2009年7月10日 (金)

平岡正明さんを悼む

7月9日、評論家の平岡正明さんが亡くなった。
68歳だった。
長寿化が進む中で、一般論としていえば、早い死だということになるだろう。
しかし、処女作の『韃靼人宣言』現代思潮社の出版が1964年だから、それから数えれば45年ということになる。
その間に100冊以上の著書を書いているのだから、評論家人生としては、決して短いということではないのかも知れない。

早稲田大学露文科中退。
つまり、五木寛之さんと同じ学歴ということになる。
60年安保には、ブントの活動家として参加。
Wikipedia(09年7月10日最終更新)によれば、大学中退後の略歴は以下のようである。

ブントから脱退して宮原安春らと政治結社犯罪者同盟を結成。1963年、同盟機関誌の単行本『赤い風船あるいは牝狼の夜』を刊行したところ、同書に収録した吉岡康弘撮影の無修正ヌード写真が問題となり、猥褻図画頒布の容疑で警視庁から指名手配を受けたが、不起訴となる。なお、この書籍に赤瀬川原平の「千円札を写真撮影した作品」が掲載されていたことから、「千円札裁判」が起きるきっかけになった。
1964年、現代思潮社から『韃靼人宣言』を刊行して評論家デビュー。1967年の著書『ジャズ宣言』からジャズ評論の分野にも進出。1969年、渋澤龍彦の後任者として天声出版刊『血と薔薇』第4号を編集。
また、谷川雁・吉本隆明の「自立学校」事務局、谷川雁のラボ教育センターなどを転々とする。一方、「犯罪者同盟」以来のアナーキーな行動や著作で、新左翼系文化のカリスマ的存在となる。
1970年には、松田政男、足立正生、佐々木守、相倉久人と「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊した。
また、1970年代に入ると「水滸伝」をヒントにして、太田竜、竹中労らと窮民革命論を唱え、“新左翼三バカトリオ”と呼ばれたこともある。

私も平岡さんの著書のうち何冊かは買い求めているはずであるが、整理が下手なせいもあって、手許には、『石原莞爾試論』白川書院(7705)しかない。
36歳のときの著書であるが、この頃の平岡さんは、その過激な発言によって、重信房子などのアラブ赤軍と連続ビル爆破事件の東アジア半日武装戦線の仲介者と目されたこともあったらしい。
上掲書の「あとがき」にそういうことが書いてある。

平岡さんと石原莞爾とは、かなり異質の組み合わせという感じである。
かたや左翼過激派、かたや右翼過激派(?)である。
しかし、往々にして、左翼と右翼はメダルの裏表のような関係だったりする。
平岡流の規定によれば、石原莞爾は、日本近代史上稀な「武装せる右翼革命家」ということになる。
平岡さんは、学生時代から、「革命」が関心の中心に位置していた。
そういう観点からすれば、石原莞爾は大いなる関心の的だったのだろう。

平岡さんの作風について、Wikipediaでは以下のように評されている。

ただし、評論自体が「ジャズ的なノリ」で書かれることが多く、あまり論理的な文章ではない。平岡の感性でとらえた、「辺境的なもの、マイナーなもの」を、ことさらに称揚しているだけとも受け取れる。

確かに、論理による批評というよりも、連想の赴くままにアドリブで軽快なリズムを刻んでいく、といった感じの文章である。
私は、たまたまの中国訪問(09年6月5日:天安門の“AFTER TWENTY YEARS”)後、にわかに付け焼刃的な中国学習の徒になった。
しかし、ウイグルでの衝突などについて、自分の見解といえるようなものを持てるまでには至っていない。
中国は、古代においても近代においても、日本史にとって大きな存在である。

私たちの世代にとっては、石原莞爾のイメージは、満州事変の立役者ということだろう。
それは、ネガティブなイメージが強いが、しかし、世の中には石原讃歌とでもいうべき著書も少なくない。
石原莞爾をどう評価するかは、日本近代史の認識を分光するプリズムなのかも知れない。

平岡さんの著書の中に、『中国 水滸伝・任侠の夢』日本放送出版協会(9604)がある。
『水滸伝』は、子どもの頃、もちろん子供向けに翻案したものであるが、こんなに面白い本があるのか、と繰り返し読んだ記憶がある。
平岡さんは、窮民革命論などをみても、『水滸伝』にはかなりの思い入れがあったことが窺われる。
平岡さんの訃報を聞いて、すっかり忘却の彼方になってしまっていた『水滸伝』をもう一度読み返してみたくなった。

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2009年7月 9日 (木)

水俣病の原因物質

7月8日、救済を求める水俣病未認定患者に、一時金や療養手当などを支給することを規定した特別措置法が、参院本会議で可決、成立した。
Photo_2 その救済の枠組みは、図の通りである(静岡新聞7月8日夕刊)。
約1万1000人を対象にした1995年以来の救済拡大で、今月中にも施行される見通しだという。
今回の特措法での救済希望者は約3万人いると推測され、そのうちの約2万人が対象になる見込みとされている。

この図を見れば、今まで、水俣病として認定されている患者が氷山の一角に過ぎなかったこと、1995年の政治解決がいかに不十分な形で行われたかが分かる。
救済の原資は、チッソを親会社と子会社に分割し、親会社が持つ子会社の株の配当金や売却益などを充当することになっているが、株式の譲渡は、救済の終了と市況の好転まで凍結する、とされているので、事実上は国からの金融支援に頼らざるを得ない。
速やかな救済の実現を優先すべきであり、国が支援を行いつつ、質と量の両面から十分な補償が行われることを期待する。

しかし、もちろんチッソの責任が棚上げされるようなことになってはならないだろう。
企業の社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)ということが言われているが、水俣病はCSRなどという以前の問題であろう。
JR西日本の福知山線で起きた脱線事故では、結果として山崎正夫社長(だけ)が起訴された。
企業のあり方を考える上でも、水俣病への対応の経緯を認識しておくことは重要だろう。

現在、水俣病の原因物質といえば、メチル水銀であることが広く知られている。
しかし、水俣病の歴史の中で、メチル水銀が公認されるまでにはさまざまな紆余曲折があった。
以下、西村肇・岡本達明『水俣病の科学』日本評論社(0106)による。
水俣病の最初の急性激症型患者が発生したのは、1953(昭和28年)末のことだった。
それが全く新しい奇怪な病気「水俣奇病」として認知されたは、1956(昭和31)年4月である。
それまでに発病患者は29名を数えていた。
狭い地域で集中的に患者が発生したわけであるが、「奇病」であることの認識に2年半かかったことになる。

発見された「奇病」は、当初は伝染病ではないかと疑われ、患者の一部は水俣市伝染病隔離病舎に収容された。
患者が発生した地域がパニック的状況に陥ったであろうことは、容易に想像できる。
しかし、熊本大学の研究班の努力によって、1956年11月には、伝染性疾患ではなく、重金属中毒であって、人体への侵入が水俣湾の魚介類によることが確認された。

その重金属類の汚染源はどこだろうか?
常識的に考えれば、新日本窒素肥料(チッソ)の工場以外にあり得ないだろう。
しかし、チッソ水俣工場は、秘密保持を理由に外部者の立入りを禁止しており、熊本大学の研究班も工場の中に入ることができなかった。
どんな重金属が工場から排出されているか、何も分からない状況だった。
熊本大学研究班は、成書の記載から類似の中毒症状を呈する毒物を探索し、工場廃水や水俣湾の海水・底泥などを分析して、その毒物が含まれているかどうかを調べるという方法をとらざるを得なかった。

結果はどうだったか?
海水や底泥からは、疑わしい毒物が次々と検出された。
つまり、水俣湾は多重に汚染されていたのである。
その結果、原因物質として、マンガン説、セレン説、タリウム説などが提唱された。
チッソは、これらの物質について、内外の事例から、原因物質ではあり得ないことを主張し、提唱された説を否定することに注力した。

さまざまな可能性の検討の末に、熊本大学研究班は、メチル水銀中毒患者に関する症状や病理所見と水俣病患者が合致することを見出し、1959年7月に公表した。
しかし、研究班内部で意見の差異があり、メチル水銀という特定を避け、有機水銀と表現した。

有機水銀説に対し、チッソは、水俣工場のアセトアルデヒド合成工程で硫酸水銀を触媒として使用していること、塩化ビニルの合成の触媒に塩化第二水銀を使用していることを認め、かつその水銀の損失の一部が排水溝から海に流入していることも認めた。
しかし、チッソで承知している水銀の形態はあくまで無機水銀であり、有毒な有機水銀が生成するということについては否認した。

一方で、1959年10月には、チッソ水俣工場の付属病院長の細川一院長が、アセトアルデヒド工場の精留塔のドレーン(塔底液)を猫に直接投与する実験を行い、水俣病の発症を確認した。
チッソは、アセトアルデヒド工場が、水俣病の原因であることを認識したわけであるが、その後もメチル水銀が工場内で生成することについて、強硬に否定を続けた。
そして、、1959年12月、「水俣病が工場排水に起因する事が決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わない」という条件のもとに、水俣病患者に見舞金を支払うことで、幕引きを図った。

チッソの水俣工場の技術部では、1961年末から62年初頃、アセトアルデヒド精留塔ドレーンから塩化メチル水銀を抽出したが、極秘にされ、一切発表されなかった。
工場内でメチル水銀が生成し、それが排出されることを知らなかった熊本大学研究班は、工場から排出された無機水銀が、どの段階でメチル水銀となるかということを研究対象とした。
しかし、1962年夏頃に、研究班は、アセトアルデヒド製造工程スラッジ(排出汚泥)から、塩化メチル水銀を抽出することに成功し、1963年2月、水俣病は水俣湾産魚介類を摂食することにより発症し、その原因毒物はメチル水銀化合物と正式に発表した。

政府が水俣病についての正式見解として、チッソ水俣工場アセトアルデヒド設備内で生成されたメチル水銀化合物と断定したのは、1968年9月26日で、熊本大学の正式発表から、実に5年半後のことだった。
熊本大学に同期して政府が対策を講じていれば、あるいは1965年頃に発生した新潟水俣病を防ぐことができたのかも知れない。
また、熊本大学が有機水銀説を公表した1959年7月から数えると、およそ9年になるが、この間に、水俣病患者はさらに多数発生しているのである。

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2009年7月 8日 (水)

『海の牙』と水上勉の直観力

水上勉は、水俣市での取材を終え、『海の牙』双葉文庫(9511)の執筆にとりかかった。
その際、「水俣病」と名づけることを控えて、「水潟病」とした。
熊本県に、小説の舞台として、架空の水潟市という都市をつくったのである。

水上勉は、なぜ「水潟」という名前にしたか?
チッソ(新日本窒素肥料)と似たようなビニールの可塑剤を製造している工場が、新潟県の阿賀野川上流にあることを知っていたからである。
それは昭和電工の工場であった。

その時点では、単なる思いつきだと、水上勉は言っている。
しかし、思いつきかも知れないが、それは大きな示唆を内包した直観力の産物だった。
『海の牙』が発表されてから約8年後、第二水俣病とも呼ばれる新潟水俣病の発症が確認されたのである。
チッソの関係者が、工場廃液説を認めていたら、あるいは厚生省などが本腰を入れて調査をしていたら、新潟水俣病は、たとえ発生を防げなかったとしても、実際に起きたほどの悲惨な事態は避けられたのではないだろうか。
Wikipedia(09年2月15日最終更新)で、新潟水俣病の経緯をみてみよう。

患者が起こした損害賠償請求訴訟において昭和電工側は「原因は新潟地震によって川に流出した農薬」と主張していた。1964年に発生した新潟地震により、水銀農薬を保管していた新潟港埠頭倉庫が浸水する被害を受け、そのとき農薬が流出したのではないかと疑われた。しかし当時、新潟県当局は被災した農薬の全量を把握しており、いずれも安全に処理されていたことを確認している。また、農薬として使用されていた水銀はほとんどがフェニル水銀であり、水銀中毒の原因物質となったメチル水銀ではない。また、農薬説は第一次訴訟までに被害を訴えていた患者が下流域にしかいなかったことを根拠としていたが、その後、より上流の地域にも患者が発生していたことが明らかになり、全くその主張の根拠を失った。
死亡患者の遺族の一人の法廷証言に「父は悶え、苦しみ……犬のように、猛獣のように狂い死にしました」とある。
第二水俣病は、熊本水俣病に対しての政府の責任回避ともいうべき対応によって引き起こされたといえる。政府は熊本水俣病が発生した時点で原因の究明を怠り、チッソ水俣工場と同様の生産を行っていた昭和電工鹿瀬工場の操業停止という措置をしなかったからである。熊本水俣病に対して的確な対応をしていたならば新潟水俣病は避けられたはずであるといわれる。また昭和電工は証拠隠滅のため都合の悪い資料をすべて破棄したと見られ、事件の全容解明はほぼ不可能とみられる。
国は、熊本の水俣病と同様、患者の認定基準に厳格さを貫き続けている。
新潟県は国の基準では認定されない患者も救済する方向で条例制定を目指している。

水上勉は、自ら化学知識がほとんどない、と言っている。
厚生省などの公衆衛生の専門家は、水上勉よりはるかに化学知識を備えていたはずである。
にもかかわらず、熊本水俣病において、不作為ともいうべき対応をし、間接的に新潟水俣病の加害者になっている。
チッソや昭和電工の社内技術者は、自社の工程がメチル水銀を排出することを認識していたであろう。
あるいは、明確なメカニズムは不明だったとしても、工場廃液が原因物質である可能性を想定していたはずである。
昭和電工が証拠隠滅を図っていることがそれを示している。

かつて「日経ビジネス」誌が、明治以来の日本の会社のランキングの変遷を調べ、その記事を再編集して単行本化した。
後に、『会社の寿命-盛者必衰の理』新潮文庫(8908)として文庫化されるほどのベストセラーとなった。
産業構造の変化が、個別企業の盛衰に大きな影響を与えることは当然である。
09年6月8日の項:GMの破綻と「盛者必衰の理」
会社ランキングの変遷はそのことを雄弁に物語るデータだった。

昭和の初めの金融恐慌や昭和大恐慌を経た昭和8(1933)年のランキングをみてみよう。
日本窒素(野口遵)、日本産業(傘下に、日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日本油脂など/鮎川義介)、昭和電工(森矗昶)などのいわゆる新興財閥が新たにランキング入りしているのが興味を惹く。
後に日本の公害史を代表することになる企業が同時に台頭しているのは、果たして偶然の一致なのだろうか。

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2009年7月 7日 (火)

水俣病と水上勉『海の牙』

水俣病をテーマにした小説に、水上勉『海の牙』双葉文庫(9511)がある。
昭和34(1959)年12月の「別冊文藝春秋」に発表した「不知火海沿岸」をベースに大幅に加筆し、昭和35(1960)年に、河出書房新社から刊行された。
松本清張によって開拓された社会派ミステリーに分類される作品である。

昭和34年はまだ水俣病という病名が確立していたわけではない。
「水俣奇病」と呼ばれていたし、チッソ(当時の社名は新日本窒素肥料)は、工場廃液が原因ではないと頑なに主張していた。
原因については、学者の間でも、風土病説、火薬爆発説などを唱える人もいた。
そういう状況の中で、水上勉は、病気の原因を工場廃液であると断定する形で小説を構成している。

水上勉自身の「「海の牙」について」という文章によれば、水上勉が小説化しようと思い立ったのは、NHKのTV番組がきっかけだった。
プロの作家になりかけていた水上は、当時はまだ原稿注文もない境遇だった。
TVでアナウンサーが、水俣市で発生している奇病を紹介しながら、その原因はいまだにわからず、工場廃液の水銀の影響だという説も、確定的とはいえないと説明している。
その時点で、既に49人の死者が出ていたというのに、原因は不明とされ、患者たちは工場廃液説に基づいて日夜陳情を続けているが、工場は関知しないことだとつっぱねて見舞金すら出していない。
政府も、手をこまねいて眺めているという状態だった。

水上勉は、これは白昼堂々と、大衆の面前で演ぜられている殺人事件ではないのか、と考えた。
そして、1ヵ月くらいの宿泊賃をもって現地に出かけた。
もちろん、取材費を提供してくれる出版社があるような作家になる前のことである。
そして、現地で約15日間、関係者にあって取材を続けた。
その結果、工場廃液説を確信したのだった。

帰京後直ちに執筆に着手し、工場都市の財政を支える唯一の大工場の排水に混じっている水銀が、魚介類を経て人間に摂取され、脳障害を起こすという南九州大学の説を冒頭に紹介している。
そして、それを否定する工場側と、補償を求める漁民との抗争を、軸にして小説を構成した。
その筆力によって、「水俣奇病」の恐ろしさが、リアリティをもって迫ってくる。

水上勉は、この『海の牙』で、昭和36(1961)年、第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞した。
また、同年上半期第45回直木賞を『雁の寺』で受賞し、いちやく流行作家の仲間入りを果たした。
1日平均30枚、月産1200枚を書いたと伝えられている。

水上勉と無言館館主窪島誠一郎氏との血脈関係の不思議さについて書いたことがある。
07年12月8日:血脈…②水上勉-窪島誠一郎
そして、太宰治と太田治子の間にも、同じような関係があった。
09年6月26日:太宰治と三島・沼津(4)

そういえば、太宰治と水上勉には、少なからぬ類似点があるのではないだろうか。
第一に、いま風にいえば、美系男子であった。
第二に、無頼の徒であった、もしくは無頼の徒を気取っていた。
第三に、第一と第二の結果として、大変女性にもてた(らしい)。
ちなみに、水上勉は、大正8(1919)年3月8日の生まれである。
太宰とちょうど10歳違ったことになる。

太宰の没した昭和23(1948)年の時点では、水上勉は、処女作『フライパンの歌』を上梓したばかりで、無名というに近い存在だった。
『海の牙』(双葉文庫版)の山村正夫氏の「解説」に、水上勉自身が、『フライパンの歌』は「僕は愛着のある作品ではないんです。……それまで僕は文学青年でしたけど、そういう生活が嫌になったんです。」と語っていることが引用されている。
つまり、太宰が入水した頃、水上勉は小説を捨てる生活を始めていたわけで、実人生において、太宰治と水上勉が交差したという可能性はほとんどないだろう。

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2009年7月 6日 (月)

静岡県知事選挙の結果と自民党の迷走

「想定の範囲内」と言うべきだろうか?
7月5日投・開票の静岡県知事選挙で、川勝平太氏が接戦を制した。
川勝氏は、『文明の海洋史観』中央公論社(9711)などの著作で知られる経済史学者であるが、2007年より、浜松市の静岡文化芸術大学の学長に就任した。
静岡県の総合計画に織り込まれている「富国有徳」の言葉などに影響力を持ったと推測されるが、静岡県の特に東部地域では知名度は余り高くなかったといっていいだろう。

自民・公明が推薦した坂本由紀子氏は、沼津東高から東大法学部を経て労働省(現厚生労働省)のキャリア官僚の道を歩み、1996年には、石川前知事の下で副知事に就任。
厚生労働省に局長として戻り、2004年の参院選挙で静岡選挙区から立候補して当選した。
現在はその任期の途中ということになる。

人脈や地盤という点からすれば、坂本氏が有利であったことは疑いえない。
そして、従来、静岡県は「保守王国」とも言われていたように、伝統的に保守勢力の強い風土だった。
しかも、今回の選挙に関していえば、もう1人の候補者の海野徹氏は、元民主党所属の参議院議員であり、選挙を担当する小沢民主党副代表が、川勝氏と海野氏の一本化を図ったものの、調整に失敗して両者が立候補するという状況だった。
今までの静岡県における選挙の常識からすれば、坂本氏の楽勝のパターンだったはずである。

海野氏が早くから立候補を表明していたのに対し、川勝氏も坂本氏も、諸般の事情で立候補の意思表示が直近になった。
共に短期決戦を余儀なくされたわけである。
そのことが、いわゆる「風」の影響を受けたことになるのだろうか?

結果は、以下の通りである。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2009070602000120.html

当 728,706 川勝平太 無新 =民社国
   713,654
 坂本由紀子 無新 =自公
      332,952  海野徹 無新

        65,669 平野定義 共新

川勝氏と坂本氏の票差は、15052票。
得票率の差は、0.8ポイントだから、接戦と言っていいだろう。

川勝氏が勝利したことによって、政局はどう動くか?
与党側は、国政選挙と地方選挙は別と強調しているが、静岡知事選が、総選挙の前哨戦的位置づけで戦われたことは間違いない。
次は都議選であるが、民主党が第一党にでもなれば(その可能性は高いと思われる)、影響は大きいだろう。

自民党は既に末期的な迷走ぶりを示している。
古賀選対委員長が、東国原宮崎県知事に自民党からの出馬を要請したという。
それに対して、東国原氏がつけたとされる注文がマスコミを賑わしているが、もはや茶番というべきだろう。
確かに宮崎県知事として、宮崎県のPRに大きな貢献をしたことは認めるべきだろう。
しかし、その実績が、国会議員に求められる資質や能力なのか?
私は、東国原氏の知事活動は、タレント稼業すなわち、そのまんま東の延長線上のものに過ぎなかったと考える。
つまり、自民党は、風の影響を受けて、行方定めず迷走しているように見える。

自民党の中では、本気で「麻生降ろし」を主張する向きもあるようだが、それでは次期総裁候補に誰を担ごうというのだろうか。
順当に考えれば、麻生首相と総裁の座を争ったメンバーが有力候補ということになるだろう。
2008結果は、表(Wikipedia09年7月1日最終更新)のようだった。
議員票は、総裁選で注目度を集めようとするイベント効果を狙ったものだろうから、自民党という組織のホンネは、地方票により明確に現れていると考えていいだろう。
麻生氏の圧勝というのが、当時の自民党という組織の意思だった。

選挙日は08年9月22日だったから、まだ1年も経過していない。
郵政民営化総選挙と比べれば、only yesterdayである。
この経過時間からして、他の候補者が、麻生氏を抜き去る力量を備えたというのはいささか難しいだろう。
とすれば、この中から総裁を選ぶとすると、前回総裁選の有権者は、総裁候補を評価し損なったということになる。

これら以外に有力候補者はいるのか?
総裁選には、山本一太氏と棚橋泰文氏が出馬意向を示していたが、推薦人が集まらなく断念している。
この2人とても、推薦人すら集まらない状況から、一挙に総裁へ、というのは難しいだろう。
中川昭一氏は、酩酊会見の記憶も鮮明だから、担ぐ人もいないだろう。
郵政問題で知名度を上げた鳩山邦夫氏も、党内には反発者も多そうである。
党内事情もさることながら、兄由紀夫氏が民主党代表で、兄弟で首相の座を争うという事態では、日本という国の器の大きさが問われかねない。
舛添厚生労働大臣?
せっかく担当しているのだから、先ずは年金問題等に注力するのが優先課題というものだろう。
と考えてくると、自民党の総裁候補者は払底しているというべきではないだろうか。
もっとも、私は、森喜朗氏の後、自民党は下野すべきだったのであり、政権交代が遅すぎたと考えるものであるが。

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2009年7月 5日 (日)

水俣病患者の救済について

水俣病未認定患者救済の特別措置法案が、衆議院で可決され、早ければ8日にも参院で成立の見込みだという。
救済の対象を、現在の「四肢末梢の感覚障害」に加え、民主党が主張していた①全身性の感覚障害、②口の周囲の感覚障害、③舌先2カ所の感覚障害、④視野狭窄の4つの障害を加えて、救済範囲を広げる。

しかし、現在救済を求めている人は約3万人いて、約2万人はこの範囲に入るが、それでもなお約1万人は対象外ということになる。
救済の方法は、一時金を支給することなどで、金額は与党が150万円、民主党が300万円を主張している。
斉藤環境相は3日の閣議後記者会見で、一時金の額や救済対象となる症状の診断方法などについて「関係議員や被害者団体と相談していく」と述べ、法案成立後に、救済策の具体化を急ぐ考えを示した。

水俣病は、1956(昭和31)年に熊本県水俣市で発生が確認されたことから、その名前が付けられた。
発生の確認から既に50年以上の時間が過ぎている。
当然のことながら、症状に苦しみながら亡くなられた人も少なくないし、被害者の高齢化も進んでいる。
早期救済を図るべきことは当然で、その道が開けたことについては一定の評価をすべきだろう。

水俣病の病像をどう捉えるかについては論議があるが、Wikipedia(09年6月13日最終更新)では次のように記されている。

水俣病はメチル水銀による中毒性中枢神経疾患であり、その主要な症状としては、四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、振戦(手足の震え)等がある。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらには死亡したりする場合もある。一方、比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚・嗅覚の異常、耳鳴りなども見られる。

従来、救済の対象は、重篤な患者に焦点があてられ、したがって限定的なものとならざるを得なかった。
今回はより軽症的・慢性的な患者も対象になるわけで、一歩前進であることは間違いない。
しかし、全面解決とするにはほど遠いというべきだろう。

今回の法案のポイントの1つは、原因企業であるチッソを持ち株会社(親会社)と事業会社(子会社)に分け、親会社が得る株式の配当や売却益を補償費用に充てることになっている。
問題は、補償支払いが完了した後に、子会社を存続、親会社は清算されて解散することになるという。
補償支払いが、完全に被害を償うものであるならば、責任会社を解散してしまってもいいかも知れない。
しかし、完全に被害を償うことなどあり得ない。
過去の時間は取り戻せないし、一時金の額も十分なものなどとは言えないからだ。

被害が拡大したことについて、チッソの責任が大きいことは当然である。
私も化学会社に在籍したことがあるから、他人事ではないのだが、明らかにチッソからの廃液が原因物質であることが明確だと推論される段階になっても、それを認めようとしなかったことの責任を、化学会社は教訓とすべきであろう。
現に、後に新潟県で昭和電工からの廃液によって、新潟水俣病あるいは第二水俣病と呼ばれる被害が発生している。

チッソの責任に加えて、国の不作為が、被害拡大をもたらしたことも改めて指摘するまでもない。
今回の法案では、「水俣病被害の拡大を防止できなかったことについて、政府の責任をみとめ、おわびする」ことが盛り込まれている。
この「おわび」をどう具体化するのか?

患者の中には、今回の法案は、患者の救済ではなく、(分社化による)チッソの救済ではないか、という怒りの声もあるという。
また、加害者の一部でもある国が決めた、という反発もある。
水俣病患者は、自身の身体に被った被害だけでなく、偏見や差別という被害も受けてきた。
そういう事情から、患者認定を申請してこなかった潜在患者もいる。
今回の法案成立で、最終決着などではない。
あくまで一時的な対策と位置づけるべきだと考える。
政府の「おわび」は、恒久的な対策を講じる「しくみ」を整備する形で具体化していくべきではないだろうか。

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2009年7月 4日 (土)

天皇の金塊(7)…ロッキード事件とゴールド・カルテル

田中角栄元首相を排除に導いた「ロッキード事件」には、未だ明るみに出ていない謎が残されている。
09年3月1日の項:ロッキード事件④…背後にある闇
09年3月14日の項:ロッキード事件⑨…日米司法取決と証拠の偽造
09年3月29日の項:ロッキード事件⑱…残されている謎 他

その謎のある部分が、高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社(0805)に記されている。
日本のマスコミの報じた「ロッキード事件」の構図は、首相および政府高官の絡んだ贈収賄事件というものだった。
上掲書によれば、「ロッキード事件」に登場する児玉誉士夫、シグ片山らは、CIAに連なる秘密ビジネスファミリー「ザ・カンパニー」の仲間である。
児玉誉士夫は、「金の百合」を強奪した張本人の1人であるが、終戦を境にCIAの職員に転進した秘密諜報員だった。
児玉は、CIAの給与台帳に登録され、ロッキード社の秘密代理人も兼ねていた。
シグ片山は、CIAが秘密金融作戦に活用するオフショア銀行の資本を握る偽装会社の代表者だった。

上掲書によれば、田中角栄元首相は、フィリピンのマルコス元大統領と同じように、「金の百合」に過剰に介入しようとして破滅させられた、ということになる。
ワシントン政府は、「ロッキード事件」によって、田中角栄を追い落とし、同時に、「金の百合」の秘密を知りすぎたメンバーを排除した。
サンティやシグ片山は、航空機の不正取引とは無縁だったが、田中追い落としに連動して葬られた。

「金の百合」の収益金は、第二次世界大戦終結の前年に創設された黒鷲信託基金(ブラック・イーグル・トラスト)に追加プールされた。
この基金は、反共産主義体制の確立とアメリカ式民主主義の導入を求めたイタリア、ギリシア、ドイツ、韓国、日本などの諸国に拠出された。
たとえば、日本の自由民主党は、岸信介が首相在任中の1957年から60年までに、年間1000万米ドル(当時の為替レートで36億円)を受け取った。
上記以外にも、ベトナム、インドネシア、イラン、アフリカ、南米チリなどの国々が、この基金から共産主義対策費用を受け取った。

この信託基金は、第二次世界大戦の終結する1年前、ブレトンウッズ条約会議の別室で、連合軍が押収したヒトラー財宝の扱いを研究してきたスチムソン長官らによって創設された。
ブラック・イーグルのイーグルはナチスのシンボルである。
この資金は、内戦時の中国毛沢東共産党と蒋介石国民党の双方に投じられた。
言い換えれば、中共軍も国民党軍も、ブラック・イーグルの資金で対日戦費を賄ったということになる。

日本が敗戦を迎えた1945年秋に、スチムソンらは、マッカーサーの日本占領軍が接収した金塊財宝の一部と、フィリピン山中の「金の百合」を、ブラック・イーグルに合体させた。
1970年代に中国を訪問したニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は、680億米ドル相当の純金のインゴットを中国にプレゼントした。
ニクソンらの狙いは、台湾への核攻撃を断念させることにあった。

マルコス元大統領は、サンティを、戒厳令法違反の容疑で逮捕し、サンティの資産を合法的に強奪した。
マルコスは、サンティに、その遺産を遅滞なく引き出せるように遺書を書かせた。
一方で、サンティは、1972年に戒厳令が布告された時点で、自分の資産を隠し始めていた。
その一部は、のちに三和銀行に買収された香港の小銀行に預けられたという。

マルコス元大統領は、「金の百合」を巡る金銭訴訟問題によって、ゴールド・カルテルの取引実態が炙り出されそうになることによって、末路を迎えることになった。
CIA長官らは、フィリピンで反マルコス・クーデターを仕掛けた。
1989年、マラカニアン宮殿から米軍のヘリコプターで脱出したマルコス夫妻は、実際はワシントン政府によって身柄を拘束されたのだった。

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2009年7月 3日 (金)

臓器移植法案について

柄にも無く「神の摂理」というような言葉が頭を駆け巡る。
臓器移植の問題である。
衆議院で、「脳死を人の死」とするいわゆるA案が、あっけなく(?)可決され、参議院で審議中である。

制度上の問題で、海外での移植手術に頼らざるを得ず、その結果手術をする前に亡くなった子供の例などをみると、国内で手術が可能になるように制度を変更するのは当然のようにも考えられる。
しかし、脳死の時点でも、細胞がすべて活動を停止してしまっている、というわけではない。
本当に「脳死は人の死」などと、法律で決めてしまっていいのだろうか?

自分自身のことについていえば、もし、私の臓器がどなたかの役に立つならば、脳死の時点で摘出して移植してもらうのは、大変結構なことだと考える。
しかし、果たしてそれを一般化してしまっていいのだろうか?

そもそも、脳死の判定は、誰が判定しても動かないものなのか?
臓器移植を受けた側の人(レシピエント)に対する影響はないのか?
免疫性の問題などを考慮すれば、それで必要かつ十分なのだろうか?
臓器を提供した人(ドナー)の遺族が、肉親の臓器を切り取ったことで、精神的にダメージを受けるような例もあるという。

吉本隆明『老いの流儀』日本放送出版協会(0206)に、興味深いことが書いてある。
吉本氏は、「宗教的な死を含んだ死というのは、科学と融合した理解が届かないと、本当の「死」といえないが、今の科学のレベルはそれ以前の段階で、そういう科学の段階で、脳死は人の死か否かといったことを国会で決議したり、脳死の判定基準をつくったりするのはもってのほか」とした上で、以下のように書いている。

では、何をもって人の死とするのか。フランスの哲学者で医学者でもあるミシェル・フーコー(1926~84)が、『臨床医学の誕生』という著書の中で、「疑問の余地のない死」について明確に言及しています。フーコーがいう「疑問の余地のない死」とは、全細胞が死滅した状態です。つまり、心臓死でもなければ、脳死でもない。全細胞が死滅したときが死だ、とフーコーは言っているわけです

死は点としては表わせないし、徐々に進行するプロセスなんですね。

「死」にいちばん最初に侵されやすい弱いところは粘膜質の部分で、そこから死がはじまると言います。それから徐々に内臓が死んでいって、次第に死んでいる部分が多くなり、生きている部分が少なくなっていく。

「脳死が人の死」というのは、脳死が折り返し不能だろうという判断ポイントである、ということである。
しかし、フーコー流に言えば、それは疑問の余地なき死に向かって進行中のプロセスでもある。
折り返し不能という判断も、現在の医学の水準での判断である。
医学が進歩すれば、脳死よりももっと手前の判断ポイントが提示されるかも知れないし、脳死からの帰還の可能性も論議されることになるのかも知れない。

もちろん、脳死状態の人が自ら意思表示できるわけではない。
だから、実際のところ、脳死の状態で臓器を摘出された人のことは誰にも理解できない。
次のような事例もある。

「A案が成立すると、うちの子どものような生き方が認められなくなるのではないか」。長男みづほ君(9)が「長期脳死」の女性=関東在住=は、A案の大差での可決を知り、肩を落とした。
みづほ君は00年、1歳のとき、原因不明のけいれんをきっかけに自発呼吸が止まり、脳内の血流も確認できなくなった。旧厚生省研究班がまとめた小児脳死判定基準の5項目のうち、人工呼吸器を外して自発呼吸がないことを確かめる「無呼吸テスト」以外はすべて満たした。それから8年、人工呼吸器をつけて自宅で過ごし、身長は伸び体重も増えた。
「今後も移植が必要な人は、どんどん増えるだろう。さらに臓器が足りなくなれば、死の線引きが変わり、私たちの方へ近寄ってくるかもしれない」と不安を口にする。
http://mainichi.jp/select/science/news/20090619k0000m040100000c.html

脳死であっても、痛覚はある、という人もいる。
結論的にいえば、私は今の時点で、「脳死を人の死」と法律で決めてしまうことには賛成できない。
いつやら、臓器移植法案を審議中の国会の様子がTVで放映されたことがあった。
驚くべきことに、少なからぬ議員が、明らかに居眠りをしていた。
何人かは私にも見覚えがあり、中には女性議員もいた。
もし、自分の選挙区だったら、絶対に投票したくないと思った。

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2009年7月 2日 (木)

人口減少社会の現実

現代が文明史的な転換期なのではないだろうか、ということを書いた。
09年5月21日の項:実質GDPの大幅減と文明史の転換
そして、その大きな要因として、わが国が減少人口社会に突入したことを挙げた。
09年1月2日の項:人口減少社会の到来とグローバル市場主義モデルの終焉
衆院選をめぐってさまざまな動きがあるが、小泉政権の「改革なくして成長なし」というスローガンをどう評価するかは、大きな争点と言っていいだろう。
私たちは、果たして成長を目指し続けていいのだろうか?
09年1月3日の項:モデルなき人口減少社会に向かって

今朝の産経新聞に、このことを痛感させられる記事が掲載されていた。
「静かな有事」という連載記事で、見出しは「抜け出せぬ成長期の呪縛」とされている。
「成長期の呪縛」とはどういうことか?
財務省の勉強会で財務官僚が口にした言葉。
「公的支出のあり方は経済成長期のモデルを引きずっている。頭ではなんとなく分かっていても体がついていかない…」

確かに、私たちの生きてきた時代は、人口が増え、経済が成長していくのが常態だった。
道路、港湾、鉄道、ダム、空港などのインフラが次々と整備されてきた。
静岡県でも、6月4日に、富士山静岡空港が開港した。
国内で96番目だという。
静岡県には、東海道新幹線の駅が6つある。
全国最多である。
だから、空港もあってしかるべきか?
私は、むしろ新幹線へのアクセスがいいのだから、空港は無くてもいいのではないか、と思う。

難産の末の開港だったが、黒字化するのは至難のことではないだろうか。
7月5日の知事選に向けて、各陣営が最後の注力をしている。
衆院選の前哨戦的位置づけがされているので、全国的な注目度も高いだろう。
民主党系候補が2人立候補しているが、それでも自民・公明推薦候補は苦戦を余儀なくされているようである。
この知事選自体が、空港開港をめぐって前知事が辞任せざるを得なかった結果だ。
本来的には、新空港開港はめでたいこととして、与党側に有利に働かなければならないところだろうが、そういう雰囲気は余り感じられない。

産経新聞記事には、水道の使用量予測のグラフが載っている。
私がリサーチャーの頃には、水需要をいかに抑制するかが大きな課題だった。
ダム建設が難しくなるにしたがい、ダムによって生み出される水のコスト(原水単価)の高騰が避けられず、水の供給能力が、成長の足かせになるとされていた時代である。
そのため、水需要を抑制するような水道料金(例えば逓増型料金体系)を提言したこともある。

しかし、今や需要が減ってきているために、水道料金を上げざるを得ない自治体が増えている。
Photo2040年度の水道料金は、2004年度の平均2.7倍になるという試算もあるという。
水道施設の耐用年数は約40年であるが、40年前の需要推計をもとに敷設された水道を、そのままの規模で更新しようとしている。
もちろん、上水道は最も基本的な生活必需財であり、その安定的な供給は、シビルミニマムと言えよう。
しかし、そのレベルを維持しようとしたら、大幅な料金値上げが不可避だということである。

もちろん、水道だけの問題ではない。
公的年金の制度設計の根本に、将来人口とその年齢構成がある。
それは、出生率の予測をどう考えるかという問題であるが、2025年の出生率を、1985年の時点では2.09と想定していた。
その後、出生率予測は下方修正されてきたが、それでも1.61程度である。
しかし、実際の出生率は減少を続け、2008年の出生率は、1.37だった。
経済全体への影響もあるが、年金制度の基礎が、いかに非現実的な予測に基づいているか、ということである。
人口減少社会の現実を見据えた制度設計が必須であり、衆院選のマニフェストの注目ポイントの1つとしていいだろう。

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2009年7月 1日 (水)

天皇の金塊(6)…「金の百合」とゴールド・カルテル

フィリピンのトレジャー・ハンターのロジャー・ロハスという男が、マルコス元大統領に対して、「金の百合」の一部を強奪したとして争われた民事訴訟は、ハワイ州の最高裁で結審し、430億米ドルの支払命令が下ったことについては既に触れた。
09年6月4日の項:天皇の金塊(4)トレジャーハンターとマルコス裁判
だが、ロハスはその最終結審日の直前に、何者かに毒を盛られて急死した。
ロハスの死体は、検死も解剖もされず、即材に焼却されてしまったが、病院の死因の欄に書かれていたのは、結核という文字で、ロハスの妻にはまったく心当たりのないものだった。

ホノルルの最高裁が確定した事実は以下のようなものだった。

旧日本軍の戦時略奪品は間違いなくフィリピンに隠されていた。ロジャー・ロハスはそれらの隠し場所を発見した。黄金ぶつぞうは金塊を鋳造して作られていた。
マルコスは本物の仏像と金塊財宝をロハスから盗んだ。マルコスは入手した仏像と金塊財宝を売却換金して数十億米ドルを手にした--。

マルコスは、ロハスが金塊を回収する以前から、「金の百合」の存在を知っていた。
マルコスに日本軍の財宝の存在を教えた“山師”は、アメリカ軍人の通称サンティと呼ばれる男だった。
サンティは、マッカーサー麾下の太平洋連合軍陸軍情報部G-2に所属するフィリピン系アメリカ人で、セルビノ・ガルシア・ディアス・サンタ・ロマーノという。
サンティは、1945年9月に投降した山下奉文将軍の専属運転手を務めていた小島香椎中佐の尋問担当官だった。
小島を拷問して、「金の百合」お隠し場所の一部を知り得たのだった。

サンティは、上官のランスディール中尉、マッカーサー将軍、OSS(後のCIA)のビル・ドオバン将軍、スチムソン陸軍長官、トルーマン大統領に、「金の百合」の発見とその規模を報告した。
米軍のクラーク基地とスービック基地は、非合法で金塊を海外に移転させる格好の基地だった。
サンティは、マルコスに代わって換金し、弁護士マルコスに大統領の座を買い取らせた。

サンティたちが回収した「金の百合」は、ゴールド・カルテルの手で世界市場を徘徊することになるが、金相場を崩さないように慎重に取引された。
サンティの上官のランスデールは変人として知られていたが、サンティが病死した後、サンティの銀行口座に残されていたカネを、自分の名義に変更した。
そのカネを使って、ワシントン政府、OSS、ペンタゴンの著名な上官の個人口座に入金した。
ランスデールは、中尉から陸軍大将へ破格の昇進を遂げ、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、フォード、カーター、レーガン、ブッシュに至る歴代大統領に仕える地位に座り続けた。
高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社(0805)の表現によれば、「金の百合」が、ワシントン政府高官の“へそくり”を支え続けた。

サンティとランスデールに「金の百合」の管理を命じたのは、OSSのウイーン支局長アレン・ダレス(初代CIA長官)、OSSの創設者ビル・ドノバン将軍、広島・長崎への原爆投下を指揮したヘンリー・スチムソン陸軍長官、トルーマン大統領らだった。
「金の百合」は、世界の金市場で通用する高純度の純金インゴットに改鋳された。
鋳造をやり直すことによって、金地金の本来の持ち主の痕跡は消え、戦後処理につきまとう返還訴訟や賠償請求を、記録不明を盾にして排除できる。
改鋳されたインゴットは、預託先のゴールド・カルテルの手で運用・売買された。

「金の百合」の運用益と売買利ザヤの大半は、ワシントン政府とOSS(CIA)の秘密の信託基金としてプールされた。
つまり、議会報告が不要で、使途も無制限で、会計監査も受けないカネである。
この基金の総額は、最低50兆米ドルを超えると想定される。
原爆の開発費は、22億米ドルで、第二次世界大戦で消費された通常兵器の総額に近いという。

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2009年6月30日 (火)

天皇の金塊(5)…「金の百合」と国際金融相関図

どうも関心があちこちに移ってまとまりがないが、6月4日の項の続きである。
高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社(0805)によれば、旧日本軍がフィリピン山中に隠した財宝を探り当てたロジャー・ロハスは、マルコス元大統領に、その財宝を奪われてしまう。

フィリピンの宗主国はスペインだったが、高橋氏の義父を自称するベラスコは、カトリックとスペイン語が支配する諸国を動き回った第二次大戦時のスパイだった。
マルコス元大統領に財宝を奪われたロハスは、1970年代末から80年代初頭にかけて、復活の日を待ち続けたが、その頃高橋氏は、マドリードのベラスコのアパートに入り浸っていた。
ベラスコは、日本が真珠湾を攻撃した2週間後から、日本政府の要請でスパイ活動に臨んだナチスの諜報機関員だった。

高橋氏が入り浸っていたマドリードのベラスコの家には、南米に逃亡したナチス・ドイツの高官のマルティン・ボルマンとアドルフ・アイヒマンが潜伏していた。
南米はベラスコのホーム・グラウンドだった。
カトリック教徒がスペイン語で暮らすアルゼンチンは、ベラスコが幅を利かした国で、ナチス亡命者が競って逃亡先に選んだ。
ボルマンとアイヒマンも、そのアルゼンチン・チャンネルで逃避したのだ。
アルゼンチンのファシスト独裁者ファン・ドミンゴ・ペロンは、ムッソリーニ崇拝者で、ベラスコのスパイ網に所属した1人だった。

ペロンは、ドイツの敗戦直前の1945年3月27日に連合国側に寝返った。
ベラスコがペロンに渡した秘密工作資金は、ナチスと日本政府が出所だった。
アルゼンチンは、ナチスが略奪した金塊財宝類や美術骨董品類の集荷先だった。
元ナチス党員が、旅客機、貨物船、潜水艦で運び込んだものである。
ベルリンから搬出した金塊財宝類をアルゼンチンで荷受管理したのがペロン夫妻だった。

ベラスコは、バチカンもホーム・グラウンドの1つだった。
上掲書によれば、バチカンとシチリア・マフィアは、正反対の行動を実践する組織だが、表裏一体の関係にある。
バチカンは、「物事には合法的に臨むべし、美徳を何よりも尊重すべし」を信念とし、シチリア・マフィアはその反対である。
表向きは、水と油であり、まじめで敬虔なカトリック信者にとっては、見たくも知りたくもないコインの裏面が、シチリア・マフィアだった。
社会にはダブル・スタンダードがある、というのがベラスコの説明である。

そのコインの表と裏を繋ぐのがマネーである。
イタリアの総統ムッソリーニの著書印税は、スイスのクレディスイス銀行のチューリッヒ支店に開設されたムッソリーニの個人口座に振り込まれている。
ヒトラーの印税も、スイスユニオン銀行のベルン支店に設けられたヒトラーの(代理人管理)の口座に支払われている。
昭和天皇は、真珠湾攻撃の直前に、バチカンの付属金融組合に4500万米ドルを寄贈して、終戦のための調停を依頼していた。
天皇の資金は、連合国が支配管理するスイスの銀行に振り込まれ、移動を繰り返していた。
つまり、資金の銀行移動は、戦争とは無関係だった。
地中に埋没されている「金の百合」も、銀行振り出しの小切手(預手)に換えて銀行実務の流通に乗れば、相当額の金額が流通する。
それが信用創造である。

上掲書には、国際金融の相関図が示されている。
何となく、高野孟『M資金-知られざる地下金融の世界』日本経済新聞社(8003)に示された「金融地下帝国」の関係図を思い出させる相関図である。
09年5月3日の項:金融地下帝国とM4の世界
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2009年6月29日 (月)

詐欺のケース・スタディ(2)-未公開株取引とマルチ商法

マルチ商法という仕組みがある。
もっとも、公式の法律用語ではない。
一般に、マルチレベル・マーケティングとかネットワーク・マーケティングなどと呼ばれる「連鎖販売取引」のことをマルチ商法と呼んでいる。
連鎖販売取引とは、具体的には以下のような取引である。

「この会に入会すると売値の3割引で商品を買えるので、他人を誘ってその人に売れば儲かります」とか「他の人を勧誘して入会させると1万円の紹介料がもらえます」などと言って勧誘し(このような利益を「特定利益」と言います。)、取引を行うための条件として1円以上の負担をさせる(この負担を「特定負担」と言います。)場合であればこれに該当します。
http://www.meti.go.jp/policy/consumer/tokushoho/gaiyou/rensa.htm

この商法自体が法律で禁止されているというわけではない。
「特定商取引に関する法律」の枠内であれば、別に問題はない。
私の知り合いにも、マルチとしか考えられない組織に参加している人がいる。
そして、善意で、健康にいい飲み物や、環境にやさしい洗剤などを勧めてくれる。
マルチ商法の問題点は、そこにある。
いいことだから、他人にもお勧めしよう、と本気で考えているのである。

静岡新聞(6月17日)に、「マルチ商法まがい」の手口で出資者を増やしていた投資事業会社の事件が掲載されていた。
2投資事業会社の名前は「JAM」という。
ネットで調べてみると、JAMは、ジャパン・アセット・マネージメントの略で、本社は千葉市にある。
上掲記事によると、高額配当や元本保証などをうたってベトナム未公開株取引などへの出資金を募っていた。
全国の1万人以上から、計約350億円を集めていたとみられる。

ベトナムは、急速な経済発展とともに、銀行など国有企業を2006年に株式会社化して民営企業にした結果、株式市場が拡大して、新たな投資先として海外からの人気を集め、未公開株w取得して上場後に高値で売却するというファンドが多数設立された。
しかし、株式市場が未成熟であるため、リスクも大きい。
静岡県内の出資者は全国最多規模の1000人余に上る見通しであるという。
静岡県人は、騙されやすいのか、慾が強いのか、それとも余裕資金があるというのだろうか?

未公開株取引は、詐欺の一つの典型である。
09年5月9日の項:詐欺の類型(2)未上場株の譲渡先日も、「イー・マーケティング」という会社の社長らが、「必ず上場する」とウソを言って未公開株の販売代金を詐取したという報道があった。
同社は、「ニュー・リッチ」という富裕層をターゲットにした市場調査等を行っている会社だという。
JAMの場合、ベトナムという経済発展中の国で、かつ実相がよく分らない国としたところが、ミソだろう。

手口は、以下のようである。
JAM(株)「匿名組合」を利用し、「日経225株価指数取引」等により出資金を運用することで高利回り(年24~36%)の配当が毎月得られると称し、会員を募った。
また「配当の他に、人に紹介すれば紹介料が得られる」という謳い文句により、次々と新規会員を増やすシステムを採っていた。
被害者は、知人の勧誘などで「匿名組合」に加入し、当初は配当も得られていたという。
しかし、サブプライムローン問題の影響等を口実に、2009年1月末頃から配当額が下がり、原告らへの配当支払いは2008年5月分を最後に停止された。
http://plaza.across.or.jp/~fujimori/multi.html

千葉県警は、2月下旬、JAM社が国の登録を受けずに出資金を募っていたとして、金融商品取引法違反容疑で、同社の本社などを家宅捜索した。
押収資料を分析したところ、静岡県内に出資者が多いことが分かった。

本件では、マルチ商法の手口と複合しているところが、被害者を増やしている要因となっている。
JAMの商品を勧誘した人は、最初の段階で配当を受け取っている人もいるらしく、それで知人にもおいしい話をお裾分けしようとしたのではなかろうか。
しかし、そうそううまい話があるわけではない。
大元は、もちろん意図的に騙しているに違いないと思うが、運用に失敗したと詐欺を否認しているという。

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2009年6月28日 (日)

重層する感動と影の立役者

バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんから受けた感動については既に記した。
09年6月11日の項:自動車会社の社会的貢献
辻井さんの快挙を伝えるTVで、辻井さんを指導している横山幸雄さんという人がいることを知った。
しかし、横山さんが、どういう人なのか、多くの人にとっては未知の人なのではないだろうか。

産経新聞(090628)に、横山さんのプロフィールが、やや詳しく紹介されていた。
横山さんは、もちろん「単なるピアノの先生」なのではない。
1990年にショパン国際ピアノコンクールで3位に入賞し、世界を舞台に活躍するピアニストである。
辻井さんが中学生のときに、東京都内の喫茶店で、辻井さんにレッスンをつけたのが初めての出会いだった。
そのときの辻井さんは、「高い能力はあったが、音楽家としての才能が突出しているという感じではなかった」という。

なんと、コンクールで通用すると感じたのは昨年になってから、らしい。
コンクール出場を決めた今年の4月からは、それまで週1回だったレッスンを、週2回に増やした。
それからの辻井さんは、どんどん上達した。
渡米の1週間前には、レッスンはほぼ毎日になった。

ファイナルを控えた6月上旬には、自分のリサイタルを間近に控えながら、24時間足らずの滞在時間の渡米を決行し、深夜と朝に十数時間のレッスンを行った。
TVで辻井さんが「炎のレッスン」と表現していたレッスンである。
電話では細かいことが言えないので、現地でレッスンする必要があったということである。
辻井さんの才能はもちろん素晴らしいものであるが、この師があってこその辻井さんだったのだろう。

辻井さんは点字楽譜を使わずに、右手だけの音、左手だけの音などを録音した“耳で聞く楽譜”を使っており、その楽譜は、横山さんと生徒2、3人のチームワークで制作する。
辻井さんの能力を信じ、惚れ込んだチームなのだろう。
辻井さんの快挙の陰に、こういう人たちのサポートがあったということは、また新たな感動をもたらす。

横山さんのオフィシャル・サイトを覗いてみた。
http://yokoyamayukio.net/index2.htm
1990年のショパン国際ピアノコンクールでは、1位は該当者なしだったらしい。

今までにウィーン室内管弦楽団、ベルリン交響楽団、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団、ブダペスト祝祭管弦楽団、エーテボリ交響楽団を含む国内外のオーケストラと共演し、絶賛を博す。プラハの春音楽祭、ヤナーチェックの5月の音楽祭、クフモ室内楽音楽祭、トゥレーヌ音楽祭等の海外の音楽祭への出演、またニューヨーク/カーネギーのリサイタルホール・デビューをも果たしている。01年にはサンクトペテルブルグにて同フィルハーモニー交響楽団との共演、またリサイタルデビューを果たし、絶大な喝采を浴びる。 最近では作曲も手がけている。

また、執筆活動も続けており、「ワインの練習(エチュード)」他エッセイや自ら監修した楽譜なども発売されている。ワイン好きが高じて、日本ソムリエ協会認定のワイン・エキスパートのライセンス保持者でもある。

決して影の人ではない。
実に多彩な才能を持った人であることが伝わってくる。
こういう人が、辻井さんの才能を導き出した。
辻井さんの今後の活躍を期待すると共に、横山さんのさらなる活躍を祈念したい。

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2009年6月27日 (土)

津軽と南部

太宰の代表作として何を挙げるか?
もちろん、人によりそれぞれであろう。
『斜陽』とする人もいるだろうし、『人間失格』だという人もいるだろう。
亀井勝一郎は、『津軽 (新潮文庫)』(5108)の「解説」で、彼が生前書いた8つの長編小説の中で、『斜陽』『人間失格』が最も有名だが、彼の本質を一番よくあらわしているのは『津軽』である、と書いている。
そして、私(亀井)は全作品の中から何か一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げたい、としている。

太宰の本質とはどういうことか?
亀井は、旧家に生まれたものの宿命、という言葉を使っている。
旧家には、格式の高い潔癖な倫理性と、同時にそれに反撥するような淫蕩の血と、矛盾した2つのものが摩擦しあいながら流れている、というのである。
旧家に縁のない私は、そういうものか、と思うしかないが、その矛盾が、異形のものを形成する根源なのだ、と亀井は説く。
まあ、矛盾したものの存在が新しいものを生み出すというのは、そういうものだろうと思う。

『津軽』は、昭和19年の作品で、このとき太宰は36歳だった。
2亀井によれば、この作品を書くための旅行は、彼の生涯の中でも最も思い出多い旅であった。
太宰は、健康にめぐまれ、心のバランスがうまくとれていた。
それが、この作品の筆致を平明なものしている。
(図は、上掲書口絵から)

ところで、津軽とは、どこからどこまでを言うのだろうか?
私はほとんど青森県に縁がなかったが、たまたま十和田市に住む人と縁ができ、その人のお宅を訪れたときのことである。
十和田の人に、「ここは津軽に入るでしょうか?」と聞いた。
すると、とんでもない、という口調で、「ここは南部だ」と否定されてしまった。
私は、「南部」といえば、「南部鉄器」や「南部牛追歌」などが頭に浮かび、岩手県を中心としたイメージがある。

Photoしかし、南部地方とは、江戸時代に南部氏の所領だった地域で、陸奥国に位置し、現在の青森県東部と岩手県中部・北部、秋田県の一部にまたがる地域だということである。
つまり、青森県の東部は、「南部」に属するということだった。
(地図は、yahoo地図から)

とかく隣接している地域はもめ事が起きやすいが、津軽と南部も仲が良くないらしい。
津軽と南部の関係について、次のような解説があった。

もともと津軽は南部家の領地でしたが南部家の家臣である大浦為信が謀反を起こし、津軽領を奪って独立したという歴史があります(その後、大浦為信は、津軽為信と名前を変えています)。
津軽為信は、その後小田原攻めの最中の豊臣秀吉と通じ、先手を打ってその領土を安堵してもらうことに成功します。よって、南部家から見れば謀反人の津軽為信ですが、これを討つことは豊臣秀吉に弓を引くことと見なされ、結局、南部家は為信による津軽支配を認めるしかなくなりました。その後為信は関ヶ原では東軍(徳川方)に鞍替えするなど巧みな処世術で生き残り、幕末まで津軽藩を残す礎となります。
この時の怨恨を、現在も引きずっているのではないでしょうか。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1476172.html

上記の解説が的確なものかどうか判断材料を持たないが、現在も津軽と南部は余り仲がよくないのだということは、十和田の人の反応からも首肯できそうである。
400年以上の歴史を持つ怨恨だとすれば、一朝一夕には解消しないだろうという気がする。

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2009年6月26日 (金)

太宰治と三島・沼津(4)

「作家太宰治は沼津で生まれた」というと、そんなことはないと思うだろう。
太宰といえば津軽の生まれだ、というのが条件反射である。
しかし、今年第4回を迎える沼津文学祭は、「生誕百年 作家『太宰治』は沼津で生まれた~処女作「思ひ出」と『斜陽』執筆の地~」と題されている。
つまり、現在の沼津市志下で、作家としての出発点となった処女作「思ひ出」を執筆したのだ。
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/sisei/kouhou/interview/200905/200905-2.htm

Photo_2太宰と沼津の係わりはこれだけではなく、三津の安田屋旅館に滞在し、ここで代表作「斜陽」の1、2章を執筆した。
平成元年から安田屋旅館では太宰を偲んで『沼津桜桃忌』が行われており、平成13年には「斜陽」文学碑が建立された。
写真の2Fの部屋が太宰ゆかりの部屋で、入口脇の白い石が、「斜陽」文学碑である。

太宰が『斜陽』を執筆した部屋の様子である。
Photo_3   
http://www.geocities.jp/seppa06/meisaku07/0829_mitohama_.htm

太宰は、戦後の昭和22年2月、下曽我に疎開していた太田静子を訪ねる。
そしてこのとき、静子の日記を預かるが、その日記を携えて、沼津市三津の安田屋旅館に向かった。
田中英光(太宰に師事。『オリンポスの果実』などの作品で知られる)の疎開宅が、安田屋の前だったためである。

静子は、太宰と下曽我で再会したとき太宰の子供を身籠る。
後の作家・太田治子である。
太宰は、静子の日記をもとに、『斜陽』の執筆を開始する。
当時太宰には妻子がいたが、生まれてきた娘に、「治」の一字を与えて認知したのだった。

しかし、翌年、太宰は玉川上水に入水する。
静子の日記は、太宰の死後、井伏鱒二と伊馬春部によって静子の許に返される。
Photo_3井伏と伊馬は、「これはすぐに公表せずに、十年もしたら公表すればいい」と助言したが、静子は幼子をかかえて生活に困り、昭和23年10月に、『斜陽日記』を出版する。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/dazai-oota-shizuko1.htm

それにしても、太田治子には太宰治の記憶はまったくないだろうが、治のDNAは治子に受け継がれているわけで、ここにも「血脈」ということの実例をみる思いがする。
07年12月7日の項:血脈…①江国滋-香織

07年12月8日の項:血脈…②水上勉-窪島誠一郎

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