第二芸術論への応答
桑原武夫の『第二芸術』について、阿部誠文『戦後俳句の十数年』(佐藤泰正編『俳諧から俳句へ 』笠間書院(0507)所収)は、名家を選ぶ基準も示されず、手元の資料だけにより、素人数人の意見で結論を急いでいるなど、方法にも結論も妥当性を欠き、無効である、としている。
しかし、同時に、きわめて有効な評論であった、ともする。反響が大きく、阿部氏の調査の範囲で、昭和22年だけで、90篇の反論が書かれている、という。
阿部氏によれば、反響は反発や批判が多かったが、それはいきなり俳句を否定された反発であり、俳人は、反発を示しながらも、俳句性の探究に向かった。
つまり、時代の転換期にあって、俳句転換を求める方向性が探求されようとしている折り、桑原の論は、俳句界のみならず、短歌界にも影響を及ぼした有効な批評であった、という評価である。
『第二芸術』に挑発されて(?)多くの論考が発表され、俳句の本質を探る試みが深まった。阿部氏の論文から抜粋してみよう。
1.山本健吉「挨拶と滑稽」(「批評」昭和22年12月号)
この論文は、「第二芸術論」と並行して書かれたもので、応答という位置づけではないが、俳句の本質に係わる論考として、幅広い影響を与えた。
俳句性(俳句が他のジャンルと違う点)として、「有季・定型・切れ」の三要素があげられる。山本はそのよってくるところは何か、と問い、「滑稽、挨拶、即興」を抽出した。
それは発句の要件というべきものであって、現代俳句には必ずしもそぐわないが、「第二芸術論」と相まって、俳人たちを俳句性探究に向かわせる役割を担った。
2.根源俳句
山口誓子は、「天狼」昭和23年1月号において、「人生に労苦し、齢を重ねるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが何を根源とし、如何にして現るるかを体得した」と書いて、俳句の根源について、問いかけた。
山口自身は、最初は生命イコール根源とし、後に無我・無心の状態が根源だと変化したが、多くの俳人が俳句の根源について論じ、「内心のメカニズム」「実存的即物性」「抽象の探究」などが論じられた。
3.境涯俳句
境涯俳句とは、人それぞれの境涯、その人の立場や境遇を詠んだ俳句をいう。
狭い意味では、昭和27、8年頃まで貧窮・疾病・障害などのハンディを負った生活から詠まれた句を指す。戦争の影響が、多くの人に重い境涯をもたらしたことの反映でもある。
4.社会性俳句
社会性俳句は、歴史的な社会現象や社会的状況のなかに身を置き、関わりながら詠んだ作品である。
狭い意味では、「俳句」昭和28年11月号で、編集長の大野林火が、「俳句と社会性の吟味」を特集して以後の流れを指す。
5.風土俳句
社会性俳句の中で、地方性、風土性の強い俳句を指す。俳句はもともと風土的であるが、特に地方の行事、習俗、自然を詠んだものをいう。
6.前衛俳句
金子兜太が、「俳句」昭和32年2月号に、『俳句の造型について』という俳句創作の方法論に関する論考を発表した。
「諷詠や観念投影といった対象と自己を直接結合する方法に対し、直接結合を切り離してその中間に“創る自分”を定置させる」というもので、そこから生まれた流れが「前衛俳句」と呼ばれた。
具体的には、以下のような作品を指す。
a 有機的統一性のあるイメージが、同時に思想内容として意味を持つ作品
b 二つのイメージを衝突させたり組み合わせた作品
c 多元的イメージを一本に連結した作品
阿部氏によれば、戦後の十数年は、政治的・経済的な混乱・転換期で、生活することや精神面で自らの拠り処を必要とした。
その起爆剤となったのが、桑原武夫の「第二芸術論」であり、それを表現の探究へ向かわせたのが、山本健吉の「滑稽と挨拶」だった。
しかし、社会が安定するにつれ、自己の拠り処を求める切実さは失われ、新しい俳句の探究も影をひそめていった。
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コメント
私の俳句を見ていただけませんか?
投稿: 森川祐三 | 2020年1月 2日 (木) 23時35分
私はあなたの文章を見ていません。不愉快になる可能性の方が高いからね。複雑の窮の単純。これがベートーヴェンや源氏物語です。これを見いだせないものに芸術は一生閉ざされた本に過ぎないでしょう。俳句は[美]かもしれません。美は主観的心理に依るからです、カントの意味での美をいいません。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵に美を見出すことは誰でもできます。僕も小学生の時に読ん芥川龍之介と夏目漱石を今だに忘れません。しかし小学生に彼らが本当に理解出来るのでしょうか?noだとするなら理由は簡単。芸術は美を表すものでないからです(耽美派云々ということではなく)。幾千の創作的労苦を積み上げたものだけ芸術をつくれます。技巧は必要です。俳人はこれを間違えて解釈しています。もっと客観的に、土台を堅固に、厳しく見てください。本当に俳句が小説に対等でしょうか。それはポピュラー音楽がクラシックと対等かという問題と似ています。僕からすればあなたたちも伝統的な小説重視の古い考えに抵抗した古い考えに過ぎない。桑原武夫は俳句をも読んだでしょうが、俳人は普段何を読むのですかね。芸術を完成させるためのフォルムとして俳句は前提から失格しているということを考えて下さい。僕は真の意味で俳諧的な日本の精神が間違えた方向に文学者を誤らせたと考えます。感傷はよしなさい。精進しなさい。作品そのもので勝負しないと芸術はもう死んでいます。それは老人に旧き良き故郷を思い出させる道具にしかならないでしょう。
確かに芸術作品はひとを飽きさせやすいものです。偉大なものほどそうかもしれません。そう考えると俳句というようなものを許容できるほうが幸せだったと思わないこととありません。衆寡敵せず。僕はまだ高校生です、しかし間違えたことをいったつもりはありません。
(本当は夜中にこれを書いたのですが電池が丁度少ないときに書いていたので、充電しなおしたときはもう消えてました。そっちの方があなたを納得させらるとおもったのですが、、、。前に読んだ人も曲解が多かったから今回もそう思ってしまいます)。ぜひ返信して下さい。よっぽどあなたが子供の頃よりより精進している自負があります。
投稿: 大塚匠海 | 2020年1月 3日 (金) 12時36分