となく不気味な感じがする。

異変の第五は、北海道を代表する土産品として有名な「白い恋人」が、過去10年にわたり日常的に賞味期限を改竄していたことである。
もっとも、食品の表示の偽装は、「またか」という感じで、異変などではないのかも知れないが。

それぞれの異変は、内容も背景もまったく別であり、相互の関連性はない。しかし、「何かがおかしい」という社会心理が蔓延すれば、それが新たな異変の引き金になる可能性だって、ないとは言えない。

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2007年8月17日 (金)

私たちの生きている時代の特異性

自分たちがどのような時代を生きているのか、ということは、誰しも一度は関心を持つテーマだろう。
「戦後レジーム」というのもその一つの捉え方だろうが、超長期的にみると、私たちの生きている時代は、きわめて特異な時代だということができる。

2左図(産経新聞070715)は、日本の総人口の超長期推計である。
ギョッとするような形のグラフではなかろうか。
江戸時代に3000万人程度だった日本の人口は、明治維新以降爆発的に増大してきた。
医療体制の整備により死亡率が低下する一方で、富国強兵策と共に出生率が上昇し、ピラミッド型の人口構造を維持したまま総人口が増大して、東亜・太平洋戦争の惨禍にもかかわらず、2006年には1億2,779万人に達した。

1989年に、合計特殊出生率が、丙午の年(1966年)の1.58を下回る1.57となって大きな話題となった。
「丙午の年に産まれた女性は夫を殺す」という何の根拠もない俗信が、女性週刊誌等で取り上げられ、それを意識した親がその年の出産を控えたことから、出生率がトレンドから大きく乖離して下がったのだ。
だから、丙午の年の出生率は、きわめて特殊だと考えられていたのだが、それを下回ったのである。

しかし、1989年の出生率は、継続的なトレンドの上にあったのであり、出生率はその後も低下し続けた。
現状は1.32程度と推計されている。出生率が現在の水準のままだと、当然のことながら、総人口は減少していく。
しかもその速度はグラフに見るとおり急激である。計算上の話ではあるが、500年後には日本の総人口は、15万人まで落ち込むことになる。ほぼ縄文時代の水準である。

出生数が少ないのだから、人口減少と同時に人口構成の高齢化が進む。人口爆発の過程では5%を切っていたこともある65歳以上人口の比率は、2006年19.5%を占め、2075年には、実に42%にまで上昇する、と推計されている。

それに伴い、さまざまな問題が発生してくると想定されるが、いま問題になっている年金制度などはその代表であろう。
年金制度改革に際して、政策当事者たちは、「100年安全」を謳い文句にしていた。
しかし、人口推移のグラフを見ると、「100年」という時間のスパンを口にすることが欺瞞のように思えてくる。

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2007年8月16日 (木)

戦争を拡大させた体制

1945(昭和20)年8月15日に敗戦した戦争をどう呼んだらいいだろうか?
私たちが受けた学校教育では、ほぼ100%「太平洋戦争」という言い方がされていた。一方、日本の国としては、「大東亜戦争」と命名したままで、その後正式に改称したことはないらしい。
「太平洋戦争」は、太平洋における戦い、あるいは太平洋を挟んでの戦いということだろうから、アメリカとの関係を意識した名称だろう。敗戦国日本に進駐してきたのがアメリカ軍だったのだから、戦後直ぐの段階での呼称としては、止むを得ないことだったと思う。

しかし、日本はアメリカに負けただけではないことを忘れるべきではないだろうし、太平洋戦争という言い方では、東アジアとの関係が抜け落ちているように思われる。東アジアとの関係は、いつの時代においても重要だろう。
また、戦中に使われていた大東亜戦争という言葉は使いたくない。「アジア・太平洋戦争」「15年戦争」などとも呼ばれるが、余りしっくりした感じはしない。当時の歴史的背景や東アジアとの関係を視野に入れれば、折衷的ではあるが、「東亜・太平洋戦争」という辺りが妥当なのではないだろうか。

太平洋戦争は、昭和16年12月8日に、米英に宣戦布告し、真珠湾を奇襲したときに始まるといえよう。
しかし、「東亜・太平洋戦争」と考えるとすれば、その起点はどこにあったと考えるべきであろうか? 「15年戦争」とも呼ばれるように、1931(昭和6)年の満州事変から、とするのが一般的だと思われる。

満州事変から日中全面戦争を経て、米英との戦争に泥沼的に拡大していった。
田原総一郎さんが司会するTV番組「朝まで生テレビ」での討論を編集した『日本はなぜ負ける戦争をしたのか。』アスキー(0108)において、笠原十九司都留文科大学教授は、その泥沼的拡大の背景に「天皇制集団無責任体制」があった、と指摘する。
戦争を拡大した結果の責任を問われることがなかったから、軍部が暴走して戦争を拡大するのには容易で、戦争の終結を図るのには困難な体制だった。

戦争指導者の中で、政府と軍が対立、軍の中でも陸軍と海軍が対立、陸軍の中では参謀本部と陸軍省が、海軍内部では軍令部と海軍省が対立するという構造があった。
もちろん、集団指導体制の頂点には、大元帥として昭和天皇が君臨し、統帥権は天皇大権の一つだった。
しかし、軍部は、統帥権の独立を謳って天皇の統帥権を名目的に利用し、実質的な主導権を握っていた。

明治天皇が陸海軍軍人に下賜した「軍人勅諭」には、「上官の命令は朕の命令と心得よ」とされていたから、軍の指導者たちも、天皇の名を用いることによって、自分たちの責任を感じなくて済んだのだろう。
そして、制度上の統帥権者である天皇は、「神」だとされていて、責任を免れることになっていた。
つまり、誰もが責任を回避できる体制だったのだ。しかし、未曾有の犠牲をもたらした戦争について、責任を問われることがない体制、というのはいかにも不思議な感じがする。

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2007年8月15日 (水)

戦後神話とは?

昨日の産経新聞「正論」欄に、松本健一さんが「戦後神話から目覚めよ」という主張を書いている。神話とは、事実でないことが広く信じられている、というような意味であろうか。
松本さんは、「戦後神話」として、「(丸山真男によるとされる)昭和二十年八月十五日、日本に無血革命があった」という見方を挙げて、次の2つの疑問を提示している。

第一は、「丸山真男は、ほんとうに八・一五に「無血革命」があったと考えていた」のかどうか。
第二は、「八・一五に革命があった」というのは事実かどうか。
もちろん、より重要なのは、歴史認識としての第二の論点の方である。

第一に関しては、丸山真男自身が、昭和22年1月に発表した文章の中に、「日本のいわゆる無血革命二年目を迎えて‥‥」と書かれていることから、丸山真男にそういう認識があったことは証明できる、としている。
そして、丸山真男の、広島の軍隊にいたときにポツダム宣言を読み、そこに「基本的人権の尊重」とあるのを発見して嬉しくて顔の筋肉がゆるんだ、という体験を紹介している。

丸山真男が、ポツダム宣言をそう受け止めたのはよく分かると思う。
東大で政治思想史を講じていた丸山真男は一兵卒として召集され、軍務に服していた。つまり「戦前・戦中レジーム」の批判者であると同時に、その犠牲者でもあった。
だから、ポツダム宣言の受容によって、「戦前・戦中レジーム」から脱却できると考えたのだと思う。
軍の中にいても、日本がポツダム宣言を受諾せざるを得ない情勢にあることは、丸山真男のような知識人には、明白なことだっただろう。

丸山真男の「革命認識」を受けて、東大の憲法学者だった宮沢俊義が「八月革命と国民主権主義」と題する論文を書いた。
ポツダム宣言を受諾したことにより、国家の主権が天皇から国民に移り、それは「法学的な意味における革命」である、という趣旨である。
この趣旨のもとに、日本国憲法は、主権者である国民が正当に制定した民主的憲法である、とする。現在の「護憲論」の源流ともいうべき認識であろう。

松本さんは、宮沢説は、次の2点で無理があるという。
第一に、ポツダム宣言の受諾が天皇の名においてなされていること。
第二に、憲法の一番の論点である第9条の「戦争放棄」と「武力の不保持」が、連合国が求めた懲罰的条項であること。
つまり、それは「革命」ではなく「敗戦」なのであり、それを決断したのは昭和天皇である、と松本さんはいう。

ポツダム宣言受諾の経緯は、松本さんの説くとおりだろう。「革命」ではなく「敗戦」だという指摘も同意する。しかし、以下の点で宮沢説を擁護したい。
第一に、ポツダム宣言が発せられた当時の統治権者は天皇だったのだから、その受諾は天皇の名において行うしかなかったはずだ。天皇以外の名で行われたとすれば、その正当性が問われたに違いない。
天皇の名において受諾したにしても、受諾によって、法的に主権が天皇から国民に移ったと考えるべきではないのか。
もちろん、それが「法的な意味における革命」かどうかは別問題である。

法的に主権が国民に移っているのであるから、憲法の制定には法的根拠があると考える。
松本説に対する第二の疑問は、第9条に関してである。それが懲罰的条項だからといって、直ちに非ということなのかどうか。先ず問われるべきは、その内容の妥当性だと思う。
とはいえ、私は、第9条を金科玉条として変更すべきでない、と考えているわけでもない。懲罰的条項だから否定されるべきだという考えに組しない、ということである。

というようなことはともかく、そもそも、「八・一五に革命があった」という説は、いま広く信じられているのだろうか。とてもそうは思えない。
「ポツダム宣言の受諾による敗戦があった」という認識の方が一般的だと思う。

「ポツダム宣言を黙殺する」という日本政府の態度表明によって、(日本の降伏を早めるために)「アメリカが原爆を投下し、ソ連が参戦することになった」という説が神話かどうか、は微妙な問題だと思う。
松本さんは、それらがポツダム宣言以前から米ソによって計画されていたのだから神話だ、という。
確かに、原爆投下も対日参戦も、相当の準備期間を要することだから、「ポツダム宣言黙殺」の表明を受けて、瞬間的に決断するというようなことではないだろう。

しかし、ポツダム宣言を直ちに受諾していれば、アメリカの原爆投下も、ソ連の対日参戦も、理由がなくなっていたはずである。
無条件(かどうかは議論があるにしても)降伏した国に、原爆を投下したり、改めて宣戦布告することは許されないからである。
黙殺という態度表明の故かどうかは別として、ポツダム宣言受諾が遅延したことが、原爆投下やソ連の参戦を可能にした、という認識は、決して神話ではないと思う。

「八月に革命があった」などとはとても思えないが、レジームの転換があったことは間違いないだろう。もちろん、「敗戦」による他動的な転換であるにしても、である。
そして、その転換は、総体として是とすべきものではないのだろうか。

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2007年8月14日 (火)

終戦の経緯と国体護持

読売新聞戦争責任検証委員会『検証 戦争責任〈2〉 』中央公論社(0610)によれば、昭和天皇や天皇の側近だった木戸幸一内大臣が終戦工作に向けて動き始めたのは、1945(昭和20)年6月に入ってからだった。
5月にドイツが降伏し、本土は連日空襲に曝されており、沖縄戦も必敗の様相だった。
しかし、6月8日の御前会議で、戦争を継続することが決定された。そのことを天皇から聞いた木戸内大臣は、「時局対策私案」を一気に起草した。

その中に、天皇の親書を奉じてソ連に和平の仲介を依頼し、和平交渉に入ることが盛り込まれていた。
既に4月6日の時点で、ソ連から日ソ中立条約を継続しないことが通知されていたが、条約の有効期間は残っていた。その期間は、ソ連からの侵攻はないと考えるのが自然だろう。
しかし、ソ連は戦後を見据えて対日参戦の機会をうかがっていたのだ。
ソ連が和平の仲介に立つことは、客観情勢としては可能性がなかったわけだが、可能性があると考えたことが終戦の判断を遅延させる要因の一つとなった。

7月26日にポツダム宣言が発せられた。全13項からなり、トルーマン米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中華民国総統が署名した。
東郷茂徳外相は、ポツダム宣言が「日本政府は日本国軍隊の無条件降伏を保障する」ことを求め、「日本の無条件降伏」ではない点に注目した。
そして、ポツダム宣言後においても、宣言に加わっていないソ連を通じて、和平交渉を少しでも有利に交渉できるのではないか、と考えたのだった。
鈴木貫太郎首相は、7月28日の記者会見で、和平交渉のための時間を稼ぐ意図で、「ポツダム宣言を黙殺する」と発言するが、これが連合国に受諾拒否の意思表示と受け取られ、結果的に、原爆投下やソ連の参戦を誘発して(というよりもそれが可能な状況を作り出して)しまう。

8月9日に最高戦争指導会議が、天皇臨席のもとで開かれた。ソ連の対日宣戦布告で、和平工作の道は閉ざされてしまっていた。
東郷外相は、「天皇の国家統治の体験に変更を加うる要求を包含して居らざるとの了解の下に、日本政府はポツダム宣言を受諾す」との案を主張した。
米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長はこれに賛成したが、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、受諾条件を広げることを唱えて反対した。

鈴木首相は、天皇の判断を仰ぎ、天皇が「自分の意見は外務大臣に同意である」と決断を示した。
8月15日、天皇の詔勅がラジオで放送された。
結局、日本の指導者が最後まで拘ったのは、天皇大権の維持、つまり「国体護持」だった。天皇制は象徴天皇制として存続し、現在の日本国憲法でも、第1章は天皇に関する規定である。「国体」という言葉は戦後過程の中で死語化したが、僅か62年前には最大の関心事だったのである。

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2007年8月13日 (月)

戦中レジームの一断面

「戦後レジーム」を考える視点の一つは、「戦前・戦中レジーム」との対比であろう。「戦前・戦中レジーム」とは何か?
もちろん、多様な側面があっただろうが、とりあえずは、帝国主義、軍国主義、皇国史観などの言葉で表されるような時代といえよう。
その体制を支える制度の一つに、治安維持法があった。

8月7日の産経新聞に、戦時下の特高警察の捜査資料が散逸の危機にさらされている、という記事が載っていた。
資料は、元特高係の井形正寿さん(86歳)が、勤務先の警察署からひそかに持ち出して保管していたものだが、高齢のために管理が難しくなっており、大学や図書館などの寄贈先を探している、ということだ。

資料には、例えば東条英機首相宛の「……戦争にマけてモヨいから、一日モ早く戦争がすめばよいと思います」というような、率直な声が残されているという。
特高警察側からみれば、治安維持法に照らして「不穏文書」と位置づけたものであり、差出人は捜査の対象にされた。
敗戦後、特高係の捜査資料は、すべて焼却してしまうよう指示があったが、井形さんは、「命がけで信念を訴えたと思うと、……ちゃんと歴史に残しておきたかった」という思いで、背広の胸ポケットなどにしのばせて自宅に持ち帰ったという。

治安維持法は、1925(大正14)年に公布された法律で、「国体変革・私有財産否定を目的とする結社・運動の取り締まり」を目的としていた。
「国体」という言葉は、今ではもっぱら国民体育大会の略語として用いられているが、治安維持法でいう「国体」は、「天皇が統治する日本国の国家体制のこと」である。
ほぼ同時に普通選挙法も公布されたことから、飴と鞭の関係にたとえられる。敗戦後の1945(昭和20)年10月に廃止された。

現在の生活からはなかなか想像することができないが、治安維持法により、194人が拷問で殺され、1503人が獄中で病死したとされている。まさに恐怖の悪法というべきであろう。
治安維持法が廃止されたことからだけでも、「戦前・戦中レジーム」よりも「戦後レジーム」の方がマシだと思うが、治安維持法に抗して「命がけで信念を訴えた」庶民が少なからぬ数存在し、治安維持法の執行者の側だった中に、その思いを後世に伝えようとしている人がいることに、ホツとするような思いがする。

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2007年8月12日 (日)

戦後レジームについて

7月29日に投票が行われた参議院議員選挙は、「自民党の歴史的大敗」という結果となった。
安倍総理は「戦後レジームからの脱却」を旗幟の一つとして掲げていたが、それが論議の焦点となったとは言い難い。
有権者の関心は、年金問題や閣僚の不手際が相次いだことに向いていたように思われる。
また、2005年の「郵政総選挙」で自民党を勝たせ過ぎてしまった、という感覚もあっただろう。郵政民営化は是としたが、その他の争点についてまでも、全面委任したわけではない、という意識である。

結果として、参議院は民主党が第一党となり、一方で衆議院は自民党・公明党が圧倒的多数派のままだから、国政は捩れ構造を抱えることになった。
安倍総理はいち早く続投を表明したが、自民党内部からの批判も相次いでいる。国会運営は多難となるであろうから、早晩解散総選挙という事態になるのかも知れない。

総選挙となれば、まさに「戦後レジームからの脱却」は大きな争点となるだろう。
正直にいえば、安倍総理が「戦後レジーム」という言葉で何を表現しようとしているのか、必ずしも明快ではない。
世界史的にみれば、先ずは「戦後冷戦体制」だろうし、国内的に考えれば、自民党と社会党が対立しつつ補完してもいた「55年体制」ということになるだろうが、それはとっくに崩壊している。
おそらくは、現憲法をはじめとするいわゆる「戦後民主主義体制」を指し、その脱却とは憲法改正等の施策のことだろうと思われる。

私は敗戦の時点でちょうど満1歳だったから、まさに「戦後レジーム」という時空の中で生きてきたことになる。
だから、「戦後レジーム」についてはもちろん拘りを持っているが、一方で、戦後も既に60年以上を経ているのだから、そこからどう脱却していくかを考えることも当然のことだと思う。
そして、脱却を考えるための前提として、どう総括するかという問題があると考える。

「戦後レジーム」には、さまざまな要素がある。その一つに、「日米安保体制」も挙げられるだろう。
「日米安保体制」の確立に重要な役割を担ったのが、安倍総理の祖父・岸元総理だった。
「60年安保」は、戦後史を特徴づける出来事だっただろう。今では想像もつかない程の数のデモ隊が国会を取り巻いた。
6月15日には、デモ隊の渦の中にいた東大生の樺美智子さんが亡くなるという不幸な事態も起き、「岸を倒せ」の声が広がった。
しかし、岸元総理は「(安保改訂に賛成する)声なき声が聞こえる」と言い、「歴史が判断する」と強行突破したのだった。

安倍総理は、A級戦犯容疑に問われたこともある祖父を大変尊敬しているらしい。
続投表明後の安倍総理の姿勢は、まさに「声なき声」を頼りに、「歴史の判断を仰ぐ」と言いたげにも見える。
しかし、まさか「戦前・戦中レジーム」の方が良かった、と考えているわけではないだろう。
とすれば、「ポスト戦後レジーム」をどう構想するのか、もっと積極的な説明が求められるのではなかろうか。

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2007年8月11日 (土)

ガソリン価格の急騰

ガソリン価格が急騰騰している。通りがかりのスタンドの表示価格は、レギュラーで147円のところが多い。石油情報センターの発表(6日現在)でも、全国平均小売価格が、145円10銭で、先週末より3円80銭も高騰し、1987年の調査開始以来の最高値を更新したという。

0708092石油情報センターが発表したレギュラーガソリンの価格の推移は、左図のようになっている(静岡新聞8月9日)。
2年前には120円程度だったのだから、それから20%程度上昇していることになる。1円でも安く購入したいという消費者ニーズに対応すべく、ここ1~2年でセルフ方式のスタンドがずいぶん増えた。

ガソリンの店頭小売価格は、スタンドへの卸価格をもとに決められるが、元売会社は、原油の輸入価格に、諸経費やガソリン税を加え、それに利益を付加して小売業者に出荷している。つまり、小売価格の高騰は、原油価格の高騰を受けて、元売大手各社が、8月出荷分の卸価格を引き上げたことを反映している。

地下に埋蔵されている石油から、ガスや水分や異物お取り除いたものが原油である。原油を蒸留すると、沸点の違いによってさまざまな成分に分かれる。沸点が35~180°Cの留分をナフサと呼び、80°C未満を軽質ナフサ、80°C以上を重質ナフサと区分けしている。軽質ナフサは、石油化学工業のエチレンプラントの原料として使用されるものが多く、重質ナフサはガソリンの原料や芳香族炭化水素製造の原料として使用されている。

石油は利便性の高いエネルギー源として、モータリゼーションを支えてきた。クルマはいまや生活必需品である。
プラスチックス、合成繊維、合成洗剤、合成ゴムなどの日用品も、ほとんどすべてが石油から作られている。石油から化学製品を作り出す石油化学は、第二次大戦後に急発展した。
わが国では、1960年頃から石油コンビナートの建設が始まり、60年代の経済の高度成長の相当部分を石油化学産業が担ったはずだ。1960年の三井三池の大争議は、石炭から石油への転換を象徴する出来事だった。
しかし、化学製品に用いられる石の量は、全体の10%に満たないという。残りは燃料として用いられるわけだが、燃料は燃えれば水と炭酸ガスになる。

石油は、地下から掘り出す有限の資源であるから、いつか枯渇するときが来る。現在われわれば、石油文明ともいうべき石油の恩恵を潤沢に享受する社会に生きている。
今生きているわれわれが、将来世代にしなければならないことの一つは、石油をなるべく長持ちさせることだろう。確かにガソリン価格の高騰は生活を直撃しているが、石油を燃料として湯水のように(?)消費する時代はもう続けて行くことができないのではないか。
再生可能エネルギーでどこまで賄えるのか、また価格はどの程度になるのか、多くの課題があると思われるが、そういうテーマこそ湧源性が発揮されるべきだろう。

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2007年8月10日 (金)

ソ連の対日参戦

8月9日は、長崎への原爆投下だけでなく、ソ連が国境を越え、満州・中国東北部への侵攻を開始した日だったことを忘れてはならないだろう。相互不可侵などを定めた日ソ中立条約を一方的に破棄しての電撃的な作戦だった。「死に体」だった日本に、敢えてソ連が参戦したのも、戦後に対する思惑からだった。

ソ連の対日宣戦布告が佐藤駐ソ大使に伝達されたのが満州時間で8月8日の深夜であり、9日午前零時を以て戦闘が開始された。後から振り返ればいささか戯画的にも見えるが、当時、日本は連合国との和平工作を、ソ連を仲介者として進めようとしていたのだった。
日ソ中立条約については、既に1945(昭和20)年4月6日に、ソ連から延長しない旨通告されていたが、同条約の期限が1946(昭和21)年4月25日だったから、日本政府や軍関係者は、ソ連の対日参戦の意思を認識できていなかった。

7月25日に、佐藤駐ソ大使は、近衛文麿を特使として派遣することを受け入れるよう要請したが、ソ連からは何の回答も得られなかった。日本必敗は明白だったから、戦後を見据えて、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、対日参戦する大義名分を探していた。
8月6日に広島に原爆が投下され、直ぐにでも日本が降伏するかという情勢だったが、8月7日に佐藤大使がモロトフ外相に面会を申し込んだことにより、日本がまだソ連の仲介に希望を繋いでいることをソ連側は理解した。
スターリンは、日本が降伏してしまうと参戦の機会が失われるので、当初11日に予定されていた戦闘開始を9日に前倒しするよう指示した。

8月8日にクレムリンを訪れた佐藤大使に対して、モロトフ外相は、日本がポツダム宣言を拒否したこと、ソ連が連合国から対日参戦を提案されていることを理由に、ソ連がポツダム宣言に参加し、日ソ中立条約を破棄して対日参戦することを伝えた。
ソ連の仲介に一縷の望みを託していた日本は、冷たく突き放されたのだった。佐藤-モロトフ会談の1時間後には、ソビエト極東軍は満州の日本軍への攻撃を開始した。さらに10時間後には、長崎に原爆が投下された。

8月14日に、日本はポツダム宣言を受諾し、これを受けてアメリカは停戦命令を発したが、ソ連は攻撃を緩めることなく、南樺太、千島への侵攻を開始した。ソ連は、北海道の北半分を占領する分割案を提案していたが、アメリカはこれを拒否した。
8月22日、ソ連は北海道分割案を撤回し、部隊を国後・択捉・歯舞・色丹に転戦させ、全千島を占領した。現時点で、どこで戦争を終結すべきだったかを言うのは後知恵というものかも知れないが、最後の何日間かの終戦の遅延が、今日に至る北方領土問題を生みだしたのだとは言えよう。

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2007年8月 9日 (木)

長崎への原爆投下

長崎へ原爆が投下されてから、62年が過ぎた。原爆投下を巡っては、先の参院選の自民党大敗の一因ともなったかと思われる、久間前防衛相の「しょうがない」発言が記憶に新しい。
久間氏は長崎2区選出であるが、6月30日に麗澤大学で行われた講演において、「長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理」だと語ったと伝えられている。つまり、原爆投下は、戦争終結のために行われ、戦争終結のためには「しょうがない」という認識を表明したものだろう。
久間氏の言う「しょうがない」のニュアンスには良く分からない面もあるが、最終的には肯定せざるを得ない、というのが普通の解釈だと思う。

さすがに世論の反発は大きく、久間氏は防衛相を辞任するはめになったし、参院選の長崎選挙区でも、民主党候補が当選した。被爆国としては当然の反応だと思う。しかし、一方で、「戦争終結のため」という投下の理由は、アメリカでは多数意見のようでもある。
久間氏が、あの時点でああいう発言をした真意もまた良く分からないのだが、とかく問題発言が多いとされていたので、アメリカの立場からの発言によって点を得ようとしたのであろうか? 
しかし、こういう意見のように、もし、原爆投下がなければ日本は降伏しなかったということであれば、「しょうがない」とセットで、戦争継続の責任をより厳しく問わねばならないだろう。

原爆開発者たちは、その威力に関して良く承知していたと思われる。だからこそ、原爆の開発を急いだはずである。そして開発の時点では、確かに戦争終結の手段として位置づけられてもいたのだろう。
しかし、客観的に見れば、既に1945(昭和20)年の8月段階で、日本は「死に体」だったのではないか。つまり、敢えて原爆を投下しなくても、日本の降伏は時間の問題だったのであり、それは、アメリカの戦争指導者も認識していた。
にもかかわらず、原爆投下に踏み切ったのは、日本を降伏させる以外の狙いがあったと考えざるを得ない。それは何だったのだろうか? 

結局は、その威力を実際に人の生活している場所で確認するためだったのではなかろうか。戦争の終結を前提とすれば、勝利者側では、戦後におけるイニシアティブをどの国がとることになるかが重要な関心事になる。
つまり、戦争に勝つことよりも、戦後に優位に立つことの方がより大きなテーマになっていただろう。そのためには、原爆の威力を目に見える形で示すことが有効だと考えたのではないか。

つまり、原爆投下は、実験でありかつ示威であったということだろう。百歩譲って、戦争終結のためだとしても、広島だけで十分過ぎたはずではなかろうか。広島に加えて間をおかず長崎に投下し、しかも広島がウラニウム型、長崎がプルトニウム型と別の種類だったことも、実験や示威の意味合いを感じさせるように思う。

言い換えれば、原爆投下は大規模な人体実験だったということになる。今さらではあるが、東京裁判で問われた「人道に対する罪」は、まさに原爆投下に対して適用されるべきものではないのだろうか。
久間発言は、世論からNOを突きつけられ(当たり前ではあるが)、その世論も参院選を経て既に過去のことにしてしまっているように感じられる。しかし、現在の豊かになった日本が、原爆の惨禍を出発点としていることを思えば、原爆投下を巡る論議は、決して風化させてしまってはならないはずだ。

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2007年8月 8日 (水)

はじめまして

知人・友人にもブロガーがずいぶん増えてきました。遅ればせながら今日から仲間入りしますので、宜しくお願いします。

私は、1944(昭和19)年8月8日生まれだから、今日でちょうど満63歳。朝早くからセミの声がうるさいほどだし、少し歩けば汗が吹き出してくるが、もう立秋。季節の盛りには、もう次の季節への移ろいが確実に準備されている。
思えば長いこと生きてきたし、おそらくはもうしばらくの間生きているだろうと思うが、この歳になって感じるのは、個体の一生の儚さである。振り返ってみれば、何事のことをなし得たのか、その心許なさは、まさに「夢幻の如くなり」という気がする。

  夢の世に葱を作りて寂しさよ(永田耕衣)

その夢幻のような人生の中で、人は、喜び、悲しみ、悩み、煩悶し、悦楽し、……する。そしてそれぞれに固有のなにがしかの痕跡を残すことになる。葱を作るのも痕跡だろうし、ブログを書いてみるというものも痕跡を残そうという試みの一種だろう。

個体としての人の一生は儚いものであるとしても、類としてみれば、人は自然の営みを超越した成果(文明・文化)を残してきた。その成果の個々の側面については評価が分かれるかも知れないが、人類が他の動物と異なる創造力を発揮してきたこと自体は否定できない。
その創造のエンジンを、日本初のノーベル化学賞受賞者の福井謙一博士は、「湧源」という言葉で表現された。『学問の創造』佼正出版社(8904)から引用する。

流体力学の専門用語で、吸い取る口(吸入口)を「シンクsink」という。対して、湧き出るところ(湧源)を「ソースsource」という。この言葉を借りれば、これまでもっぱら「シンク」に終始してきた日本は、この先「ソース」になることをめざさなければならないという意見を私はもっている。日本は新しい技術という「水」を湧き出でさせ、それを他国へ流していく、その「湧源」にならなければならないと私は思う。

私自身は、きわめて湧源性に乏しい存在であることを自覚しているが、夢幻の如き人生において、湧源になることの重要性は人並みに認識しているつもりである。
言葉遊びのようになってしまうけれど、夢幻の如き人生においてなし得ることは有限でしかないが、湧源性を志向することによって、無限の可能性への道が開けてくる、と言えるのではなかろうか。

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