2012年5月27日 (日)

原子力ムラの懲りない人たち/原発事故の真相(30)

原子力委員会の事務局(内閣府)が、電力会社など原発推進の側だけを集めた非公式な会合を20回以上も重ね、核燃料サイクル政策の見直しを議論する小委員会の審議前に情報を流していたという。
フクシマ原発事故という世界史的な事故が起きても、原子力ムラの論理も倫理も、何も変わっていないのだろうか。

 原子力委員会の事務局(内閣府)が、電力会社など原発推進の側だけを集めた非公式な会合を20回以上も重ね、核燃料サイクル政策の見直しを議論する小委員会の審議前に情報を流していた。
 会合に小委員会から出席していたのは座長だけ。報告書案も事業者に有利になるよう書き換えられていた。
 原子力委員会への信用を根本から揺さぶる事態である。偏向したやり方が発覚した以上、組織は白紙から見直すべきだ。これまでの議論も不正な点がないか検証する必要がある。
 原子力委員会は、国の原子力政策の基本を決める役割を担ってきた。親委員会のもとに、いくつかの小委員会や専門部会が置かれている。原子力を推進する最高機関である。

http://www.asahi.com/paper/editorial20120525.html#Edit1

これに対し、当の原子力委員会の見解は次の通りである。

 核燃料サイクル政策の在り方を検討していた内閣府原子力委員会が電気事業連合会など推進側だけの「勉強会」で報告書原案を事前配布した問題で、同委は25日臨時会合を開き、「事業者の意見を反映し、報告書を書き換えた事実はないが、外部の事業者や関係者への配布が疑念を招き、反省する」との見解を取りまとめた。
 原子力委の近藤駿介委員長は会合後、同委事務局に電力会社から4人が出向していることについて「早期に対応する」とし、見直す考えを示した。
http://jp.wsj.com/Japan/Economy/node_449026

「報告書を書き換えた事実はないが」というが、あったら立派な犯罪であろう。
しかし、たとえ事実がないとしても、決して許される行為ではないことは明らかである。
「外部の事業者や関係者への配布が疑念を招き」ということこそが、現下の焦点となっていることに無頓着、というよりも、通常人の感覚を失っているとしか思えない。

もちろん、電力会社でなければ分からないデータ等もあるだろうけれども、賛否が対立している問題について、一方の側だけで20~30回の勉強会を持つというのは、フェアな態度ではないだろう。
まして、委員会事務局に電力会社から4人出向していることについては見直すのは当然であるが、そういった風土・土壌が問われなければならないだろう。

原子力委員会は、国の原子力政策の基本を決める機関である。
原発事故を受けて、どう改革するのか?
密室の中で、国策が決められていくことに、多くの国民が  不信感を抱いている。
大飯原発再稼働への動きも、このような図式の延長線上のこととして理解できよう。
透明性の確保が必須であるが、果たしてムラの論理と倫理と心情に浸かっている人間に、それが可能であろうか。

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2012年5月26日 (土)

霧島リハセンターを退院/闘病記・中間報告(51)

鹿児島大学病院霧島リハビリセンターでの訓練は昨日までで終了し、今日の午前中退院した。
懐かしいわが家に帰ったのは、19時過ぎであった。
4月19日に入院してから約5週間、長いといえば長い期間であったが、過ぎてしまえばアッという間の出来事だったような気がする。

妻も、最初の1週間と最後の2週間は、近くのビジネスホテルに宿泊して、川平法の基礎的な施術法を学んだ。
入院中に結婚記念日を迎えたので、妻も感慨一入だったようである。
結婚以来、2人で共通の目的でこれだけの期間、共同作業(といっても、患者と施術者という立場の違いはあるが)を行ったのは初めてのことである。

効果はどうか?
私には、連続した時間なので、正直なところ大きな変化は感じにくい。
5週間、朝から夕まで真面目に取り組んでも、目に見えるような目覚ましい結果は自覚できない。

石川啄木の『一握の砂』の中に次の歌がる。

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る

この歌の本歌取り、というかパロディで心境を詠めば、以下のようになろうか。

リハすれど
リハすれど猶わが半身楽にならざり
ぢっと手を見る

しかし、全体に麻痺の状態は改善されていると思う。
昨日、終わりだからということでSTEFによる評価をお願いしてやってもらった。
昨年の10月が13点、4月20日の入院時検査で25点、2週間後も25点、4週間後が32点だった。
昨日は35点だった。期待はもう少し高い所にあったが、5週間で10ポイントアップなので、まあまあか。

もちろん、STEFは機能検査の一部であって、実用的な手の動きの評価とは別ではあるが。
あと2週間、合計2カ月やればまた違うのではないか。
事実、霧島リハセンターでも、今までは再入院コースの一般病棟は2カ月でやっていたが、去年の9月4日のNHKスペシャル「脳がよみがえる~脳卒中・リハビリ革命~」の放映以来、問い合わせ、入院申し込みが殺到し、なるべく多くの人に対応するため、5週間に短縮したのだそうだ。
もっとも集中力を途切れさせないのは5週間程度が限界かも知れない。

もちろん、同番組に登場していた人のように、誰もが劇的に麻痺が治るとは限らない。
というよりも、例外的に著しい効果があったので番組に出たと考えるべきであろう。
じっさい、私と入院時期が重なった人の感想もさまざまである。

入院4日で、今まで動かなかった足が動くようになったという人がいる。
一方で、回復期として入院して6カ月になろうとする人が、はかばかしい回復がみられないのにもう退院しなければならない、といった人もいる。
私のように、一般的な回復期を過ぎた人とも何人か話をしたが、各人各様といった感じである。
症状、リハビリの効果は、当然人により異なる。

しかし、5週間のインテンシブな訓練は、やっただけの効果はあるだろう。
とはいえ、入院中の訓練だけでは限界がある。
退院後いかに継続して訓練できるかが課題である。

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2012年5月25日 (金)

維新連合成否のカギ握るブレーンの力/花づな列島復興のためのメモ(73)

石原東京都知事が、「東京維新の会」を立ち上げるらしい。
東京都庁で5月18日に行った記者会見で表明した。

「既存の議員を集めて第3極を作るのは全然興味がない。小沢一郎(民主党元代表)と俺が手を組むことは全くない」と言い切った後で、「東京と大阪が連携して新しい人材を政界に送り込む。向こうが『大阪維新の会』なら『東京維新の会』。全体で連携することで『日本維新の会』を作っていきたい」とぶち上げた。
   これを受けて、さっそく橋下徹・大阪維新の会代表(大阪市長)が「すごいことになりそうですね。ワクワクします」とエールを送った。

http://www.j-cast.com/tv/s/2012/05/21132677.html?p=all

民主、自民の2大政党がまったく信を失った現在、多くの人の関心は「大阪維新の会」や同会代表の橋下氏に集まっている。
⇒2012年3月31日 (土):政治家の信義とは?/花づな列島復興のためのメモ(43)
⇒2012年4月15日 (日):理解と同意/「同じ」と「違う」(46)

石原氏や橋下氏の人気の要因は、即決する判断力や行動力であろう。
ポピュリズムの危うさを指摘する声なもあるが、私は両氏に共通するブレーンをうまく集め、そのブレーンの力を最大限活用とする姿勢を評価したい。
たとえば、東京都副知事の猪瀬直樹氏である。

猪瀬氏は1946年生まれ。略歴は、Wikipediaによれば以下にようである。

信州大学教育学部附属長野中学校、長野県長野高等学校、信州大学人文学部経済学科卒業。経済学士。1969年、在学中に、信州大学全共闘議長をつとめた。その後出版社勤務などを経て、1972年、明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程にて政治学者の橋川文三に師事し、日本政治思想史を研究。政治学修士。
1987年、西武グループと堤義明について皇族との関係(プリンスホテル参照)を絡めながら書した『ミカドの肖像』で、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニスム学会特別賞受賞。1996年、『日本国の研究』で、文藝春秋読者賞を受賞。
2001年、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる。2002年、道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。
2007年、地方分権改革推進委員会委員と東京都副知事に就任。

私は、『昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)』(1006)や『ミカドの肖像 (小学館文庫)』(0503)等を読み、緻密で幅広い調査力と読み手を引き込む文章力に惹かれた。
同学年の佐野眞一氏(1947年1月生まれ)と似たタイプという印象を持った。
団塊の世代のトップランナーである。

猪瀬氏の新刊『決断する力 (PHPビジネス新書)』(1203)は、Amazonで以下のように紹介されている。

ソーシャルネットワークを使った情報収集・発信、即断即決→事後承認、見えない恐怖を可視化する、先を見通してリスクの芽を摘む、昨日を基準に今日を生きない…。大震災後、東京都を陣頭指揮するリーダーが、首都直下型地震対策として自ら実践しているノウハウを、ビジネスマン向けにアレンジして紹介。大震災後、東京都を陣頭指揮する副知事の思考と行動20ヵ条。

同書を読めば、ツイッターなどのソーシャルネットワークの威力を実感できる。
時代は確実に変わりつつあるのだ。
「大阪維新の会」にも隠れたブレーンがいるらしい。
浅田均という。

 年金制度のリセット、参議院廃止、首相公選など、大阪維新の会がまとめた〝船中八策〟には、刺激的な政策が並んだ。その起草者であり、来月開講する〝維新政治塾〟の運営をも担う男。それが、元・自民党府議団幹事長で維新の会政調会長、大阪府議会議長の浅田均氏である。
 '50年生まれの61歳。京都大学哲学科からスタンフォード大学大学院へ進み、NHK局員を経てOECD(経済協力開発機構)という華々しい経歴は伊達ではないようだ。維新の会所属の府議会議員・森和臣氏は、彼の活躍ぶりをこう語る。
「発信力の橋下さん、野性的な行動力の松井さん、そして頭脳の浅田さん、この3人で維新は動いてる。浅田さんが東京で評価されてるのは、彼が各党をまわり、先々で維新の会の方針を的確に説明しているからでしょう」
 政策を語らせれば理路整然。素人が多い維新の会の中では、見た目も政治家らしい落ち着きがある。いきおい、永田町の玄人たちには受けがいい。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31914

私は浅田氏のことは知らなかった。
東西の維新の会が危うさを秘めつつ、政界を刷新する起爆剤になり得るとすれば、両者の連合が成立したときであり、そのためにはこのようなブレーンたちの力がカギとなると思う。

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2012年5月24日 (木)

「3・11」後社会のパラダイム/花づな列島復興のためのメモ(72)

「3・11」すなわち大地震による大津波と福島第一原発の事故は、われわれの生き方、文明のあり方に大きな転換を迫るものであった。
としたら、「3・11」後の社会は、従来の考え方とは別の新しい考え方によって考えることが必要であろう。
いわゆるパラダイムの転換である。

パラダイム(paradigm)とは、ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことです。狭義には科学分野の言葉で、天動説や地動説に見られるような「ある時代を牽引するような、規範的考え方」をさします。このような規範的考え方は、時代の変遷につれて革命的・非連続的な変化を起こす事があり(=天動説から地動説への変化など)、この変化をパラダイムシフトと呼びます。シフト前後の考え方に対して、優劣などの価値判断を行わない概念である点に注意してください。
ところでパラダイムと呼ばれる「物の見方や捉え方」には、いくつかの特徴があります。第 1 にパラダイムは、ある時代や分野において「多くの人に共有されて、支配的な規範として機能」します。また第 2 に、異なるパラダイムの間では「互いの考え方が相容れない」場合もあります。そして第 3 に、パラダイムは時に「革命的で非連続的な交代」を遂げることがあります。以上のような特徴を持つ「物の見方や捉え方」を表現する場合に、パラダイムの語が好んで用いられるようです。

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/10minnw/015paradigm.html

いま焦点となっているのは、エネルギー政策である。
私自身、「3・11」に遭遇して、連想したのは、先ず小松左京の『日本沈没』光文社文庫(9504)であり、次いで映画『ゴジラ』であった。
後者については最初意識していなかったが、予想外に深い含意によって結びついていることを、武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 (中公新書ラクレ)』(1105)で知った。
⇒2011年5月19日 (木):核エネルギー利用と最終兵器/『ゴジラ』の問いかけるもの(3)

武田さんの映画『ゴジラ』の解読をおさらいしよう。
古生物学者・山根博士は、放射線を浴びても死なないゴジラを研究するべきだとする意見である。
しかし、ゴジラが現実に人々の暮らしを破壊する現実の前に、ゴジラを撃退すべしという意見が圧倒的になる。
芹沢博士の開発したオキシジェン・デストロイヤーは、名前の通り酸素を破壊する物質であり、最終兵器になり得る可能性を持っている。
芹沢博士は苦悩の末、「技術は一度誰かがつかえば、必ず悪用される」として自ら命を断って悪用の可能性を封じる。
⇒2011年5月10日 (火):技術の功罪と苦悩する化(科)学者/『ゴジラ』の問いかけるもの(2)

武田さんは、映画『ゴジラ』は、被爆の事実を曖昧にしてアメリカの傘の中に入る選択をした日本に一石を投じたものであるが、ゴジラ映画がエンターテイメント化していくのと同期するように、日本人は核エネルギーに対するアレルギーを薄めて行ったのではないか、と問う。
その結果が、地震の巣のような列島に世界有数の原発を抱える原発大国の姿である。
しかし、「3・11」によって、戦後日本の辿ってきたエネルギー政策が厳しく問い直されることになった。
というよりも、エネルギー政策を超えて、社会の価値観、たとえば幸福感を再考しなければならないであろう。

幸か不幸か、「原発ゼロ」の夏を迎えようとしている。
これに対するスタンスは、はっきり分かれている。
産経新聞は、5月19日付の「主張」で次のように政府に原発再稼働を迫る。

 これで本当に夏が乗り切れるのか。政府がまとめた今夏の電力需給対策はあまりに不安要素が多く責任ある対応策とは言い難い。
 特に関西電力管内では原発の再稼働なしに猛暑を迎えた場合、14・9%の電力不足に陥る。これを15%以上の自主的な節電と他電力からの融通で乗り切り、強制使用制限の発動は見送るという。
・・・・・・
 何よりも電力不足の解消と安定供給の確保には、停止中の原発の再稼働が不可欠だ。政府は福井県の大飯原発3、4号機の再稼働への同意を地元に要請し、野田佳彦首相は17日、「最後は私のリーダーシップで意思決定する。判断の時期は近い」と断言した。
 その言葉通り、野田首相は原発の安全性などに全責任を持ち、早期運転再開を主導しなければならない。それが今夏の電力危機を乗り切る最低条件だ。
・・・・・・
 仮に原発再稼働なしに夏を乗り切れても、節電頼みの慢性的な電力不足が続くことを忘れてはならない。安価で安定した電力供給体制は再構築できず、産業空洞化は一層加速する。東電以外の電力料金引き上げも避けられまい。
 電力不足は国力の疲弊という負の連鎖を招き、国の土台を傾ける。政府は肝に銘じるべきだ。

http://sankei.jp.msn.com/smp/politics/news/120519/plc12051903220004-s.htm

地方紙の多くは、原発再稼働には慎重である。
5月21日付の信濃毎日新聞社説は、次のように政府の姿勢に疑問を呈している。

 安全性についてさまざまな問題点が指摘されているうえ、滋賀県や大阪市などが疑問を呈している。そうしたなかで、なぜ近い時期に最終的な判断ができるのか、疑問と言わざるを得ない。
 今夏の電力不足を理由に再稼働を急いでいるとすれば、福島第1原発事故の教訓が生かされない恐れがある。

http://www.shinmai.co.jp/news/20120521/KT120519ETI090002000.html

また、5月20日付の南日本新聞社説は、政府の無作為を咎め、政府の目論んでいるような原発再稼働の実現可能性は小さいだろうと読む。

 昨年夏、東京電力管内で実施された計画停電でも分かるように、電力不足が決定的になれば、家庭生活や企業活動に支障をきたしかねない。東京での失敗を反面教師とし、実施に追い込まれても悪影響を最小限にとどめたい。
 その際、万全を期さなければならないのは、医療機関などで手術や治療行為に重大な影響が出ないよう配慮することだ。鉄道など公共交通機関、生産拠点への影響もできる限り抑える必要がある。
 早くから電力危機が叫ばれていたにもかかわらず、利用者に負担を強いることで急場をしのごうとする政府の対応は怠慢というほかない。原発抜きで電力確保に全力を尽くそうとしない電力会社の責任も免れない。
 こうした政府と電力会社の姿勢には、「原発再稼働」ありきの思惑が見て取れる。再稼働さえすれば電力不足は解消するとの安易な考えで、電力供給の計画を立てたとしたのなら、誤算というほかない。ともに反省すべきだ。
 現時点では原発再稼働が見込める可能性は極めて低い。
・・・・・・
 こう言い切れるのは、再稼働の前提条件となる安全性の確保が見通せないからだ。安全審査を担う原子力規制庁の設置が先送りされて、いつになるかめどすら立たない。こんな状況では、再稼働を見込んだ電力需給策を認めるわけにはいくまい。
 家庭や企業など利用者に求められるのは、節電意識を高め、省エネ対策に取り組む心構えである。利用者の努力によって、この夏の電力危機を乗り切ることができれば「脱原発社会」実現の期待も高まる。原発依存から抜け出す最大の契機にしなければならない。

http://373news.com/_column/syasetu.php?ym=201205&storyid=40576

どちらの意見が、「社会の木鐸」に相応しいであろうか?
ジャーナリズムの世界でも、中央から地方への流れが次第に大きくなってきているような気がする。

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2012年5月23日 (水)

節電の夏とグリーンデバイス/花づな列島復興のためのメモ(71)

去年の夏は、福島原発事故の影響で、国民の間で広く節電対策がとられた。
ゴーヤや朝顔で緑のカーテンを設えた家屋も数多かった。
⇒2011年10月13日 (木):節電の夏と琉球朝顔の緑のカーテン

今年は「原発ゼロ」ということもあって、需給は一層厳しくなるものと予想されている。
このため、政府は節電の要請に必死だ。

 野田政権が今年夏の電力需給対策をまとめた。すべての原発が再稼働していないことを前提に、7月2日から9月28日にかけて全国的な節電を要請。電力が最も足りなくなる見込みの関西電力管内は15%の節電を求める方針だ。想定外の電力不足を避けるため、携帯電話の緊急速報メールなどで電気機器の使用停止も呼びかける。
http://www.asahi.com/politics/update/0518/TKY201205180001.html

需給バランスといっても、問題になるのは総量ではなくて、需要のピーク時である。
何を節電し、何の供給は生かすべきか?
一律何%節電とか、一斉に計画停電というのではいかにも無策であろう。
同じ電力でも、必需的な電力も奢侈的な電力もある。
いかにして必需的な電力を供給するか、そのために奢侈的な電力消費を抑制するかに知恵を絞るべきだろう。

政府・民主党は、「原発ゼロ」をあってはならない異常事態と考えているようだ。
⇒2012年5月 5日 (土):原発ゼロをどう考えるか?/花づな列島復興のためのメモ(60)
しかし、他方では「脱原発依存」も唱えている。
もちろん、短期的な目標と長期的な目標は異なってもいいだろう。
しかし、短期と長期の関係は分かりやすく説明すべきだ。

そもそも、政府が示したように、 原発が運転開始40年で原則廃炉とする方針とすれば、稼働中の原発も逐次廃炉になっていく。
今の情勢で、原発の新規建設に同意する自治体はないであろうから、40年以内には「原発ゼロ」の時期が来ることになる。
原発の「寿命」については、例外的に60年まで認める考えも出されたが、もはや原発は基幹エネルギー源としては考えられないのではないか。
とすれば、いまの「原発ゼロ」の状態を、未来に向かう一里塚と考えるべきではないのか。
⇒2012年5月13日 (日):原発ゼロをどう考えるか?②/花づな列島復興のためのメモ(66)

しかし、いずれにせよ節電は重要になる。
どうせ節電するなら、知恵のない節電よりも賢い節電で行きたい。
知恵のない節電の典型例は、計画停電による強制的な節電である。

賢い節電に関連する用語として、グリーンデバイスがある。

 グリーンデバイスとは創エネ、蓄エネ、省エネに役立つデバイス・技術の総称だ。太陽電池やリチウムイオン二次電池、パワー半導体、発光ダイオード(LED)照明をはじめ、白物家電の運転を監視・制御するセンサーや液晶パネル向けバックライトの効率を向上する集積回路(IC)などその領域は幅広い。
http://www.nikkan.co.jp/adv/gyoukai/2010/100329a.html

先日、静岡のローカル局で、グリーンデバイスに関連する新技術開発に成功した企業が紹介された。
グリーンデバイスの代表例であるLED照明は高い成長性が予測されている。
Led_2

LED照明の明るさを増すのには、高出力化が必要であるが、高出力にすると発熱のため、劣化が促進され、LED照明の大きな利点である長寿命が損なわれる。
Led

寿命が長いことは、特に街路灯やトンネル内の照明など、メンテナンス費用が高い用途では大きなメリットである。
高出力と長寿命という、一般には相反する要求をどう解決するか?
そのkeyは、熱拡散という概念である。
熱は温度差に比例して逃げる。
しかし、LED照明では、高温にならないで熱がどんどん逃げて欲しい。

熱拡散率の高い材料が求められるというわけである。
Led_3
⇒2009年8月26日 (水):熱と温度 その3.熱伝導率と熱拡散率/「同じ」と「違う」(5)
⇒2009年8月27日 (木):熱と温度 その4.熱伝導率と熱拡散率(続)/「同じ」と「違う」(6)

開発に成功した新素材は、ALC400というアルミニウムとグラファイトの複合材であり、開発した企業は、株式会社エー・エム・テクノロジーという。
グリーンデバイス関連市場は、高い成長性が期待される分野である。
メリハリのある成長政策の目玉になるのではないか。

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2012年5月22日 (火)

東京スカイツリーの開業/花づな列島復興のためのメモ(70)

今朝は気持ちよく晴れた。
昨日がこういう天気だったらと思うが、こればかりはどうにもならない。

東京スカイツリーが開業した。
高さ634mで、自立式電波塔では世界一である。
Photo_2
http://syatyounosyakkin.blog90.fc2.com/blog-entry-483.html

東京タワーの約2倍である。
展望台は、350mと450mにある。
東京タワーは、『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代のシンボルとなった。
ランドマークとして機能することはもちろんだが、単なるランドマークに留まらない役割を担うことになろう。

私も、上図の塔の中で、トロントのCNタワー、東京タワー、エッフェル塔には上ったことがある。
不思議なもので、高い所に上ってみたくなるのが人情であろう。
スカイツリーにも開業の賑わいが一段落したら、行ってみたいと思っている。

スカイツリーには先端的な建築技術が結集している。

Photo_6 22日に開業する「東京スカイツリー」は、足元からてっぺんまで日本企業の最新技術に支えられている。地震にも風にも強く、ながめも快適で、夜のライトアップもみせる。企業は、ここで得た技術を生かした新ビジネスの獲得にも期待を膨らませている。
 ツリーに使われた技術の中でも、重要度が高く、世界初なのが、塔のど真ん中にある「心柱(しんばしら)」をつかった制振システムだ。日建設計と大林組がつくった。鉄筋コンクリート製の高さ375メートルが、ツリー本体とは分離した形で立つことで、地震などの際に本体とは違う動きをして、ツリー全体の揺れを抑える。

http://www.asahi.com/national/update/0521/TKY201205210600.html

また、南日本新聞の5月20日のコラム「南風録」に スカイツリーのデザインと構造について紹介があった。

 いにしえの高層建築、五重塔は地震に強い。空襲で炎上した東京・浅草寺の五重塔も、その前の関東大震災にはびくともしなかった。300年近くたっても強度を保てたのは、塔の中心を走る「心柱」のおかげである。
 「ボルトもクレーンもない時代に建てられたのに、倒れたことがない。千年以上前から伝わる日本人の知恵と技術の結晶」。彫刻家の澄川喜一さんが小紙インタビューで語っていた。澄川さんがデザインを監修した東京スカイツリーが22日開業する。
 スカイツリーの中心には、心柱にならって1本の巨大な柱が立つ。その柱を複雑に組み合わせた鉄骨で囲み、634メートルの高さまで積み上げた。新旧の技術力を結集、3万7000個もの鉄骨でできた建物の耐震性は、東日本大震災で実証済みだ。

五重塔の心柱との共通性については良く知られている。
⇒2011年5月24日 (火):五重塔の柔構造と震災復興構想/やまとの謎(31)

毎日新聞5月20日の「社説」は、以下のように論じている。

 まず、空に伸びる大樹をイメージした形が目をひく。地上では三角形の平面が、上に行くにつれ円形に変化する。日本刀の「そり」や寺社の柱のふくらみである「むくり」など、日本の伝統的なデザインが取り入れられている。見る角度によって微妙に姿が変化するのが楽しい。機能美の東京タワー(東京都港区)とはまた違った味わいだ。
 塔の建つ場所に注目したい。建築評論家の馬場璋造(しょうぞう)さんは「都市というのは東西南北、各方向で引っ張り合っている」と指摘する。そして、片方にだけ引っ張られると都市全体が単調になり、活力が失われていくというのだ。逆に多方向に引っ張られると都市が活性化し、多彩な表情を見せるという。それは人々の多様な楽しみや夢につながる。
 住宅が広がり、都庁が新宿に移転し、東京は、西へ引っ張られることが多かった。東部の下町は関東大震災や東京大空襲の被害を受け、古い家並みを失い、庶民の街として近代化を支えてきた。墨田区出身の王貞治さんは故郷について「近年、閉塞(へいそく)感があった」と話している。
 スカイツリーは東京の重心を少し東へ動かすだろう。そこは北関東や東北地方にも通じている。東日本大震災の被災地にも、プラスの効果をもたらすことが期待される。
 権力が位置する場所の塔は周囲を見下ろし、圧迫感を放つ。下町の塔は、土地のエネルギーが立ち現れたような土着性を感じさせる。
・・・・・・
 地上450メートルにあるスカイツリーの「天望回廊」から眺めた風景は格別だ。すべての高層ビルが足元に見える。隅田川や荒川が街に活力を注ぎ込むように感じられる。海と山々に囲まれた関東平野の広さもよくわかる。この地方の歴史や未来に思いをはせる人もいるだろう。それは都市や社会のあり方を考えるきっかけにもなるのではないだろうか。

スカイツリーも、「用と美」の典型例だろう。
⇒2011年10月29日 (土):猿橋の「用」と「美」と「レジリエンス」/花づな列島復興のためのメモ(10)
下町の塔がどのような影響を及ぼすか。
いまこの国には閉塞感が漂っている。
スカイツリーは、「3・11」後社会の新しいパラダイムを象徴するランドマークになるような予感がする。

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2012年5月21日 (月)

後期高齢者医療制度の存続/花づな列島復興のためのメモ(69)

今朝の霧島は、あいにくの曇天であった。
さして厚い雲というわけではないが、次から次に雲が湧いてきて、とても日食観測ができるような天候ではなかった。
まあ無理だろうと思いつつ念のため玄関から外に出てみた。
当直の女の先生としばらく未練がましく粘ってみたが、一向に変わる気配がないので諦めて部屋に戻ってTVに映し出される太陽の様子を眺めた。
結局、暗くなる気配すら感じられなかった。

民主党政権がマニフェストを守らないのにはもはや当たり前の感覚、ある種の「慣れ」が生まれつつある。
しかし、本当にそんなことでいいのだろうか?
別に、青臭く「違反」を咎めようというのではないが、政権交代というエポックの意味がまったく失われているのは確かだろう。
詐欺の被害にあうのは、被害者の注意が足りない、とこの場合にも言えるのかどうか?
国家運営の根本に係わる詐欺が許されていたら、この国は無法に陥ることになろう。
メルトダウンしたのは、原子炉だけでなく統治機構もまた、という気がする。

そんなわけで、いまさらマニフェストとの整合性を問題にするのもどうかな、という気もするが、自分の問題でもある後期高齢者医療制度がどうなるかはレビューしておきたい問題である。
私は、学校を卒業後、一貫して「勤め人」だったから、社会保険は「仕組み」として加入していた。
定常的な勤務を終えた後も、任意継続という形で健康保険に加入していた。

運が良かったというべきか悪かったというべきか、脳梗塞に罹ったのは任意継続に移行した年である。
入院生活、外来リハビリ等において、健康保険の有難さを実感した。
現役の「勤め人」のときには、負担している保険料に対して、受益は微々たるものであったが、どこかでバランスがとれるようにできているのだろう。

介護保険については、要支援2の認定を受けている。
バスボード(入浴補助具)の購入などには使ったが、介護サービスは未だ利用していない。
妻などのサポートで、介護サービスを利用しなくても、日常的な生活に支障はない。

今国会の焦点である社会保障改革の一環として、「後期高齢者医療制度」が話題になっている。
後期高齢者とは75歳以上の人を呼ぶが、私の周りでは、75歳を超えても「後期」どころか「高齢者」と呼ぶのも躊躇われるような人が多い。
それはともかくとして、政府・民主党の「改革案」は次のように報じられている。

Photo_2 政府・民主党が今国会提出を目指す「後期高齢者医療制度見直し法案」(仮称)の全容が17日、明らかになった。
 75歳以上を対象にした「後期高齢者医療制度」の制度名について、「後期」という単語を外して「高齢者医療制度」に改め、75歳以上のサラリーマン約33万人を現行制度から勤務先の健康保険に移すことが柱だ。結果的に自民、公明両党の主張に配慮した内容となった。ただ、消費税増税を柱とする社会保障と税の一体改革をめぐる与野党協議で自公両党が歩み寄るかどうかは不透明だ。
 法案は、自公政権時代にスタートした現行制度の一部修正にとどまり、民主党が2009年の衆院選政権公約(マニフェスト)で掲げた「後期高齢者医療制度の廃止」は事実上の棚上げとなった。
 法案では、後期高齢者医療制度の運営主体である市町村の負担を軽減するため、都道府県も新たに運営に加われるようにする。後期高齢者医療制度は当面、実質的に存続となる。
 ただ、法施行から5年後をメドに、年齢区分を全廃し、高齢者も現役世代と同じ国民健康保険や被用者保険に加入するとしており、最終的には、制度を「解体」する方針を維持している。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120517-OYT1T01481.htm

確かに、「後期」という名称が適切とはいえない人が多いのは事実だが、「後期」という単語を外して「高齢者医療制度」に改め」というのは、いかにも姑息である印象を受ける。
「民主党の政権政策Manifesto2009」には、「年金・医療」について、「後期高齢者医療制度は廃止し、医師の数を1.5倍にします。」と明記している。

この制度は、国の医療制度改革の一環として、第3次小泉改造内閣が提出し成立した。
当初から名称をめぐってさまざまな話題になった。
名称はどうでもいいとは言わないが、まず問われるべきは、中身であろう。

制度は、日本国内に住む75歳以上の後期高齢者全員と、前期高齢者(65~74歳)で障害のある者を対象とする、他の健康保険とは独立した医療保険制度である。
私は、健康保険と連続性のある制度だと思い込んでいたがそうではなかった。

狙いはいくつかあるだろうが、「この制度は、医療費が際限なく上がっていく痛みを後期高齢者が自ら自分の感覚で感じ取っていただくものだ」と厚労省の担当者が石川県で講演し際に話したというあたりにホンネが見える。
つまり、弱者も「応分の」負担をしろということだ。
問題は、「応分の」ということに明確な基準がないことだ。
ということは、相対的に弱者の負担がキツクなることは目に見えている。
後期高齢者を別の保険に切り離して、必要な医療が受けられなくなるということでは、今まで日本経済を支えてきた世代の人々が、高齢期になったら国から見捨てられたように感じることは必定だろう。

政府・民主党は、「民主党の政権政策Manifesto2009」の精神、実行可能性等をじっくり検証すべきではないか。

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2012年5月20日 (日)

入院生活とICT/知的生産の方法(20)

約2年前の入院生活と比べ、今回の入院の最大の相違点は、計画性の有無である。
前回は、突然の発症で、家を出た状態のままの入院であった。
当然、何の準備もない。
⇒2010年3月6日:闘病記・中間報告

今回は、計画的な入院である。
⇒2012年4月18日 (水):川平法に期待して再入院/闘病記・中間報告(41)
準備もそれなりにできた。
とりわけ、パソコン、スマートフォンなどのICTの機器類を持参できたのは大きい。

世紀の変わり目の頃、「IT革命」という言葉が流行した。
IT=Information Technologyすなわち情報技術である。
これに対し、ICTは何か?

ICTとは、情報・通信に関連する技術一般の総称である。従来ひんぱんに用いられてきた「IT」とほぼ同様の意味で用いられるもので、「IT」に替わる表現として日本でも定着しつつある。
ICT(Information and Communication Technology)は、多くの場合「情報通信技術」と和訳される。IT(Information Technology)の「情報」に加えて「コミュニケーション」(共同)性が具体的に表現されている点に特徴がある。ICTとは、ネットワーク通信による情報・知識の共有が念頭に置かれた表現であるといえる。
情報の共有化という点において、ICTはITに比べても一層ユビキタス社会に合致した表現であるといえる。日本でも、2000年頃に盛んに提唱された「e-Japan構想」では「IT」が盛んに用いられたが、2005年を始点とする「u-Japan構想」ではもっぱら「ICT」が用いられている。総務省の「IT政策大綱」も、2005年までにはすでに「ICT政策大綱」に改称されている。
すでに海外では、ITよりもICTのほうがよく通る名称として通用するようになっている。インターネットにおいて「URL」(Uniform Resource Locator)が「URI」(Uniform Resource Identifier)という表現へ移行しつつあるように、「IT」も徐々に「ICT」へ移行していると見られる。
http://www.sophia-it.com/content/ICT

ITにプラスして、Cが入った意味は大きい。
通信の発達により、遠隔地のバリアは大幅に低くなった。
霧島温泉郷といえば、歩いて行ける範囲の小売の店は、コンビニが1軒と土産物屋があるだけである。
とうぜん、書店などあるはずもない。
しかも、滞在場所が病院では、Amazonなどを利用してよいものかどうかも分からない。

しかし、情報の入手という点では余り欠乏感はない。
朝から夕方までのリハビリ訓練でかなり疲労しているということもあるが、どうやら欲望というのは、日常的に接するから肥大化してゆくものらしい。
書物の類も、書店で容易に接するから欲しくなる、というメカニズムが働くようだ。

私は前回退院したあと、かなりの期待をもってスマートフォン(Xperia)を購入した。
しかし、期待は十分には満たせなかった。
⇒2010年12月28日 (火):スマートフォンの可能性/知的生産の方法(3)

その根本要因は、入力のしづらさにあると考えた。
そこで、次にタブレット型端末を試してみた。
⇒2011年2月22日 (火):タブレット端末とスマートフォン/知的生産の方法(12)
これで満足できるはずであったが、やはり入力に難があった。

結果的に、小型のノートパソコンで、通信機能(WiFi、WiMAX)が付いているものに落ち着いた。
1kgちょっとなので、リュック型のカバンであれば、身障者でも持ち運びに大きな負担とはならない。
その上、AU(KDDI)がiPhoneを扱うことになったので、AUの携帯電話をiPhoneにチェンジした。

小型パソコンとiPhoneを携えて、霧島にやってきた。
iPhoneはXperiaと比べてspec的に格段に違うとは言い切れないのだろうが、実際の使用感はずいぶん違うように感じる。
もちろん、私の状態そのものが1年前とは異なるのだが。

iPhoneはいまや入院生活の必需品である。
音楽プレーヤーとして、あるいはカメラとして、そしてもちろん電話として、十分な機能を持っている。
そして、入力以外のたとえば検索等は、ある部分で(たとえば起動の早さなど)パソコンを凌駕している。
私は、ネット情報の多くをiPhoneから入手し、そのままEvernoteにストックしている。
重要なことは、これらの端末機器の利便性向上と同時に、いわゆるクラウドサービスが利用しやすくなったことだろう。
若者のように使いこなせるというわけではないが、EvernoteやDropboxなどは便利に使っている。

残念ながら、ノマドというライフスタイルではない。
⇒2011年2月21日 (月):知的余生の方法とノマドスタイル/知的生産の方法(11)
しかし、霧島という遠隔地でも、仲間とのコミュニケーションはさほど不自由さは感じない。
ICTのお陰で、このブログも途切れず書き続けていられるといえよう。

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2012年5月19日 (土)

安眠のコスト/闘病記・中間報告(50)

健康生活の要諦は、
・栄養(飲食)
・運動
・睡眠
であることはよく承知している。
リハビリ病院で入院生活を送ると、栄養(飲食)と運動は、メニュー通り守っていれば問題はない。

残りは睡眠だけである。
私は、発症後、音に敏感になった。過敏というべきかも知れない。
予期していない時に聞こえる小さな物音にも、ビクッと身体全体が反応してしまうのだ。

先日、神経生理の先生にそういう話をしたところ、計測してみましょうということになった。
神経生理では、麻痺の状態を調べるのに、指にパルスを与え、それが脊髄(?)から戻ってくる微弱波形を増幅して、麻痺の程度を計測する(ようだ)。
麻痺が強いと、帰ってくる信号の波形の山が高い(らしい)。
それと同様の方法で、音に対する敏感性を測定した。

結果は、やはり少し敏感になっているようだ、とのこと。
もっとも、「予期せぬ音」というのが「ビクッ」の条件だから、「計測します」ということ自体、その条件から外れているともいえるわけで、データ採取は難しいだろうと推測がつく。
本来の対象である麻痺の程度は、入院時→2週間後→4週間後と順調に軽減していることが、波形からも明らかに確かめられた。

音に対する感覚が異常になっているためだろうが、睡眠が浅い。
ごく小さな物音でも目が覚めてしまう。

病室は、4人部屋を基準とし、2人部屋、個室と分かれている。
飛行機でいえば、エコノミー、ビジネス、ファーストといった感じである。
ビジネスクラスやファーストクラスには、差額料金が必要であることも一緒である。

私は、急性期、回復期を通じ、4人部屋で過ごし、別段不満はなかった。
むしろ、患者同士のコミュニケーションという意味で、個室に引き籠るのはいかがなものかとも考えていた。
したがって、今回も、差額ベッドを利用する気は最初からなかった。

ところが、先日の突然の発熱で、2人部屋の1人使用を体験することになった。
⇒2012年5月 3日 (木):発熱?/闘病記・中間報告(48)
発熱は一晩でおさまったが、念のため、金、土、日と合計4泊する結果となった。

そのとき、明らかに睡眠の深さが違うと感じた。
考えてみれば当然である。
夜間における病院の音の発生源は、基本的に人である。
自分の出す音には驚かない。

4人:2人:1人は、他人の人数として数えれば、3人:1人:0人である。
自分の発する音以外をノイズと考えれば、この比で音の問題が発生する。
これは全員同一の音源として考えた場合だが、特にノイジーな人がいる場合には、この比以上の差になる。

2人部屋での快適性を体験したら、コスト・パフォーマンス的にこちらの方がいいように思えた。
そこで、看護師に、2人部屋が空いているかどうか確認したら、あいにく予約で塞がっているという。
念のため個室についても聞いてみたが、やはり満室だということだ。
空いたら移動させて欲しいと申し込んでおいたが、今現在、音沙汰がないので、空きがないらしい。
多分、退院まで、今の部屋で過ごすことになると思われる。

病室の選択は難しい。
回復期の病院では、病因、病状はそれぞれであったが、ごく一部の例外を除き、共に楽しく入院生活を送ることができた。
一部の例外というのは、次のようなことである。

消灯時間を過ぎてもTVをイヤフォンなしで視聴しているようだった。
(昼間といえどもイヤフォン使用がルールである)
看護師に注意して貰おうと思ったところ、本人は既に眠りこけていた。
睡眠薬を所望したのが、効きすぎたらしい。
マンガチックな話だが、実話である。

周囲に無神経な人がたまにいる。
運悪くそういうノイジーな人と同室になったら、部屋を替わるなどの対策が必要になる。
もはや安全はタダではない。
⇒2012年5月 6日 (日):「水と安全」のコスト/花づな列島復興のためのメモ(61)
安全と同様、安眠にもそれなりのコストを負担しなければならない、ということだろう。

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2012年5月18日 (金)

東京電力は誰のものか?/原発事故の真相(29)

5月9日、政府は東京電力の再建に向けた「総合特別事業計画」を認定した。
東電は、1兆円の公的資金投入によって、事実上国有化される。
これから、政府主導で経営の見直しが図られることになる。

  再建計画では人件費などの経費を10年間で総額3兆3650億円削減するほか、家庭向け電気料金を12年7月から平均で10.28%値上げすることなどが柱になっている。13年度以降に柏崎刈羽原発(新潟県)を順々に再稼動させる方針も盛り込んでいるが、計画通り実現不透明だ。
http://www.j-cast.com/2012/05/10131633.html

事実関係は上記のようであるが、この「総合特別事業計画」によって、あるいは政府主導の形で、山積する難題を解決していけるのだろうか?
東京新聞の5月10日付社説は「東電再生計画 目に余る国の責任逃れ」と手厳しい。

 枝野幸男経済産業相が東京電力再生に向けた総合特別事業計画を認定した。原発は国策なのに政府の責任は素通りだ。東電悪者論を振りかざすだけでは新たなエネルギー政策の展望は開けない。
 東電の西沢俊夫社長は公的資金注入などを列挙した総合計画について「国の支援をいただかないと立て直しができない」と語った。計画の本質を言い表している。
 東電には損害賠償など福島第一原発事故の処理に兆円単位の費用が重くのしかかるので、国に頼らざるを得ない。
 政府は六月の株主総会後に一兆円出資し、議決権の過半を取得して経営陣の人事権を支配する方針だ。事実上の東電国有化である。
 その伏線は早々と事故から二カ月後の昨年五月に張られた。政府への東電の支援要請に対し、当時の菅政権が「支援組織を設け、何度でも資金支援をして東電を債務超過にはさせない」と応じ、原子力損害賠償支援機構を創設した。
・・・・・・
 計画は表向き、支援機構と東電との共同策定だが、現実には政府が経産省幹部を送り込んだ支援機構の主導で進められた。原発政策は国策として政府と電力業界の二人三脚で進めてきたのに、政府は東電を牛耳り、まるで裁判官のような振る舞いを続けている。
 原発運転の直接の当事者である東電は責任を免れないが、安全神話を言い広めた政府も同罪ではないのか。大津波の危険性を認識していながら、海岸近くに原子炉冷却用の予備電源設置を認めたのは経産省の原子力安全・保安院だ。
・・・・・・
 福島第一の事故の検証は国会などでなお進行中で、新たな安全基準づくりも道半ばにある。全国で五十基ある原発は、地元自治体などの反対で今や一基も動いていない。西沢氏の後任、広瀬直己次期社長の「原子力は国のエネルギー政策の大きな土台だ」との発言は無神経にすぎないか。
 野田政権は原発依存度引き下げをどう具体化していくのか。発送電分離を含むエネルギー政策をどう築く
のか。その道筋や時期に深く踏み込まず、国民に値上げを強いるのでは納得できない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012051002000115.html

基本的には東京新聞社説のとおりであるが、もう少し別の角度から考えてみたい。
そもそも、東電は誰のものなのだろうか?
ライブドア(ホリエモン)の野放図な資本市場至上主義的な経営をきっかけとして、企業は誰のものか、ということが真剣に問い直されることとなった。

企業の代表的な形態である株式会社においては、会社の最上位の意思決定機関は株主総会である。
社長などの経営者、より一般的にいえば、取締役は、株主総会で選任される。
ということを考えると、会社は株主のもの、といえそうである。
いわゆるシェアホルダー第一主義であり、ホリエモンらの基本的考えもその線であったといえよう。

しかし、企業を構成しているのは株主だけではない。
というよりも、上場企業においては、株主は一時的に株を所有するだけであって、むしろ会社の本質とは無関係ともいえる。
会社の利害関係者には、株主(シェアホルダー)だけでなく、金融機関、従業員、顧客、官公庁等規制機関、地域住民などがある。
これらを総合して、ステークホルダーという。
会社は、ステークホルダー全員のものとして考える必要がある。
これが、現在一般に受け入れられている考え方である。

それでは、東電の場合はどうか?
公的資金投入により、事実上国有化される。
しかし、株主としての国のものではないと考えるべきだろう。
まして、原発政策に責任を負う自民党や、原発事故対応の検証も終わっていない民主党政府のものではない。

そもそも公的資金の原資は税金ではないのか。
とすれば、第一に国民の、次いで電力のユーザーの意見が尊重されるべきであろう。
いまこそ、企業の社会的責任を本気で問わなければならない。

経済同友会が、2003年に、『「市場の進化」と社会責任経営-企業の信頼構築と持続的な価値創造に向けて』と題する「第15回企業白書」を出した。
経済同友会といえば、経営者が個人の資格で参加するという点で、経団連等の経済団体とは異なる特徴を持っていることで知られる。
レポートの具体的な内容は上記を参照していただきたいが、小林陽太郎代表幹事による「まえがき」に、CSRについての認識がある。

 CSRをわが国の状況下で捉え直すと、日本企業には二つの変革が求められる。
第1に、市場機能の活用を通じて、その収益力と競争力を高め、より効果的な経済的価値創造を行うことにより、低迷する経済を活性化させることである。
 第2に、企業が上記を行うにあたってすべてのステークホルダーに対する義務を履行するという理念を固め、それを実現するためのガバナンスを確立していくことである。

経済同友会は、15年間にわたり代表幹事を務めた東京電力の木川田一隆氏によって存在感を高めた。
今こそ、小林陽太郎氏の上記言葉や木川田氏の精神を踏まえるときではなかろうか。

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2012年5月17日 (木)

いま消費増税をすべきなのか?/花づな列島復興のためのメモ(68)

経済政策には、全員一致した解というものはないのだろう。
野田首相が「政治生命を賭ける」という決意を示している消費税増税についても、賛否両論あって、私のような素人にはどちらが正しいのか分からない。
今日から、衆院の社会保障と税の一体改革特別委員会が実質審議に入った。

 首相は法案について6月21日までの会期内成立に政治生命を懸けるとしており、民主党は6月上旬の採決を目指す。だが自民、公明両党は参院で問責決議を受けた田中直紀防衛相と前田武志国土交通相の早期更迭を求めて対決姿勢を強めており、首相は2閣僚をめぐり厳しい判断を迫られる。
 首相は特別委で、社会保障の現状を「最大の課題で待ったなしだ。2014年には団塊の世代が全て年金受給段階に入ることを念頭に対応しなければならない」と説明、「社会保障の充実、安定化を早くやらなければならない」と述べた。欧州債務危機についても「対岸の火事ではない」と指摘し、財政健全化の重要性を訴えた。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201205170115.html

庶民感覚でいえば、「社会保障と税の一体改革」とはいうものの、力点は消費増税に置かれていて、社会保障改革の全体像が良く分からない。
もっと重視すべきは、2009年総選挙との整合性である。
議論は1年前からどれだけ深化したのか?
⇒2011年2月10日 (木):マニフェストを履行するための消費税増税?

消費増税については、国民新党代表だった亀井静香氏が「連立政権合意に反している」として反対の姿勢を明らかにし、それが原因で国民新党の多数派から党を追われることになった。
民主党元代表の小沢一郎氏も、国民との約束違反ということで反対の構えだ。
⇒2012年3月31日 (土):政治家の信義とは?/花づな列島復興のためのメモ(43)

その小沢氏は、冤罪とも言うべき裁判が続行されることになり、政治的な発言力を大幅に制約されている。
⇒2012年5月11日 (金):小沢裁判控訴の狙いは?/花づな列島復興のためのメモ(64)
⇒2012年5月14日 (月):虚偽報告書による権力の組織犯罪/花づな列島復興のためのメモ(67)
うがった見方をすれば、外堀は着々と埋められているということだろう。

しかし、本当に、いま政治生命を賭けて取り組むべきは、消費増税か?
田中秀征氏は、「消費税増税に6つの異議あり」として以下を挙げている。

(1)日本経済、現状の景気は、5%の消費税率アップに耐えられない。
(2)行政改革、「税金の無駄使いの排除」が後回しにされている。
(3)何のための増税なのかが明確でない。
(4)今回の消費税増税は明らかに民主党の公約違反。しかも最重要公約の違反である。
(5)先に総選挙で民意を問うべきではないか。
(6)なぜ大震災対応に総力で取り組まなければならない今、消費税増税を最優先の課題としているのか。

私には、田中氏の意見がもっともなように思える。
特に、終わりの部分の以下の言葉を、野田首相はよく考えてみるべきだろう。

 この際、政治生命を賭けるべきは消費税増税ではない。大震災と原発事故への対応である。
 復旧、復興、被災者への支援の迅速化。原発災害の拡大阻止。新しい原発の安全基準、エネルギー基本計画の策定。この夏の電力需給はどうなるか。
 復興庁の行政も軌道に乗らないし、規制庁は発足すらしていない。このような事態は昨年から懸念されていたことだ。
 こんな国家的危機の真っ只中にあって、政権が消費税増税に血眼になることが許されるのか。諸外国の人たちからすると理解に苦しむだろうし、何よりも後世の人たちからは強い怒りを買うことになる。
 野田首相は、自己実現、功名心、政局などの余計なことを度外視して、歴史の大局に立つべきである。

山崎元氏も「それでも、消費税率を「今」上げることに反対する理由」として、以下の5項を挙げている。

反対理由1:増税は緊急性が薄い
反対理由2:デフレ対策を優先すべき
反対理由3:手順が悪い
反対理由4:徴税の改善が先ではないか
反対理由5:約束は、約束だ

山崎氏も多くの国民の疑問点を掬い上げている。
山崎氏は以下のように結んでいる。

 筆者の反対論拠のうち、「反対理由1:増税は緊急性が薄い」と、この「反対理由5:約束は、約束だ」だけで、今国会での消費税率引き上げ法案に反対する十分な根拠だ。
 政治の議論としては、本来これが常識だろう。これを脇に置いて、経済的な得失から消費税を論じている時点で、我が国は政治的に病んでいる。国民もメディア含めて、我が国の政治が劣化している証拠である。

喫緊の日本の課題は何なのか?
2009年政権交代のマニフェストを反故にしてもいいのか?
われわれも、妙にオトナになって、「理解ある態度」をとるべきではないだろう。

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2012年5月16日 (水)

元首と象徴/「同じ」と「違う」(48)

日本国憲法において、天皇は次のように規定されている。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
つまり、天皇は、国の象徴かつ国民統合の象徴である、というのが法制上の位置づけである。
この規定自体、意味が捉えがたいものである。
⇒2011年4月 1日 (金):「天皇」という制度/やまとの謎(29)
それはそれとして、一般に、日本の元首は天皇、というように考えられているのではなかろうか。
記憶が定かではないが、小学校か中学校でそんなふうに教わった気がする。

それでは「象徴」と「元首」は「同じ」であろうか?
一般的な語義としては、「象徴」は抽象的な概念を具体的なもので表現することをいう。
たとえば、ハトが平和を象徴する如くである。
しかし、元首は自然人であるからもともと具体的な存在である。
「象徴」と「元首」が同一とは考えにくい。
それでは、日本において特殊的に、「象徴」という言葉で「元首」を意味させるということだろうか?

そもそも、元首とは何か?
Wikipediaの解説は以下の通りである。

元首の概念は国家有機体説に発し、独立の生命体として国家をとらえた場合の頭に相当する部分であることに由来する。社会契約説の国家観の下では社会的な委任契約における社会的人格の一つ。大日本帝国憲法は、国家有機体説の国家観に立脚していた。現在の日本国憲法は社会契約説の国家観に基づく。
君主制の国家では皇帝・国王などの君主、共和制の国家では大統領が元首とされることが通例である。社会主義国では大統領の他、中華人民共和国の国家主席やキューバの国家評議会議長、かつてのソ連の最高会議幹部会議長、東ドイツの国家評議会議長なども元首に該当する。
日本の天皇は大日本帝国憲法下においては明確に元首であったが、現行憲法である日本国憲法下においては「象徴」とのみ定められており、天皇が元首にあたるかは憲法学における解釈上の定義によるとされ、日本政府の公式見解ではほぼ元首として差し支えが無いとされるが、憲法学上では有力な反論がある。

大日本帝国憲法では第4条で天皇を元首と規定していが、現行の法体系には天皇を元首とする規定はない。
ただし、元首の案件とされる国事行為については、憲法第4条に規定されている。

第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

⇒2011年12月 5日 (月):天皇の公務について/やまとの謎(52)

国家の根本である元首について、日本国憲法の規定は中途半端である。
各種の改憲論が出されている。
⇒2012年5月 4日 (金):憲法改正論議の方向性/花づな列島復興のためのメモ(59)
上記でも触れた東浩紀氏は「天皇は元首」と明示したそうだが、次のような批判がある。

 驚くのは「試案では日本という国を尊重しろと書き、天皇は元首として位置づけました」と語っているところだ。国民が国家権力を縛るために定めるのが憲法だということを東が承知していないはずがない。「国を尊重しない自由」「天皇の言うことを聞かない自由」を保障してこそ憲法と言えるのに、「国を尊重しろ」「天皇は元首」ではまるでその逆だ。
http://blog.livedoor.jp/nkmrrj04fr/archives/52138185.html

大日本帝国憲法の反省を踏まえれば、上記の批判も当然のように思えるが、現在われわれが一般的に抱いている感覚は、「日本国の元首は天皇」であろう。
結局以下のようなところに落ち着くのかも知れない。

 また天皇に関する規定が明治憲法同様 第1章に位置づけられていること 英文憲法の第1章のタイトルが“THE EMPEROR ”(これは「君臨すれども統治せず」という今日のヨーロッパ型皇帝の意味であろう) とつけられていること,さらに現行憲法において天皇が身分上国民かはっきり区別されていることを考え併せ,天皇が現行憲法上紛れもなく君主であり 元首以外の何者でもないことが裏付けられる。
さらに現実に天皇がわが国内外において元首として遇せられていることをみても 現行憲法下の天皇が「君主」であり「元首」であるとみるのはごく自然である。実際、外国人の目から見て,猫の目のように変わる内閣総理大臣を形式的とはいえ任命する世襲・終身の憲法上の安定した機関すなわち天皇が存するかぎり,それを元首扱いするのは当然であるといえよう。

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak1/120611.htm

もっと天皇制の由来や機能を知らなければ答の出しようがない問題である。
社会契約説に基づく国家観のもとでは元首という概念に無理があるともいわれる。
改憲論議の1つの焦点である。

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2012年5月15日 (火)

金銭で評価し得ない被害の補償/原発事故の真相(28)

原発事故の被害は、総計いくらか?
計算しようにも計算できないだろう。
被害には、金銭で評価できるものと、金銭では評価できないもしくは難しいものがある。

「この世にただ1つしかないもの」については金銭評価が難しい。
人の命や生態系などだ。
そして、人の命と生態系が密接な関連を持っていることを、われわれは水俣病などの例で学んだ(はずである)。
ところが、経済界のみならず政府・民主党まで、電力不足による経済的損失の回避を優先させようという姿勢だ。
⇒2012年5月13日 (日):原発ゼロをどう考えるか?②/花づな列島復興のためのメモ(66)

たとえば、飯館村の被った損害である。
110723日放映のNHKスペシャル『飯舘村~人間と放射能の記録~』の紹介記事。

福島県飯舘村は人口約6000人。山あいの土地で農業や畜産業を営みながら人々は静に生活していた。ところが、東京電力福島第一原発の事故で暮らしは一変した。飯舘村は原発から30㎞以上離れていたため、当初は避難区域などに指定されず、住民は村に残った。しかし実際には、村の土壌は高濃度の放射能に汚染されており、人々は被曝することになった。さらに4月末には国によって計画的避難区域に指定された。村人たちは仕事と暮らしをすべて手放すという悲壮な決断を迫られたのだ。
 農作物の出荷停止。汚染状況の判明。村民に広がる被曝の恐れ。「自然と共存した村作り」を目指してきた菅野典雄村長も、村民の命や健康を守るため決意が揺らぐ。村を出るか、それとも残るか、村民は村の消滅のという極限の状況下で、何を考え、どう行動するのか。番組では震災発生から4か月間、飯舘村を定点観測し、「見えない敵」放射能との闘いを強いられた人々の姿を記録した。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/110723.html

しかも、政府がSPEEDIのデータを的確に運用していれば、被害は軽減された可能性が高いのだ。
Speedi
http://www.imart.co.jp/genpatu-jikogennin-bousisaku-p1.html
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか
⇒2011年7月 5日 (火):官邸は誰の責任で情報を隠蔽したか?/原発事故の真相(4)

この飯館村の被害は、どのように算定されるのか?
被害者が特定できない被害の補償はどう行われるのだろうか?

あるいは、原発事故が要因となって、命を亡くした人はどう償われるのか?

 東京電力福島第1原発事故による避難生活のストレスで自殺したとして、亡くなった福島県川俣町山木屋の渡辺はま子さん=当時(58)=の遺族が東電に約7千万円の損害賠償を求めて福島地裁に提訴することが9日、分かった。原告側が明らかにした。
 原告側を担当する福島原発被害弁護団によると、渡辺さんは原発事故で自宅が計画的避難区域に指定され、福島市などに避難。川俣町の自宅に一時帰宅した翌日の昨年7月1日、ガソリンをかぶって火を付けて焼身自殺した。遺書はなかった。
 原告側は、渡辺さんが原発事故で家族と離れての避難生活を強いられ、ストレスがたまって慢性的睡眠不足に陥り、うつ病になって自殺したと主張している。
 弁護団は「原発事故被害のなかで、自殺は極めて過酷。悲劇を二度と起こしてはならないという遺族の思いから東電の法的、社会的責任を問う」としている。
 東電は「当社事故で皆様に大変なご迷惑をおかけして改めておわび申し上げたい。訴訟については承知しておらずコメントは差し控えたい」としている。
http://sankei.jp.msn.com/smp/affairs/news/120509/trl12050911460006-s.htm

この記事のように、自殺した人の原発事故との因果関係は、立証が難しいだろうと推測される。
自殺はあくまで主体的な意思によるものである。
しかし、そうせざるを得ない状況に追い込んだ原因は厳然としてある。
その原因と自殺という結果の結び付きは必ずしも必然とはいえないが、因果関係が立証されないからといって、補償されない、あるいは十分な補償がなされない、といったことはあってはならない。

因果関係が特定しにくいという面は、いわゆる過労自殺やいじめによる自殺と類似している。
⇒2010年9月13日 (月):山田潤治氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(4)
⇒2010年9月14日 (火):宮本光晴氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(5)
⇒2010年11月10日 (水):いじめと自殺の因果関係
あるいは、自殺まで至らぬても、それまでの病状が避難生活等で悪化することは多いだろうと思われる。
その被害の全貌も不明のままで、当然補償が済んでいない段階での再稼働は、許されないだろう。

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2012年5月14日 (月)

虚偽報告書による権力の組織犯罪/花づな列島復興のためのメモ(67)

小沢裁判は一審無罪となったが、指定弁護士が控訴をして裁判は継続することになった。
⇒2012年5月11日 (金):小沢裁判控訴の狙いは?/花づな列島復興のためのメモ(64)

裁判は検察審査会の2度の議決によるものであるが、検察庁が検察審査会に提出した捜査報告書に虚偽記載があるという。
以下は、「週刊朝日」(5/4・11合併号)の『小沢一郎を陥れた検察の「謀略」』という記事である。

本誌は、検察が検察審査会に提出した「捜査報告書」の全貌をついに掴んだ。そこには検審という民意すら悪用する「暴走検察」の真実があった。」”
と、6通の捜査報告書の矛盾・悪意の内容を指摘しています。
6通の捜査報告書とは、10年4月30日から5月19日にかけて作成された。検審が1度目の「起訴相当」議決(4月27日)を出した直後から、それを受けて検察が小沢氏の3回目の事情聴取(5月15日)を実施し、改めて不起訴処分(5月21日)とした間のもので、
(1)【検察審査会議決の考え方についての検討結果】(4月30日付)
(2)【想定弁解の検討結果について】(5月16日付)
(3)田代報告書(5月17日付)
(4)【小沢供述の不合理・不自然性について】(5月19日付)
(5)【4億円の出所に関する捜査の状況について】(5月19日付)
(6)【再捜査の結果を踏まえた証拠の評価等について】(5月19日付)
で、(1)(2)(3)(5)は、当時、陸山会事件の主任を務めた東京地検特捜部の木村匡良検事が作成し、それを踏まえて、特捜部副部長の斎藤隆博検事が(6)を作成と。
記事では、各報告書の問題を指摘し、最後に、
”「何よりも問題なのは、これらの報告書が検審の判断に大きな影響を与えたであろうことだ。実際、検審の起訴議決書の内容は、斎藤副部長による報告書(6)の文言と酷似しているのだ」”
と記述・・・

http://spaem77gmwova915jiysge83sih.blogspot.jp/2012/05/blog-post_3289.html

小沢氏が説明責任を果たしていない、という声が強いが、説明責任を果たすべきは検察の方であろう。
虚偽記載については、以下のように組織ぐるみという報道がなされている。

 小沢一郎民主党元代表(69)の捜査を担当した元東京地検特捜部の田代政弘検事(45)=現法務総合研究所=が元秘書の再聴取で虚偽の捜査報告書を作成した問題で、同検事が検察当局に「再聴取の際、(元代表の関与を認めた)捜査段階の供述を維持させるよう上司から指示された」と話していることが11日、関係者への取材で分かった。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201205110146.html

まさに「正義の砦」による組織犯罪である。
指示した上司とは誰か?
誰がその「指示」に関与しているのか?
この際徹底的な説明がなければ、検察は国民の信を失ったままになろう。

司法は、立法、行政と三権を構成する統治機構の基本である。
三権共に国民が信頼しない状態とは、まさに制御不能なメルトダウンである。
以下、郷原信郎氏のサイトより。

報告書:https://docs.google.com/open?id=0ByWdni-HzzdgV0RMV0o5WWNiTlk 
上記の報告書を読んでもらえば分かると思うが、私は日頃陸山会事件の実態を知っているつもりであるのに、小沢氏は石川氏、池田氏と共謀していると、これでもかこれでもかと繰り返し書かれると、思わず「そうかもしれない」という不思議な感覚になる。特に小沢氏が深く関与した、またそれを示す証拠となる部分に下線が引かれている。昨日も書いたが、これでは検察審査員全員が小沢氏は真っ黒で、強制起訴議決となるのは当然の結果ということがわかる。検察が検察審査会で、被告人側の弁護士もいない中、一方的に捜査報告書を捏造すれば、誰でも強制起訴されてしまう。
・・・・・・
田代報告書については、法務大臣、検事総長宛の要請書提出後の記者会見の際にも、岩上さんのインタビューの際にも言ったように、「記憶の混同」などというレベルではなく全部が嘘です。
記載された取調べ状況は、録音記録とは全く違う。
http://sun.ap.teacup.com/souun/7409.html

恐るべし権力犯罪。
まさに『真昼の暗黒』ではないだろうか。
⇒2012年2月22日 (水):小沢強制起訴裁判で墓穴を掘るのは誰か?

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2012年5月13日 (日)

原発ゼロをどう考えるか?②/花づな列島復興のためのメモ(66)

商用原発稼働ゼロが現実のものになった。
この状態をどう考えるか?
立場は鋭角的に2つに分かれている。

1つは、異常事態だから、可及的速やかに正常な状態に戻すべきだ、とするものである。
たとえば、産経新聞の「主張」である。

 だが、社会機能は何とか維持されている。そこから生まれる誤解が危うい。「原発ゼロでもやっていける」との誤った認識が定着しかねない。その背中合わせに、天然ガスなど火力発電用燃料の輸入増で年間3兆~4兆円の国富が流出し、突然の大停電という危機があることを忘れてはならない。
 脱原発の流れの一環として、既存の原発の建て替えなどが今後、認められなくなる事態もあってはならないことだ。
・・・・・・
 信頼性の高い原発と運転技術の提供は、世界のエネルギー安全保障への貢献にもつながる。国際社会が寄せる期待も大きい。
 国のエネルギー政策を短期的、短絡的な判断に委ねてきた民主党政権の対応は極めて危うい。地球の人口は急増中である。主要国のエネルギー政策の動向の把握も含めた戦略的な視点も必要だ。
・・・・・・
 資源小国にとって、原発ゼロは自らの息の根を止める行為に等しい。日本の国力回復が不可能になる「ポイント・オブ・ノーリターン」は目前だ。原発の再稼働で破局突入を回避したい。

【主張】「原発ゼロ」 異常事態から即時脱却を 安全技術の継承は生命線だ

もう1つは、原発ゼロの現状を恒久的な原発ゼロへの出発点とすべきだ、とするものである。
たとえば、内田樹氏の、「「原発ゼロ元年」を言祝ぎたいと思う」とする発言がある。

原発の再稼働の賛否については、文字通り「国論を二分する」ような議論がゆきかっている。
再稼働賛成派の論拠はおもに経済的なものである。
盛夏における電力の不足、電気料金の値上がり、電力コストの上昇による工業製品の国際競争力の相対的低下、より安い電力を求めての生産拠点の海外流出と産業の空洞化などなど。
・・・・・・
でも、すこし長期的に考えると、原発は国益にマイナスである。
すでに私たちは国土の一部を半永久的に失った。
福島の事故の終熄までにどれほどの国民が苦しみに耐えなければならないのか、どれほど国費を投じなければならないのか、まだわからない。
一説には200兆円という。
使用済み核燃料の処理費用も天文学的な額にのぼる。
これらは「原発のつくりだす電力料金」に加算されるべきものであり、それを考えると、原発は「長期的にはきわめて費用対効果の悪いテクノロジー」だということになる。
だから、原発を「損得」で考える場合に「支払期限」をどこに設定するかで、結論が変わってくる。
・・・・・・
コスト削減を最優先して国内の雇用確保をないがしろにするのは国民経済的視点からは「いささか問題」ではないかという反省はここにはまったくない。
国民経済というのは「日本列島に住む1億3000万人の同胞をどうやって養うか」という経世済民の工夫のことである。
それを考えるのが統治者の仕事である。
・・・・・・
「国論を二分する」ようなイシューについては、誰が考えても、「ゆっくり議論して合意形成を待つ」というのが筋である。
だが、国論を二分する一方の主張が「ゆっくり議論している暇なんかない」という短期的な損得勘定を自説の正しさのよりどころにしている。
つまり、まことに不思議なことなのだれけれど、原発再稼働をめぐる議論はコンテンツの正否をめぐる議論というより今ではむしろ、「じっくり話し合おう」という立場と「話をしている暇なんかない」という立場の、つまり「アジェンダをめぐる対立」と化しているのである。
http://blog.tatsuru.com/

この2つの立場は相容れるものではないだろう。
安全性の議論を、短期の需給の問題と対比できるのか?

今の段階で、短期的な需給ギャップを問題にして、再稼働を急ぐのか否か。
恐るべきことに、産業界のみならず、政府もいつの間にやら安全性よりも短期的な需給が大事だとしていることである。
エコノミックアニマル以外の何物でもないだろう。

この2つの立場は、二者択一である。
言い換えれば、戦略的矛盾である。
政府の「脱原発依存」はマニフェストと同じで、その場しのぎと言わざるを得ない。

段階的「原発依存」脱出論?
何時までに、原発ゼロを目指すのか、その手順を含めて工程表が明らかにされない限り、原発再稼働の口実になるだけではなかろうか?
私は、後者の、つまり「「原発ゼロ元年」を言祝ぎたいと思う」立場に同調する。

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