2012年2月14日 (火)

Facebookとデジタル・デバイド/知的生産の方法(18)

フェイスブックが広く認知されたのは、昨年の初めといっていいだろう。
⇒2011年1月31日 (月):フェイスブックは日本でも大きなシェアを占めるか?/知的生産の方法(9)
どうやら、「大きなシェアを占めるか?」というQに対しては、現時点ではYesが正解のようである。

上場申請を済ませ、巨額の資金調達をするらしい。
全世界で8億4500万人が利用しており、毎日2億5000万枚の写真がアップロードされているという。
日本のユーザーはどんな年代構成か?
Photo
http://dt.business.nifty.com/articles/12352.html

利用者を年代ごとに見ると、45―49歳がピーク。続いて50―54歳、40―44歳となっている。
意外と高い年齢層のような気がするが、65歳以上は1括りになってしまうようだ。

今朝の産経新聞の一面トップに、佐賀県武雄市が、Facebookを業務に使うことを義務づけた、というニュースが載っていた。
Facebookは実名で使用することとされている。
私も、個人的に、試用的に使用している段階で、ヘビーユーザーではない。
武雄市では、市のオフィシャルサイトを昨年8月からFacebookに移行したという。

早速、武雄市のサイトを見てみると、確かにFacebookである。
http://www.facebook.com/takeocity#!/takeocity?sk=wall
Facebook化によって、5万件/月の訪問者が330万件に増えたという。
樋渡市長は、「市民とのやりとりの可視化」と自賛している。
まあ、アクセス数が増えたのは、コミュニケーションにとってプラスであろう。

横手市でも、Facebookによる情報発信を始めるという。
3月末まで試行して、有用性などを確かめたうえで、4月以後も続けるかどうか検討する。

市は、11日に始まった雪まつりに合わせ、発信を始めた。直前に岐阜でかまくらの崩落事故があり、心配する声が寄せられたため、10日のフェイスブックで「横手のかまくらは構造が違い、安全です」と語り、「かまくらの作り方」の動画が見られるようにした。
http://mytown.asahi.com/akita/news.php?k_id=05000001202140001

武雄市では、64歳の女性の、「パソコンが使えないから関係ない」という市民の声が紹介されている。
まだまだパソコンに不案内な人は多いだろうから、その辺りをどう考えるか?
まあ、そういう人は、市のサイト自身関係ないと言っていいかも知れない。
しかし、「パソコンが使えないから」という程度が、どの程度か。

Facebookのようなソフトと、Smartphoneに代表されるハードが相まって、身の回りは急速にデジタル環境が増えている。
いわゆるデジタル・デバイドは、いろいろな局面で顕在化してくると思われる。
まあ、読み書きソロバンといわれた時代から、リテラシー格差はあったのであり、デジタルだけがリテラシーではないこと、英語公用語論と同じようなことだろう。
効率化が進んで、その分他の仕事に手が回るならば、Facebookでも何でも使えばいい、と思う。

問題になるのは、やはり高齢者であろう。
若者は、必要に応じて環境に適応していく。
私たちのような高齢者は、ハンディキャップを負いがちであるが、私は自分なりの利用方法を見つけ、幾分かでも快適・利便な生活を過ごすために、高齢者こそ率先してトライすべきだと考えている。

パソコンなどの操作は、「習うより慣れろ」である。
とはいうものの、ある程度までは人に聞かないとどうしていいか、どこが分からないかが分からない、という状態であることも体験するところだ。
人に聞く場合、「親しい人に聞くのが最も良い」ように思うが、必ずしもそうとは言えないようである。

我が家の場合、妻は、基本的にアナログ人間である。
料理などは好きで、私が見ていても飽きずにやるものだと思うし、自分なりの創意工夫もあるようだ。
しかし、パソコンの類は基本的に苦手である。
メールも、携帯(いわゆるガラケー)の方がやりやすいらしく、ほとんどが携帯で済ませている。
それでも、当初、携帯電話を持つことすらためらっていたことを思えば、驚くほどの変貌ではあるが。

それが、どういう風の吹き回しか、某NPO法人が行っているパソコン講座に通い出した。
本人は、ワープロ専用機の時代は良かったが、パソコンになってから訳が分からなくなった、ということだ。
ワープロはパソコンが特化したもの、という私の説明では納得しない。
そこで一念発起して、ということになったようであるが、1回の受講料が、ワンコインつまり500円というボランティア料金であるのが引力であるに違いない。
当然、受講時間内に完璧に理解できるはずがなく、家で復習ということになる。
私も、できるだけ辛抱強く、私の理解していることは教えようと接しているが、余り同じことを何度も聞かれると、つい声が荒くなる。

今度は、娘をつかまえて、あれこれ聞いている。
娘は、高齢者の扱いに慣れているというか、昔に比べずいぶん辛抱強く丁寧に教えているが、やはり終いには口喧嘩状態である。
どこかで覚えのある体験だと考えてみると、ゴルフのラウンドのとき、似たようなことがあった。

今は昔、バブル華やかなりし頃である。
妻も誘われて、ゴルフの打ちっ放しの練習場に行ったりしていたことがあった。
たまにはコースに出ないと、ゴルフの醍醐味は分からない。
と考えて、一緒に近隣の某名門コースに出かけた。

ラウンドし始めて、すぐ間違いに気づいた。
私の知り合いにも、夫婦で仲睦まじく出かける人はいる。
しかし、我が家の場合、ムリというか無謀であったというべきであろう。
ほんの数ホールのうちに、険悪なムードになり、妻も私も、コリゴリだと悟った。

ゴルフもパソコンも、初心者のレッスンは、他人が行った方がいい。
もう少し拡大して考えると、初等教育全般についても言えるのかも知れない。
家族だと、間合いの置き方が難しいのである。

知人の教師の家庭をみても、何となく納得できるようだ。
両親が教育者という家庭で、理想的な初等教育だと感心させられる例は意外と少ない。

パソコンの例に戻ると、妻は、私の使ったことのないソフトや機能に挑戦しようとしていることもある。
私も一緒に、あれこれ試してみて、使い方が分かったりすると、まあ満足が得られる。
つまり、その段階までは他人のお世話になった方がいいようだ。

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2012年2月13日 (月)

『雪国』と文体/知的生産の方法(17)

文体という言葉がある。
辞書的にいうと、以下の通りである。

文章様式口語体・文語体・和文体・漢文体・書簡体・論文体など。
その
作者にみられる特有な文章表現上の特色。作者の思想個性が文章の語句語法修辞などに現れて、一つの特徴傾向となっているもの。スタイル
http://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E4%BD%93

たとえば、『雪国』と『新・雪国』は、「」については「同じ」であるが、「」については「違う」と感じられる。
⇒2012年2月 9日 (木):『雪国』と『新・雪国』/「同じ」と「違う」(41)
その違いは、作者の個性を反映しているであろう。
文体について、定量的な研究は、たとえば邪馬台国研究者として著名な安本美典氏などが行っている。

『雪国』の冒頭は、日本文学の中でも最も有名なフレーズの1つであろう。

国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。………

Photo_3(写真は、湯沢町観光協会のサイト)
イラストレーターの和田誠さんが、この一節を材料にして、有名作家などの文章を模写してみせる、という遊びを長いこと続けている。
手許の『倫敦巴里』話の特集社(7708)を見ると、最初は、雑誌「話の特集70年2月号」に掲載された『雪国・またはノーベル賞をもらいましょう』のようだ。

ちなみに、川端康成が、日本人としては初めてノーベル文学賞を受賞したのは、1968年10月のことであったから、和田誠さんの試みは、ノーベル賞が1つのきっかけになったのであろう。
この号では、庄司薫、野坂昭如、植草甚一、星新一、淀川長治、伊丹十三の各氏の文体が模写されている。
いずれも当時の人気文筆家であり、和田さんの本業である似顔と共に、それぞれの文体の特徴を捉えた文章載っている。

この企画は大好評だったと思われる。
同誌の72年11月号に『雪国ショー』、73年12月号に『新・雪国』、75年2月号に『又・雪国』、77年2月号に『お楽しみは雪国だ』と続いた。
これらは『倫敦巴里』に収載されているが、その後も試みは続いていて、「本の雑誌2001年1月号」に、『海外篇』が掲載されている。
『海外篇』とは、例えば、小田島雄志訳のシェイクスピアなどである。
恐れ入るばかりの才気と根気である。

雰囲気を伝えるために一部をコピーしよう。
Photo_4
肝心の文章は、たとえば、野坂昭如氏。

国境の長いトンネルを抜ければまごう方なきそこは雪国。夜の底白くなり、信号所に汽車が止まると向こう側の座席から一人の女立ち上がり、あれよと見守るうち、島村の前のガラス窓落としたから雪の冷気いやが上にも流れこむ。………

あるいは、伊丹十三氏。

列車が国境の長いトンネルを抜けたとお考えください。そこは雪国であった。
いや、実に雪国なんだなあ。川端康成氏なら、その時の感じを、かくも表現したであろうか。すなわち、夜の底が白くなった。
おもんぱかるに、そのあたりは新潟県湯沢温泉ということになる。………

如何であろうか。両氏の文体の特徴を実にうまく捉えている。
まさに、「野坂昭如氏ならば、あるいは伊丹十三氏ならば、かくも表現したであろうか」という感じである。

このような試みが成立するのも、和田さんが類い希なる才能の持ち主だからであるのは言うまでもない。
同時に、『雪国』そのものの魅力と、その特に冒頭の部分が、川端のノーベル賞受賞なども含めて、多くの人に知られているからであろう。
しかし、文章とは個性的である。
というより、個性が分かるような文章の書き手になりたいものだ。

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2012年2月12日 (日)

トイレの考現学/闘病記・中間報告(38)

脳梗塞の後遺症はやっかいである。
しかし、リハビリの効果は、緩徐的ではあっても未だ確かにある。
人生における緩徐楽章(adagio)と思って、続けるしかない。

当初、全廃とされた右上肢も少しは動くように成り、単純で軽度の補助作業に参加している。
まあ、これからは希望的観測ではあるが、「使えば使うほど良くなる(ポジティブ・フィードバック)」のではないか。

ADL(日常生活動作)の中でも、トイレは基本だろう。
リハビリ専門病院を退院するときの課題の1つが、「トイレは大丈夫か?」ということであった。
幸いにしてわが家のトイレは下のごとくである。
Img_01722_2
腰掛けた時、右片麻痺だと、麻痺側に操作位置があって、それが心配されたのだが、これくらいの位置なら左手でも操作できる。
今では、ボタンを押す程度は右手指でも可能である。

現在は一般家庭でもこのような腰掛け式(洋式)のものがほとんどであろう。
これが私の若い頃、借家住まいの頃は、和式トイレがほとんどで私の住んでいた所もそうだった。
片麻痺になって初めて分かったことの1つが、「しゃがむ」という動作が困難であることだった。
したがって、和式トイレだと、不可能ではないが著しく困難である。

汚いものの代名詞であった駅のトイレなどもずいぶんキレイになった。
商業施設でも、和式トイレが多かったが、洋式トイレが増えてきた。しかし、古くてリニューアルしていない商業施設では和式トイレのままである。
新幹線などは、和洋併存である。
私よりもっと高齢者の中には、洋式トイレがイヤだという人が結構いる。

幸いなことに、身障者用トイレも増えてきた。
基本的には洋式で、手すりなども付いていて、清潔感がある。
しかし必ずしも「おしり洗浄式」ではない。
あるドラッグストアのチェーン店の店舗の身障者共用トイレは、手すり(画面右上)はあったが、「おしり洗浄式」ではなかった。
Img_01932

また、歴史のある(すなわち古い)某大型商業施設の身障者用トイレでは、いささか困惑した。
トイレ自体はリニューアルされたもので、大変立派な洋式の「おしり洗浄式」のものであった。
Img_00882
すこぶる快適な使用感である。

何に困惑したか?

操作盤の位置が遠いのである。
右手がまっすぐ伸ばせれば、力そのものはたいして必要はない。
しかし私の右手では、この写真の位置まで持ち上げるのが困難なのだ。
結局、中腰になって左手を使ったのだが、バリアフリーのつもりでも、健常者にはまさかと思うようなバリアがあるのである。

さすがに、いま通院している病院のトイレはそんなことはない。
手すりもついて、操作盤も届く位置にある。
Img_01912

トイレのついでに。
人間にとって直立二足歩行ができるようになったことが、発達の大きな契機であるといわれる。
車いすから自立歩行に移ったときは、やはり世界が違って見えた。
そして、男子用トイレでいわゆる立小便ができるようになったとき、「よくぞ男に生まれける」という「男子の本懐」ともいえる喜びを覚えたことを記憶している。

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2012年2月11日 (土)

建国記念の日と神武天皇の遺伝子/やまとの謎(55)

今日は「建国記念の日」である。
既に下り坂にさしかかっていた気配のあったわが国は、「3・11」によって、いよいよ未曾有ともいうべき国難に直面しているようだ。
そういう時期に、あらためて国の存立に思いを致す日があってもいいだろう。
私は、「建国記念の日」を設けること自体は賛成である。
⇒2011年2月11日 (金):建国記念の日とどう向き合うか?/やまとの謎(27)

「3・11」により、「絆」ということが強調され、去年の「今年の漢字」にもこの字が選ばれた。
⇒2011年12月12日 (月):今年の漢字は、「絆」
2月11日と定めた根拠は、記紀が記す神武天皇の事績である。
今年は、『古事記』が、太朝臣安萬侶によって献上されたといわれるときから、1300年という節目の年であるし、大震災後はじめての「建国記念の日」であるから、格別の位置を占めている。

『日本書紀』によれば、初代神武天皇は「辛酉年の春正月の庚辰の朔」に橿原宮で即位した。
西暦に直すと紀元前660年の2月11日に当たるとして「紀元節」が定められた。
敗戦後、紀元節はGHQにより廃止されたが、昭和42(1967)年から「建国記念の日」として祝日化された。

紀元節が廃止されたには、いわゆる皇国史観と密接に結びついてついていたからである。
即位を前にしての神武天皇の令に、「六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)にせむこと、亦可(またよ)からずや」(国を一つにして都を開き、天地四方の人々が一緒に住む家のようにしよう。それはすばらしいことだ)という言葉がある。
ここから「八紘一宇」という大東亜共栄圏のスローガンが生まれた。

大東亜戦争(太平洋戦争)の評価も分裂している。
私は、アジア諸国への侵略という側面から目を逸らすべきではない、と考える。
「八紘一宇」という四文字言葉が、日本の植民地主義の代名詞として機能したということである。
しかし、それは反日的な自虐史観であると非難とする考えがある。たとえば、今日の産経新聞の主張(社説)欄は、次のように言う。

『古事記』や『日本書紀』などには、国生みの神話などに続いて神武天皇即位の記述がある。現在の「建国記念の日」につながるものだが、残念ながら戦後、神話も建国のいわれも皇国史観や軍国主義に結びつけられ排除された。
代わって反日的な自虐史観が勢いを増し、健全な愛国心が希薄になった面もある。自国の歴史を否定する国家にどうして民族の誇りや自信が育ち得ようか。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120211/trd12021103020001-n1.htm

私は、戦後精神が盛んだった時期に学校教育を受けたから、その影響はあるだろう。
しかし、教育現場で、あからさまに活動家の姿を見せた教師は皆無だったように思う。
そして、愛国心は自然な感情として持ち合わせていると思うし、日の丸の国旗はすばらしいデザインだと思う。
自虐史観というよりも自省史観というべきではなかろうか、と思っている。
自分たちの国の歴史を客観的に省みたいし、反省すべきは反省したい。

「絆」の根拠として、「八紘一宇」という言葉を再評価しようと考える人もいる。
たとえば、産経新聞の【土・日曜日に書く】というコラムで、論説委員・皿木喜久氏は、『日本人の絆は「神武」以来』という文章を書いている。

あの大震災以来、家族や地域、そして国民の間の「絆」の大切さが言われている。昨年の「今年の漢字」ともなった。その一方、例えば津波による膨大なガレキの受け入れ、処分を頑強に拒否する地域があるなど、「絆」のほころびも目立つ。
だが日本では「神武」の時代からそうした「絆」を国づくりの理念としてきた。そのことに気づいた明治維新期の人たちは、受け継ぐため「紀元節」を設けた。
大震災による未曽有の危機を乗り越えるため、現代の政府も国民も、もう一度そのことに気づきたい。そして虚心坦懐に今日の「建国記念の日」を祝いたいものだ。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120211/art12021103050001-n1.htm

ガレキの受け入れについては、静岡県の市町でも対応が揺れている。
総論賛成各論反対という地域エゴも感じられるが、根本に、「政府の言うことに対する不信感」があるように思う。
放射能のように、「目に見えず」「直ちには健康に影響がない」といわれる害悪にナーバスになる住民感情も分からないではない。
私自身は、一定の基準値以下のガレキ受け入れには賛成であるが。

女性宮家創設の問題等、皇室をめぐる課題は多い。
折しも、天皇陛下は心臓の検査を受けられるため、東京大学附属病院に入られたとのことである。
去年も2月11日に検査入院しているから、ちょうど1年ぶりである。
検査の結果はいずれ公表されるであろうが、現時点では不明である。しかし、急速に大事に至るようなことはないと思われる。
それはそれとして、皇室典範の論議においては、皇位継承の問題も避けては通れないであろう。

皇位は世襲によると定められている。
世襲以外に妥当な方法があるとは思えないが、世襲というのも「論理」に馴染みがたい。
そこで、神武天皇のY染色体を継承しているから天皇は男性でなければならない、という「Yの論理」が喧伝されることになる。
代表は、雑誌「正論」11年04月号に寄稿している八木秀次、新田均氏らである。
⇒2011年1月10日 (月):皇統論における「Yの論理」への疑問

しかし、神武天皇のY染色体とは何だろうか?
Y染色体は、父親から息子に継承されるといわれる。
息子の数は、今の時代では、0か1であり、2は稀、3以上は例外的である。
0があればそこで途絶する。したがって、直系にこだわれば、途絶するのは時間の問題であろう。

そこで、女性宮家の創設ということに繋がるのであろうが、皇室典範の改正論議では、皇位継承の問題は、当面封印されるらしい。
かつては、正妻以外の女性も正式に存在を認められていたから、複数人の息子を認知できた。
仮に、息子2人として計算すれば、特定の男性のY染色体を共有する男の数は以下のようになる。
1代:2人
2代:4人
3代:8人
n代:2のn乗

今上天皇は、125代だから2の125乗。
いくつになるか?
42,5352,9586,5117,3079,3292,1825,9289,7102,6432
である。
http://www.ffortune.net/kazu/kazu/bin.htm

日本人の人口を1億3,000万人(130,000,000人)とすれば、その数の余りの大きさが実感できるだろう。
言い換えれば、現代の我々の中にも神武天皇と同じ遺伝子を持つ人間が数多くいるのである。
また、神武天皇自身、同じY染色体を持つ同世代人は無数にいたであろう。
要は、価値を見いだすための差別化のファクターに、血統は意味がないということではなかろうか。
だとしたら、世襲を正当化する論理をどう考えるのか?

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2012年2月10日 (金)

地震の発生確率の伝え方②/東大地震研平田教授の意見

地震の発生確率とは何だろうか?
その含意を理解するのは難しい。
⇒2012年2月 6日 (月):地震の発生確率の伝え方
⇒2011年5月12日 (木):地震の発生確率の意味/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(26)

「週刊文春120216号」に、『東大地震研 平田教授の「正体」』というセンセーショナルな記事が載っている。
平田教授とは、「首都直下型 4年以内70% 地震活発 切迫度増す」という読売新聞記事で有名になった“渦中の人”である。
その平田教授が、週刊文春の取材に次のように応答したというところから記事は始まる。

「だからね、その数字に意味はないって何度も言っているでしょ。五年~七年というのも僕のヤマ勘ですよ、ヤマ勘!」

どういうことか?
世間をあれだけ賑わせておいて、「意味はない」とか「ヤマ勘」とは??
上記の「五年~七年」というのは、「最近のデータを加味すると、5~7年以内に70%の確率でM7が起こる」という「日刊ゲンダイ」紙のインタビュー記事のことである。

京大防災研の遠田晋次准教授の28%という再計算結果についてはすでに触れた。
⇒2012年2月 6日 (月):地震の発生確率の伝え方
この違いは、遠田准教授によれば、算出の基になるデータの期間の差異だという。
時間の経過と共に誘発地震は減っていくが、平田教授らは、3月11日~9月10日までのものだという。

私は、誘発地震が減っていくことを考慮に入れ、計算しているものだと思っていた。
読売新聞記事に関しては次のような注釈(クレーム?)が、地震研の広報アウトリーチ室のサイトに載っている。
主として「表現上の問題」についての指摘のようである。

  • 「同研究所の平田直教授らは(中略)マグニチュードが1上がるごとに、地震の発生頻度が10分の1になるという地震学の経験則を活用し、今後起こりうるM7の発生確率を計算した」という説明は正確ではない.正確には「地震調査委員会の『余震の確率評価手法』を東北地震による首都圏の誘発地震活動に適用し、今後誘発されて起こりうるM7の発生確率を計算した」. 
  • 前記の正確でない表現により,結果的に島崎邦彦・予知連会長による「試算の数値は、今の時点での『最大瞬間風速』」というコメントも適切な表現になっていない. 
  • 試算の対象である東北地震の誘発地震活動と,いわゆる首都直下地震を含む定常的な地震活動との関連性はよくわかっていないので,後半の平田教授のコメントのように両者を単純に比較することは適切でない.
  • 試算結果の数値に大きな誤差やばらつきが含まれている点について記述がない.

「「試算の数値は、今の時点での『最大瞬間風速』」というコメントも適切な表現になっていない」とある。
まあ、地震の発生確率と風速という速度とでは、そもそも次元(ディメンション)が違うが、その時点での最大値のことだろう。
と思っていたところ、今日発売の月刊誌の方の「文藝春秋3月号」には、平田直『首都圏大地震なぜ「4年以内に70%」』という文章が掲載されている。
その中に、以下のような文章がある。

「今後四年以内に七〇%」という地震発生の確率は、東北地方太平洋沖地震直後に急増した南関東の地震データを反映した、いわば“最大瞬間風速”の試算です。

???
地震研のサイトには、文責:大木聖子とあり、「文藝春秋」の記事は、構成:河崎貴一とある。
文章の責任が誰にあるかはともかく、私は、“最大瞬間風速”という表現(たとえ)が適切なのか否か、これでは理解できない。

平田教授は、続けて次のように書いている。

今後、東日本大震災の影響による南関東の地震が次第に収束していくなら、その確率は「今後三十年以内に七〇%程度」に限りなく近づいていくでしょう。

私(たち)が聞きたいのは、まさに今後「地震が次第に収束していく」かどうかということであるのだが……。
少し後では、次のように書いている。

しかし、「四年以内に七〇%」でも、「三十年以内に七〇%」でも、明日M七程度の地震が起こる確率が非常に高いことには何ら変わりがありません。

メディアを含め多くの国民は、「四年以内に七〇%」と「三十年以内に七〇%」では、切迫感がかなり「違う」と思ったから大騒ぎになったのではないか。
それを、「何ら変わりがありません」と言われても……、である。

なお、地震研のサイトでは、表現上の問題とは別に、以下のような説明もある。
確率計算自体の性質に対するコメントであろう。

  • 以下の酒井准教授ほかによる試算は,2011年9月の地震研究所談話会で発表されたもので,その際にも報道には取り上げられました.それ以降,新しい現象が起きたり,新しい計算を行ったわけではありません.
  • 上記の発表以外に専門家のレビューを受けていません.また,示された数字は非常に大きな誤差を含んでいることに留意してください.
  • 試算が示した東北地方太平洋沖地震の誘発地震活動と,首都直下地震を含む定常的な地震活動との関連性はよくわかっていません.
  • 当初から明言している通り,このサイトは個々の研究者の研究成果・解析結果を掲載したものです.このサイトに掲載されたからといって,地震研究所の見解となるわけではまったくありません.

全体的な印象は、「参考までに計算してみた数値」であって、「責任は持ち(て)ません」ということらしい。

週刊文春の上掲記事によれば、日本の地震研究の元締めは地震研であるが、地震研は阪神淡路大震災以後、予知よりも基礎研究に重点を置いてきた、という。
基礎研究と予知研究の関係がよく分からないが(普通、基礎研究が進めば、予知の精度も上がってくるのでは?)、東海地震が懸念されている静岡大学にすら、予知研究の予算が付いていないのだという。
原子力ムラと同様に、地震ムラも相当に閉鎖社会のようだ。

また、「4年で70%」という表現は、「防災意識を高める」ことに貢献した、という意見もあるようである。
しかし、「オオカミ少年」ということもあるのではないか。
不正確な危機情報が流通すると、かえってマイナスになると思うのだが。

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2012年2月 9日 (木)

『雪国』と『新・雪国』/「同じ」と「違う」(41)

豪雪による被害の報道が続いている。
『雪国』は次のフレーズで始まる。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

国境の長いトンネルというのは清水トンネル。列車が停車する信号所は、現在駅に昇格していて土樽駅となっている。
上越新幹線が開通したのを機に、駅舎も一新した。
『雪国』の頃の様子を窺うべくもないが、構内に日本酒ミュージアムがあって、利き酒コーナーがある。
つかの間の旅情を味わったことがあるが、もうそんなこともあり得ないのか?

さて、『新・雪国』は次のように展開していく。

Photo_5主人公の芝野は、50歳にして経営していた会社を倒産させてしまい、妻子とも別れてあてのない逃避の旅に出かける。
旅先は国境の彼方と定めてみても、何も急ぐ必要はなかった。
ふと学生の頃読んだ『雪国』を思い浮かべ、新幹線を高崎で降り在来線に乗り換える。越後湯沢で下車すると、たまたま入った駅前の蕎麦屋で一人の女客と出会い、川端康成が常宿にしていたという旅館を教えてもらって、そこに逗留することになる。
女は、湯沢で「最後の駒子」といわれている芸者・萌子である。もうすぐ25歳、
芝野とは父娘ほど歳の差があるが、ご多分にもれず重い過去を背負っている。
芝野と萌子の年齢差をバランスさせるのは過去の重さなのか、それとも単なる男女の相性なのか。
萌子の言葉を借りれば、「私たち、ひょっとすると似てるかもしれない」。そして「時間じゃないわ、男と女は」というように急速に親しくなって……。
(写真は、『雪国』の宿・高半のサイト)

それでは、話がうますぎると思うかも知れないが、まあ大人のメルヘンと思って読めばいいだろう。
現実には起こるはずのないような偶然も、すばる文学賞、サントリーミステリー大賞、直木賞等の受賞歴を持つ作家ならではの話の運びの巧みさの中で、不自然さは感じられない。
相当にきわどい描写もあるが、『雪国』と同様に読後感はむしろ清冽である。
何よりも、川端に比べればはるかに文脈を辿りやすい文章だから、素直にストーリーを追うことができる。
芝野は、萌子と充足の一時を過ごしたあと、温泉に身を浸して目を閉じて思いに耽る。

人はいずれ死ぬ。例外なくいつかは死んでいくとすれば、一生の長短はその中身とくらべればあまり意味がない。大事なのは中身と、そして終わるときだ。それが最もむずかしい。死ぬと決めても、いかにして、という問題がある。それを解決できさえすれば、いつでもよろこんで死んでいける、と芝野は思った。みずから死を選ぶこと自体についてはさしたる抵抗はない。ちゃんと始末をつけることができるなら、それに越したことはないと思うけれど、遅かれ早かれいずれ滅びる命を潮どきとみさだめて、実行にうつすことができる人間はそうざらにはいない。狂気の果てに命を断つ者はいくらでもいるが、終わるべきときを自覚して、この世に別れを告げることができる者はやはり少数にかぎられるだろう。その一人になれるのかどうか、みずからに問いかけて答えを保留する。

タイトルが気になって立ち寄った書店で何気なく購入したものだが、当時、人の生死に関してナーバスになっていたこともあり、たとえば上の一節などが胸に浸みて感じられた。
当時、私自身が八方塞がりともいうべき状況であった。
「ゲートキーパー」などという言葉も知らなかったし、たとえ知っていても、他人に相談して解決できるものとも思えなかった。

あの当代きっての知性の持ち主と畏敬していた江藤淳が自ら命を絶ったことも大きな衝撃であった。
もちろん、その時点では、自分もまた江藤と同じように脳梗塞に罹患して、「心身の不自由が進み」といった状況に陥るとは、全くの「想定外」ではあったが。
⇒2010年9月 6日 (月):江藤淳の『遺書』再読
江藤の死が1999年7月21日、『新・雪国』の発行日が8月15日になっている。
正確な購入の日時は分からないが、江藤の死からさほど時を置かない時点であったことは間違いない。

上記のようなストーリーの『新・雪国』が、「その上で独自の趣向をこらしている」という本歌取りの条件を満たしていることについては、まったく問題とする余地はない。
『雪国』とは、「雪国」という舞台設定が「同じ」であるだけで、テーマも表現もまったく「違う」。
笹倉明氏自身愛着のある作品のはずで、自分の手で映画化までしているくらいである。

まあ、私が言ってもあまり説得力がないだろうから、文庫版(廣済堂文庫、0112)の田辺聖子さんによる解説を引用しよう。

この作品は、『新・雪国』というタイトルになっているが、川端康成の『雪国』とは全く別種の作品である。文学的完成度がたかく、現代の小説として緊迫性に富む。
私は快い昂ぶりのうちに、本書を読み終え、清冽な感動を与えられた。現代小説で読後感があたたかくも、さわやか、というふうなのは珍しい。それこそ、オトナの小説であろう。

読み巧者でもあるお聖さんの解説は的確である。

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2012年2月 8日 (水)

「あなたもGKB47宣言!」のから騒ぎ

6日の参院予算委員会で、内閣府が3月の自殺対策強化月間のキャッチフレーズに決めた「あなたもGKB47宣言!」が不謹慎と批判されている問題が取り上げられた。
GKBは、「ゲートキーパーベーシック」の頭文字をつなげたもの。
自殺対策では、悩んでいる人に気づいて声をかけ、必要な支援につなげる存在を「ゲートキーパー」と呼んでいる(らしい)。

内閣府政策統括官(共生社会政策担当)のサイトには、「ゲートキーパーとは、悩んでいる人に気づき、声をかけ、話を聞いて、必要な支援につなげ、見守る人のことです。」として、「あなたも“ゲートキーパー”になりませんか。」という呼びかけの文章がある。
具体的にはどういうことだろう?

悩んでいる人を見かけたら、まず、「何かお悩みですか?」と声をかける。
同サイトにあるプロ-モーションビデオを見る限り、そんな感じである。
そして、「私は、ゲートキーパーです」と言うのかどうか。

たとえば、江藤淳は、「脳梗塞に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず」として、自ら命を絶った。
⇒2010年9月 6日 (月):江藤淳の『遺書』再読
江藤淳に誰が、どういう声をかけるのだろうか?

あるいは、『新・雪国』の主人公は、経営していた会社を倒産させてしまったが、彼に対して声かけして、果たしてどれほどの効果があるだろうか?
中小企業の経営者の「悩み」の大部分が、資金繰りである。
おそらく、ひところ流行った言葉を借りれば、「同情するなら金をくれ」という答えが返ってくるに違いない。
ホリエモンのように、「金で買えないものはない」とは断じて思わないが、中年過ぎの男の悩みのほとんどが「金」の問題ではなかろうか。

経営者のみならず、一家や組織の大黒柱と呼ばれる存在になれば、「はたを楽にさせたい」と考えて働く人は多いと思う。
しかし、なかなか思うように行かないから「悩んで」いるのである。
大のオトナが真剣に考え抜いても答えが見いだせない。

自殺まで思い詰めている人に対するアプローチは難しい。
素人が安易に声をかけるのは危険でさえあるだろう。
内閣府の役人は、人間心理というものが分かっていないのではないか。

おそらく、ゲートキーパーにベーシックを付けることにより「GKB」という略号を着想したとき、担当者は、「これだ!」と内心で自分を褒めるような気分だったのではないか。
さらに、都道府県数の47をつけて、「GKB47」はどうだろうかと考えれば、「あなたもGKB47宣言!」のキャッチフレーズまでは一瀉千里である。
私は、このキャッチフーズを、まじめに自殺を防ごうとしている人の発想とは思えない。
一種の地口を思いついたということに過ぎないのではないか。
⇒2012年2月 4日 (土):三島宿地口行灯展

もちろん、地口的手法のキャッチフレーズは少なくない。
効果を上げるか否かは、テーマと採用した元のフレーズが適合的であるかによる。
意外性があって、適合しているというのはかなり難しい技である。
「AKB48」と自殺予防とは適合的であるとは言いがたい。

しかし、人の受け止め方はさまざまである。

自殺対策を所管する岡田克也副総理は「ポスターも張られ、動き出している。さまざまな意見があっても直ちに撤回しない」と頑として撤回を拒否。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120206/plc12020623420014-n1.htm

「原理主義者と呼ばれています」と得意げに自分を語っていたが、むしろ「頑迷」と言うべきではないか。
原理原則は私も重視したいが、改めるべきところは柔軟に対応すべきだろう。
後でシブシブという感じで、「皆さんがそう思うなら・・・」と撤回したが。

もっとも、この人の言語感覚、キャッチフレーズに対するセンスはもともと問題がある。
郵政民営化が争点だった2005年の総選挙で、民主党代表であった岡田氏は、それまでの民主党キャッチフレーズ「もっと大事なことがある」を「日本をあきらめない」に変えた。
政権を奪取すべき選挙で、いかにも日本が絶望的なような印象を与え、結果として民主党を惨敗に導いた。

結果的に、「あなたもGKB47宣言!」は撤回され、代わりに新フレーズとして、「あなたもゲートキーパー宣言!」ということになった。
「ゲートキーパー」という言葉は、それほど普遍的か? あるいは普及させるべきか?
Wikipediaでは次のように解説されている。

ゲートキーパー(Gatekeeper)とは門番のことである。転じて交通通信監視 / 管理する人及び装置のことを指す。また転じて、駐屯地等や企業工場などで来客向けに門から入って直ぐのところに展示されている品々のこともこう呼ぶ。
その他の固有名詞としての使われ方は、以下の通り。
 

まあ、門番という意味なら、私も理解できる。
その他の意味も、基本的には門番から転じたものといえよう。
内閣府の担当者は「全員参加というテーマにあわせ、広く国民に親身に訴えることができるということで決まった」と説明しているが、別に、税金を使ってまでも啓蒙すべき言葉とも思えない。
今回の騒動の結果について、関係者はどこまで理解しているのか。

自殺対策を担当する内閣府などには、「批判もあったが、マスコミに多く取り上げられ、ゲートキーパーという言葉の啓発などに結果的に役立った側面もある」といった声もある。
http://www.j-cast.com/2012/02/07121424.html?p=all

どうやら、根は深いようだ。
もっとも、次のような意見もあることも事実である。

今回のポスターも、多くの国民に自殺念慮者が身近にいることを、普段から意識してもらい、国民全体で自殺念慮者の発するサインに気づき自殺を食い止めたいという思いを込めているのだと思います。
GKB47のポスターを見ましたか

「自殺を食い止めたいという思い」は共有するが、こんなキャンペーンしかやることはないのか?
自殺者数は、14年連続3万人を超えている。
何でも政府の責任ということではないが、政府の自殺対策が効果を上げていないことを示しているだろう。
こんなキャンペーンをして対策を講じている気になっているとしたら、いつまで経っても自殺者数は減らない。
そして、自殺者数が多い国が、いい国だとは思えない。

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2012年2月 7日 (火)

『新・雪国』と本歌取りの技法/知的生産の方法(16)

私などのように、非雪国の人間が雪をロマンチックだと思うのは、それが珍しいものであるからに違いない。
雪が降ると、見慣れた景色が一変する。
だから発想の転換には好適だ、という説を聞いたことがある。
馴質異化の一種だろうか?
⇒2011年1月18日 (火):馴質異化-地図の上下/知的生産の方法(7)
⇒2011年1月30日 (日):馴質異化と異質馴化/「同じ」と「違う」(27)

その雪景色が日常的なのが「雪国」である。
非日常的なときにはロマンチックに思えていたことも、日常生活になるとそうも言っていられない、というのは恋愛と結婚の関係に似ている?

「雪国」といえば、何といっても川端康成の『雪国』であろう。
ノーベル賞作家の代表作として国民必読の書となっている。
『雪国』の中でも、島村が夕暮れの汽車の中で、窓を鏡として写る葉子の姿と外を流れる景色とがオーバーラップするのを眺める場面の描写は有名である。

鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顛えたほどだった。
遥かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。無論それは娘の顔をそのなかに浮べていたからである。窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。

笹倉明の『新・雪国』廣済堂出版(9908)は、タイトルが表しているように、『雪国』を下敷きにして、意識的にイメージを重ねて読まれることを意図した作品である。
あたかも引用した箇所のように、読者は、『雪国』と『新・雪国』とを二重写しにして読むことを想定されているわけである。

これは、「本歌取」の方法ではないだろうか。
本歌取りについては次のように説明されている。

和歌連歌などの技巧の一つ。
すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧。

新古今集の時代に最も隆盛した。
転じて、現代でも絵画や音楽などの芸術作品で、オリジナル作品へのリスペクトから、意識的にそのモチーフを取り入れたものをこう呼ぶ。
オリジナルの存在と、それに対する敬意をあきらかにし、その上で独自の趣向をこらしている点が、単なるコピー(パクリ)とは異なる。

『雪国』は人口に膾炙している。「オリジナルの存在と、それに対する敬意をあきらかに」する上では申し分がない。
問題は、「その上で独自の趣向をこらしている」かであるが、それに立ち入る前に、本歌取りについてもう少し見てみよう。

本歌取りについて深く考察したのは、新古今集の代表的歌人・藤原定家であるといわれる。
定家は、本歌取りの原則を以下のようにまとめている。
Wikipedia

  • 本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には2句未満とする。
  • 本歌と句の置き所を変えて用いる場合には2句+3・4字までとする。
  • 著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初2句を本歌をそのまま用いるのは許容される。
  • 本歌とは主題を合致させない。
  • 本歌として採用するのは、三代集・『伊勢物語』・『三十六人家集』から採るものとし、(定家から見て)近代詩は採用しない。

定家自身も、本歌取りを行っている。
たとえば次のようである。
京都せんべい おかき専門店小倉山荘のサイト「本歌取りのマナー」を参照した。

駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪のゆふぐれ
(新古今集 冬 藤原定家朝臣)

本歌は『万葉集』にある。

苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野の渡りに家もあらなくに
(万葉集 巻三 長忌寸奧麻呂)

定家の歌は「佐野の渡り」という一句だけを借用。
雨を雪に替え、馬の旅だとしながらも旅の途中の困難を描いているのは同じ。
場所も同じである。
しかし、喚起する情景はかなり違う。

読者は、定家の歌から奧麻呂の一首を思い出し、その素晴らしさを再発見することになる。
要するに、本歌との二重性(=本歌との「同じ」と「違う」)の微妙なさじ加減ということになる。
その微妙なさじ加減を明示化すると、定家の示した原則のようになるということだと思う。

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2012年2月 6日 (月)

地震の発生確率の伝え方

首都圏における直下型地震の発生確率をめぐって、さまざまな情報が飛び交っている。
発端は、読売新聞が、東大地震研の研究チームがM7クラスの地震が発生する確率を試算したと報じたものらしい。

マグニチュード(M)7級の首都直下地震が今後4年以内に約70%の確率で発生するという試算を、東京大学地震研究所の研究チームがまとめた。
東日本大震災によって首都圏で地震活動が活発になっている状況を踏まえて算出した。首都直下を含む南関東の地震の発生確率を「30年以内に70%程度」としている政府の地震調査研究推進本部の評価に比べ、切迫性の高い予測だ。
昨年3月11日の東日本大震災をきっかけに、首都圏では地震活動が活発化。気象庁の観測によると12月までにM3~6の地震が平均で1日当たり1・48回発生しており、震災前の約5倍に上っている。
同研究所の平田直教授らは、この地震活動に着目。マグニチュードが1上がるごとに、地震の発生頻度が10分の1になるという地震学の経験則を活用し、今後起こりうるM7の発生確率を計算した。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120122-OYT1T00800.htm

たしかに、70%の確率でも、「30年以内」と「4年以内」では受ける印象は全然違う。
たとえば、現在67歳の私が30年後に生存しているとは思わないが、4年後ならば多分まだ生きているだろう。
読売新聞は、そのギャップをうまく衝いた。
各メディアは、この話題を追いかけた。
センセーショナルなほど訴える力は強い。
首都圏は壊滅的な状況になる、避難者は100万単位・・・

かといって、個人はどうすればいい?
まあ、自分は何とかなるだろう。何とかならなければ、その時はしょうがない・・・
そんな風に思っている人が多いのではないだろうか?

ところが、「夕刊フジ」(7日-6日発行)に、東大地震研が「4年以内に50%に下方修正」という記事が載っていた。

東大地震研の平田氏らのチームが再計算したところ、4年以内で50%以下、30年以内では83%以下になったという。
そもそも70%の根拠は、昨年3月11日から9月10日に首都圏で約350回発生したM3以上の地震を元にしたためで、これを12月31日までに期間を広げて再計算したところ、M3以上の地震が減っていることから、修正値になったとしている。
これに先立ち、京都大学防災研究所の遠田晋次准教授らが今年1月21日までに起きた地震を踏まえて計算した結果では、5年以内に28%、30年以内に64%とより低い値を出していた。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120206/dms1202061542008-n1.htm

計算の根拠は、「グーテンベルク・リヒターの関係式」といわれる式である。
以下のように解説されている。

あるマグニチュード の地震数()は、
Ws000000_3
の関係に従う。積算地震数()についても同様である。この式は、提唱者の名前を取って「グーテンベルク・リヒターの式」と呼ばれる。以下ではGR式と略記することにしよう。この関係はどのマグニチュードを用いても成り立つので、地震の規模を単にと表記した。
GR式の係数は、ほとんどの場合1前後の値となる。従って、が1だけ小さくなると地震の数はおよそ10倍になる。ただし、詳しく調べると値に地域性が見られる。一般に、地下構造が複雑で不均質な場所では値が大きい。

http://www.k-net.bosai.go.jp/k-net/gk/publication/1/I-3.2.4.html

菅首相(当時)が、浜岡原発の停止要請をした際にも、「これから30年以内にマグニチュード8以上の東海地震が発生する可能性は87%」といかにも2桁の精度がある根拠のように取り扱った。
⇒2011年5月12日 (木):地震の発生確率の意味/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(26)
しかし、地震の発生確率の予測はそんなに精度が高いものだろうか?
東北地方太平洋沖地震も「想定外」という以上、予測の限界は常に意識すべきだろう。
GR式自体、おおよその傾向はこの式に従うといことであり、予測の1つの参考データに過ぎない。

GR式によれば、数は極端に少ないがどんな大きな地震でも起きてよいことになる。しかし、これは明らかに現実と合わない。日本付近では、が8より大きくなると、実際の地震数は、きれいな直線関係から徐々に下側にはずれてくる。このはずれ始めるは地域によって異なり、地震の上限規模には地域差があることを示している。
http://www.k-net.bosai.go.jp/k-net/gk/publication/1/I-3.2.4.html

まあ、危険サイドで考えて備えをしておくに越したことはないが、パニック的に大騒ぎしても、かえって危ういのではないか。
東大地震研といえば斯界の最高権威である。
その発表の伝え方は的確にすべきだ。

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2012年2月 5日 (日)

東京電力の補償をめぐって/花づな列島復興のためのメモ(25)

フクシマ原発事故に関し、東京電力の行うべき補償が円滑に進んでいないようだ。
1月31日付けのニュースである。

東京電力福島第一原発事故の賠償問題を巡り、政府の原子力損害賠償紛争解決センターの活動が正念場を迎えている。
業務開始から約5か月たつが、30日までに和解にこぎ着けたのは申し立てのあった747件のうちまだ3件。センターは今後、争点になりやすいポイントごとに賠償基準を順次公表する方針で、「基準がはっきりしてくれば、当事者間の直接交渉も進むはず」としている。
・・・・・・
申し立てられたケースでは、避難生活による精神的損害に対する賠償金の増額を求めるものや、東電が「国の避難区域の見直しが行われないと対応不能」としている避難区域内の不動産に対する賠償を求めるものが多いという。
紛争解決が進まない最大の理由について、センターの弁護士の一人は、「本人が直接申し立てるケースが予想外に多かった」と話す。弁護士などが付かない申し立ては全体の約8割。領収書類が整理されないまま提出されたり、損害を証明する書類がほとんどなかったりで、弁護士などが務める調査官が詳しく主張を聞き直さなければならないケースが多い。このため、解決に要する期間として想定していた3か月を大幅に上回るケースが出ている。
また、東電が、4月1日がめどとされる国の避難区域の見直しなどを見据えて和解案などへの回答を保留したり、同審査会が示した中間指針が触れていない項目については賠償に消極的な姿勢が目立つことも一因とされ、センター内には「東電はもっと主体的に賠償に臨んでもらいたい」という声もある。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120131-00000098-yom-soci

多様な問題が混在していると考えられるが、東電はなるべく補償額を抑えようとし、補償される側が可能な限り増額を望むという基本的な対立の構造がある。
たとえば福島県大熊町から都内に避難している住民が、住宅の補償を求めてセンターに仲介を申し立てていた。
東電はこれまで、除染方法が不明で損害の評価が難しいとして、住宅や自動車などの財産被害について賠償を明言していなかった。

この問題で、先月26日、東電が住宅などの賠償に応じると回答したが、東電は和解案の損害額以上の債務がないと住民側が認めることを条件としている。
しかし、慰謝料については、和解案が原子力損害賠償紛争審査会の中間指針に基づき策定した補償基準から50万円の増額を提示したのに対し、東電は拒否した。
住民側は、、「肝心なところをごまかされている。加害者としての意識がない印象だ」と批判している。

上記で見る限り、東電が、「和解案の損害額以上の債務がないこと」「和解案に盛られた慰謝料の増額を拒否」を条件としていることが住民サイドの不満の要因のようだ。
この点はどう考えられるか。
 

「和解案の損害額以上の債務がないこと」については、今までに例のない事案であることを考えれば、現時点ですべてを想定することを前提としている東電の考えはオカシイと言わざるを得ないだろう。
東電自体が、想定外の津波が原因であると言っているにもかかわらず、である。
もちろん、東電側としては、補償額を確定できないことには、今後の計画が立てられないという事情があろう。
しかし、避難を余儀なくされている人から見れば、時間の経過と共生活再建が難しくなる。
東電の言い分は、こうした事情を見透かしているかのようである。

「慰謝料の増額」についてはどうか。
金額は、補償基準から50万円の増額ということである。
本件だけなら、東電も拒否することはないと思われる金額である。
しかし、背後にどれだけの被害者が控えているか分からないので、拒否したのだと考えられる。

その他、風評被害などについても、合意には紆余曲折が予想される。
原因者は誰なのか?
被害の全体像はどう捉えるべきか?

いろいろな局面が考えられるが、基本的には東電は加害者である。
そして、国策として原発を推進してきた国も同様であろう。
加害者が補償額を決めるというのは、何となく釈然としない。

公共事業の補償も問題が多い。
八ッ場ダムがこれほどこじれた根本も補償のあり方に問題があったことが大きい。
成田空港もしかりである。
原発は限りなく公共事業的である。
石原新党が喧伝されているが、適正な補償が行われないと、石原氏らの強調している「愛国心」など、育ちようがないのではないかと思われる。

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2012年2月 4日 (土)

三島宿地口行灯展

はやいもので、もう立春である。
とはいえ、文字通り「春は名のみの風の寒さよ」であるが。
そう言えば、去年の夏、この歌の歌碑のある安曇野へ行ったことを思い出した。
穂高川のほとりだったが、あの辺りは雪に埋もれているのかな?
⇒2011年8月23日 (火):白馬村の美術館と安曇野の自然

昨日は節分。妻と2人暮らしだと、ましてマンション住まいの身であれば、豆まきというような行事にも縁遠い。
2月の最初の午の日が初午で(本来は旧暦で最初の午の日ということらしいが)、稲荷神社のお祭りである。今年は昨日が初午だった。
この初午の頃、三島では、「三島宿地口行灯」というイベントが行われる。

「地口」というのは、言葉遊びの一種である

地口(じぐち)は、駄洒落の一種と見なすことができる言葉遊びである。発音が似た単語を用いるため、駄洒落よりも創造性に富み、作成するのも比較的容易であり、また、形態も多様化している。語呂合わせと同様に扱われるが、例え ば円周率のπを「産医師異国に向こう」と憶えるような側面はこの地口にはなく、意味する範囲は語呂合わせより狭い。
落語においてもくすぐりとしてしばしば使われる。話の終わりを地口で締めるのを地口落ちという。これは、話の最後の方で登場人物が何か言った言葉にだじゃれを返して終わるものである。どんな話にもつなげられる利便性があるが、反面安易であって取って付けたような終わり方になりやすいため、落ちの種類としては低いものと見なされる。
東京の
稲荷神社では初午縁日に、行灯に地口とそれに合わせた絵を描いた地口行灯を街頭に飾る風習がある。
また、近年では
静岡県三島市でも同時期に商店街(三島大通り商店街静岡県道51号三島停車場線等)に地口行灯が飾られるが、こちらは地口のみならず川柳の書かれた行灯も存在する(詳細は三島宿地口行灯の項を参照されたい)。
Wikipedia

三島では、 「現代創作地口」と称して、俳句や川柳なども加えている。
今年は、2日から7日まで開催されている。
Img_01812
三石神社

Img_01782
三石神社

Img_01842
大通り商店街

地方都市のささやかなイベントであるが、投稿者の名前には、佐賀県などの遠隔地のものもあった。

川柳と合わせて全国から1362点の応募があった。地口部門大賞は三島北高の森野夏歩さんの作品「いらぬもの買わず、大概は使わず」(元句・井の中の蛙 大海を知らず)。
http://www.at-s.com/news/detail/100095585.html

言葉遊びは、奥が深い。
アルゴリズムではまだまだこの境地には届かないだろう。

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2012年2月 3日 (金)

防雪都市化はどこまで進んだか?/花づな列島復興のためのメモ(24)

記録的な豪雪が続いている。
私のように人生の生活圏が、本州中央部の太平洋側から出たことがない人間には、雪は、川端康成『雪国』などの影響で、何となくロマンチックな憧れを抱きがちである。
一面の銀世界!

しかし、実際に雪国に住んでいる人の苦労は筆舌に尽くしがたいものだろうと思う。
時には恐ろしい牙を剥く。
今回の豪雪でも、雪下ろし作業中に何人もの人が亡くなっている。
また、湯治の効能で有名な玉川温泉で痛ましい事故が起きた。

Photo_5
玉川温泉は、他の温泉地や観光地と異なり、療養・静養を目的とした湯治宿です。
1泊2食付きの旅館部と素泊りが基本の自炊部から構成されております。
国立公園地内また強酸性の温泉という特殊な環境にあるため、様々な規制などもございますが、是非一度効能溢れる癒しの温泉をお試し下さい。

http://www.tamagawa-onsen.jp/first/index.html

玉川温泉は、静岡県からも湯治に行くほど人気が高い。
私の知り合いも常連といえるほど行っている。

秋田県仙北市田沢湖玉川にある玉川温泉で1日、宿泊客3人が死亡した雪崩で、約95人態勢で現場を捜索した県警や消防などは2日、他に行方不明者などがいないことを確認した。
3人が宿泊していた旅館「玉川温泉」の工藤肇・常務取締役所長は2日、「硫化水素ガスや感染症の危険性は気をつけてきたが、雪は考えが及んでいなかった」と話した。現場は、旅館から約280メートルの国立公園内で、斜面から離れていることなどから、雪崩の危険性は分からなかったという。
県警捜査1課などは捜索とともに実況見分を実施、遺族や玉川温泉の関係者らから事情聴取した。雪崩発生が予見できたかどうかなどに関し、業務上過失致死容疑も視野に調べる。

http://mainichi.jp/photo/archive/news/2012/02/02/20120203k0000m040087000c.html

上記の記事によると、温泉関係者でも予想していなかったということだ。
つまり「想定外」の出来事であり、今年の豪雪はそれだけ凄まじいということだろう。
玉川温泉の雪崩は、表層雪崩と推定されている。

事故現場の状況から、専門家は固くなった積雪層の上に降り積もった新雪が崩れ落ちる「表層雪崩」が起きた可能性が高いと指摘する。春先などに下を流れる雪解け水の影響で積雪層全体が崩落する「全層雪崩」に比べ、滑り落ちる速度が速いため破壊力が大きく、発生場所の予測も困難なのが特徴だ。
http://www.sakigake.jp/p/editorial/news.jsp?kc=20120203az

Photo
http://www.pref.fukui.jp/doc/sabo/nadarebousai.html

私が某リサーチファームに転職しようとしたとき、仕事の内容をイメージするために見せてもらった資料の1つが、建設省(当時)から発注を受けた「防雪都市の調査研究」プロジェクトの報告書だった。
かれこれ40年近くなる昔のことである。
そのプロジェクトに興味をそそられたことも転職を決心した理由の1つであるが、防雪都市化は計画通り進んだのだろうか。

Googleで「防雪都市」を検索してみたら、413,000件ヒットした。
「&構想」で絞り込むと、12,300件である。
1976年3月1日の「あきた」(広報誌?)に、『防雪都市への道』というタイトルのグラフが載っている。
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http://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/166/166_001.html
家族団欒とコタツとTV。
昭和の匂いが漂ってくるようだ。
この写真から35年経った。
しかし、災害は減るどころか、激化しているような気がする。
寺田寅彦が喝破したように、「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増す」ということだろうか。

もちろん、秋田魁新報の社説の説くように、災害に対する究極の備えは個々人が行わなければならないだろう。

今冬の雪による死者は既に全国で50人を超えた。気象庁は、今後も東北から北陸の日本海側は大雪に警戒が必要だと注意を呼び掛けている。例年になく厳しい気象条件下では、住民一人一人が自ら身を守るという気構えを持って行動しなければ悲惨な雪の事故は防げない。
http://www.sakigake.jp/p/editorial/news.jsp?kc=20120203az

しかし、公として、雪害を防ぐ地域作りにもっとできることがなかったのか。
災害が起きる度に思う。

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2012年2月 2日 (木)

平等院/京都彼方此方(4)

今年のNHKの大河ドラマは『平清盛』である。
去年の11月に京都に行ったときはそんな情報には無関心だったが、京都には清盛ゆかりの場所が少なくない。
⇒2011年11月30日 (水):龍谷ミュージアム/京都彼方此方(3)
ドラマは始まったばかりで権力の階段を上るところまで至っていないが、やがて権力者となって栄華を極める。

しかし、「驕れる者は久しからず」で、平家は滅亡に向かう。
『平家物語』の盛者必衰であるが、その平家衰亡の足掛かりとなったのが以仁王の乱である。

後白河法皇の皇子の以仁王と源頼政が共謀して、王位奪回と打倒平家を企て、全国の源氏に平氏追討の令旨を発する。
源頼政は令旨を、源義朝の弟の新宮十郎行家(源行家)に全国の源氏へ配らせる。
以仁王の令旨が発覚し、平清盛は頼政一族が関わっていると知らず源兼綱に以仁王追補を命令するが、兼綱は以仁王を三条高倉殿から園城寺(滋賀県大津市にある天台宗寺門派の総本山)へ逃す。
頼政は嫡子の仲綱以下一族の軍勢を率いて以仁王と合流、反平氏の旗色を明らかにするが、平等院(京都府宇治市)の近くで平知盛や重衡率いる平氏の大軍に追いつかれ、宇治川を挟んで合戦となった。
優勢を誇る平氏軍は川に飛び込んで渡り攻め込んだ為、数の少ない頼政軍は次々と討ち死にした。
源兼綱、源仲綱、源仲家、源仲光ら討死。
頼政も傷を負い平等院の内に入り自害。
以仁王は奈良へ落ちる途中、藤原景家の軍勢に討たれた。
http://park17.wakwak.com/~anw/tns/yoshitsune/win/5.html

上記のように、宇治川の合戦で破れた源頼政が自害したのが、有名な宇治の平等院である。
去年京都に行った仲間は、中学校の修学旅行で訪れているようである。京都といえば修学旅行の定番であるが、私は小・中・高いずれも修学旅行で京都に行っていない。
京都市内からは少し離れている。どちらかといえば馴染みの薄い場所といえるだろう。
家族旅行で1度と学生時代に1度か2度で、余り鮮明な記憶はない。

昨年、久しぶりに平等院を訪れた。
JR奈良線宇治駅からは、リハビリ中の私でも歩いて行ける。
Photo_3
http://www.byodoin.or.jp/haikan.html#access

百人一首に次の歌がある。

わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり  

作者は喜撰法師であるが、その実像は不明である。
たつみは、東南であり、下図で見るように宇治は平安京の東南に位置している。
Photo
http://www.keihan-uji.jp/history.html

平等院の鳳凰堂は、阿弥陀如来像が安置されている中堂と、左右の翼廊、背面の尾廊からなる。
建物自体が羽根を広げた鳳凰の姿に似ていること、建物の大屋根に鳳凰が飾られていることから鳳凰堂の名前がついた。
平等院を代表する建物であり、レイアウト的にも中心である。
Photo
http://www.byodoin.or.jp/tanbou-byoudouin.htm

側正面中央の扉を開放すると、柱間の格子は本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。
安野光雅さんの「洛中洛外」の平等院は、この構図で描いている(産経新聞111002掲載)。
阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸(あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸)から、向かい岸(彼岸)の阿弥陀如来像を拝するように意図されたものであるといわれる。
Photo_4
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111002/art11100203510000-n1.htm

鳳凰堂が10円硬貨のデザインに用いられているので、日本人には最も見覚えがある建物の1つだろう。
10jpy
Wikipedia

その阿弥陀如来坐像の耳が、別の部材で作られていたことがわかった、と先頃報じられた。

Photo_3平等院(京都府宇治市)は14日、寄せ木造りの本尊・阿弥陀如来坐像(国宝、1053年)の制作過程で、頭部の後ろ半分を切って下にずらし、耳の位置を下げる微調整をしていたことが分かった、と発表した。寄せ木造りでは、鎌倉時代初期に運慶、快慶が芸術性を高める微調整を始めたとされていたが、同坐像の構造解明で、この手法の始まりが約150年さかのぼることになった。
平等院は「顔のバランスが悪かったため、途中で修正したのではないか」と推測する。
・・・・・・
同坐像の頭部から胴体にかけては、前半分、後半分とも2本ずつの角材(一辺約40センチ)で作られている。ところが、前半分は頭部と胴体がつながっているのに、後ろ半分は、頭部を一旦切り離して2センチ下にずらし、再接合していた。これによって前頭部側の耳(耳の前半分)が後頭部側より高くずれたため削り取り、別の部材を後頭部側に合わせて張り付けていた。ずらしたことで後ろ半分がくぼんだ頭頂部も別の部材で埋めていた。
寄せ木造りでの微調整について、浅湫毅(あさぬま・たけし)・京都国立博物館研究員は「造形過程における細やかな変更は、東大寺南大門の仁王像(運慶)など鎌倉時代の仏師による事例がよく知られているが、同様の微調整が定朝の頃に既に行われていたとは興味深い」としている。

http://mainichi.jp/enta/art/news/20111215k0000m040121000c.html

阿弥陀如来座像は、仏師定朝によって平安時代後期、天喜元年(1053)に造られたものとされる。
頬がまるく張った円満な顔の表情は、やさしさにあふれていて、自然である。
できあがっていた仏像の「顔のバランスの修正」とは、現代で言えば美容整形ということになろうか。癒やしを与え続けてきた仏像も、いろいろ苦労はあったんだなあと思うと、何となくユーモラスな感じもする。
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『平等院/週刊古寺を巡る13』小学館(0705)

宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台である。
また冒頭に記したように、宇治川は源平合戦の古戦場として有名である。
治承4年(1180)5月、源頼政は反平家の旗を揚げこの地で戦ったが、平重衛の軍勢に敗れて平等院で自害した(『平家物語―橋合戦』)。
能の『頼政』として有名である。
頼政は、平等院内で自決するが、浄域を血で汚さないために軍扇を敷いたといわれる。
「扇の芝」として、現存する。

「橋合戦」の主要な舞台となった宇治橋は、大化2年(646)に初めて架けられたと伝えられる。
由来を記した石碑-宇治橋断碑は、日本現存最古の石碑のひとつである。

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2012年2月 1日 (水)

議事録なくして、歴史の評価は可能か?

原子力災害対策本部で会議の際に議事録が作成されていなかったことに驚いた。
⇒2012年1月24日 (火):議事録の不作成は故意か過失か?/原発事故の真相(17)
同様に、政府の東日本大震災関連の10組織で議事録が作成されていなかったらしい。
野党も当然責任追及の構えだ。

公明党・山口代表は30日、参議院本会議の代表質問で、政府が設置した東日本大震災関連の10会議の議事録が残っていないことについて、「国民や国際社会に対する背信行為だ」と批判した。 山口代表は「発表できない、都合の悪い事実を隠し通すために記録を残さなかったのですか。首相、広範な議事録作成義務違反は重大な違法行為であり、国民や国際社会に対する深刻な背信行為であると言わざるを得ません。歴史の空白を作ってしまったその責任をどう受け止めますか」とただした。 これに対し、野田首相は「震災直後の緊急事態にあったことや、記録を残すことの認識が不十分であったこと等のために、本部の議事内容の一部または全部が、文書で随時記録されてなかったことは事実であり、誠に遺憾であります」と述べた上で、閣僚懇談会で岡田副総理から「可能な限り迅速な対応がなされるよう、指示が出されている」と答えた。
http://news24.jp/nnn/news89029682.html

野田首相が挙げた「記録を残すことの認識が不十分であったこと」をどう理解したらいいだろうか?
本部長だった菅前首相は、異常なくらい「歴史の評価」を口にした人であった。
退陣偽装までして延命を図ったにもかかわらず退陣せざるを得なくなった際の演説でも、「大震災や原発事故に遭遇したときの内閣総理大臣、このことは歴史の中で消えることはない」と自賛した。
⇒2011年8月27日 (土):菅首相の退陣演説&記者会見の欺瞞と空虚

大震災や原発事故に遭遇したこと事態を手柄のように言う感覚はよく分からないが、震災前から野党に「歴史に対する反逆行為」と野党を批判したことを思い出せば、何となく忖度できなくもない。
しかしそれにしては、「記録を残さない」というのはどういうことだろうか?
それこそ、「歴史に対する反逆行為」ではなかろうか。

衆議院予算委員会は連日、年金改革の白熱した論戦以前の実に情けない罵り合いが続いている。2月1日は、菅直人首相の「歴史に対する反逆行為」という迷言が飛び出した。
野党自民・公明党が社会保障と増税の協議に応じなければ「反逆行為」となじった菅直人首相であった。
・・・・・・
菅直人首相、今は年金改革の何をやりたいのか、それはどうでもよくて、ただひたすら消費税に引き上げをやりたいのか。

http://nenkin.co.jp/lifeplan-blog/news/archives/2011/02/03-132145.php

上記の「2月1日」は現時点ではなく去年のことである。
菅を野田に入れ替えればそっくりそのままではないか。
1年間、消費税の増税分について、民主党としてどれだけ具体的な形で説明してきたか。
振り付け師(財務省)がいるにしても、もっと自分の頭で咀嚼したら、と思う。

歴史の評価はいずれなされるであろう。
しかし、それが的確になされるためには記録(証拠、エビデンス)が必要である。
梅棹忠夫(小長谷有紀編)『梅棹忠夫の「人類の未来」』勉誠出版(1201)の「あとがき」に梅棹忠夫の言葉が引用されている。

なにごともかきとめておかなければ、すべては忘却のかなたにおきさられて、きえてしまう。歴史は、だれか他人がつくるものではなくて、わたしたち自身がつくるものだ。わたしたち自身が、いまやっていることが、すなわち歴史である

菅氏は歴史の評価にこだわるのであれば、リアルタイムの記録を残すべきであった。
議事録が残っていないことに関しては、次のような見方がある。
冷泉彰彦『原発事故対応の「議事録隠し」の動機を推測する

今回の「議事録未作成」というのは、要するに会議の参加者全員が回覧した原案では、「公式議事録」としての合意ができなかったということ、そう理解するのが正しいと思います。
具体的なイメージとしては、例えば2号機の水素爆発の直後に政府の対策会議で「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)によれば、飯舘村の方面への相当な飛散が予想されますから、緊急避難もしくは農地や牧草地に徹底したビニールシートがけを」などという提案がされていたとします。仮にそうだとして、「スピーディなんていうのは存在が周知徹底されているものじゃない。パニックが起きたり予測が間違っていたら文科省は責任が取れるのか?」というような誰かの発言で、この案が潰されたというようなことがあったとします。
・・・・・・
そんな中で「飯舘に緊急で対策を」という案を「潰した」人間が特定できるような(あくまで仮の例ですが)議事録は、10カ月後の現在では非常に政治的な意味を持ってしまうわけです。ですから、「公式」のものとして残すことは合意できなかったのだと思います。

また、山崎元氏は、ダイヤモンド・オンライン誌で、議事録の不作成は、国民の不信の念を募らせることにもなった。野田首相は、事後的にでも議事録を整備すると言っているが、後から作る議事録は、どうせ当たり障りのない無内容なものになるのではないか、とし、以下にように言う。
原発事故対策でまさかの議事録未作成-「行政の可視化」を提唱する

重要な会議では議事録を作る。これは、行政の常識だ。今回、特別に重要と思える会議で記録が残っていないことは、遺憾であるだけでなく、不自然だ。今回の件は、政治家も官僚も「粗末」と言うしかない。大事なのは、議事録の事後作成ではなく、責任問題の明確化の方だ。

身の回りでも、「どうせ政府の言うことはあてにならない」という声が多い。
政治不信の極みであるが、民主党の責任は大きい。
かといって、自民党が良かったという声もまったく聞こえてこないのだが。

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2012年1月31日 (火)

活火山・富士山周辺で起きている地震

富士山周辺が不気味だ。
先日来、富士五湖付近を震源とする地震が頻発している。
⇒2012年1月28日 (土):地震科学と生物の地震予知能力
気象庁の発表では、富士山の火山活動や東海地震との関連性はないということである。

気象庁によると、今回の震源は富士山頂から北東に約30キロ離れており、地殻変動や低周波地震など富士山の火山活動に異常はみられないという。また、東海地震の前兆をとらえる周辺のひずみ計にも異常は観測されていない。28日午前9時までに震度1以上を観測した余震は5回発生した。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120128/dst12012810470008-n1.htm

今回の地震は、意外なことに、伊豆半島に原因があるらしい。
伊豆半島はプレートに乗って北上してきたといわれる。
富士山の成因については諸説あるが、現時点で有力なのが、伊豆半島が本州に衝突した際にできた、とするものである。

☆富士山の形成は…伊豆半島はフィリピン海プレートという海のプレートに載ってフィリピン沖から北上し、本州を載せているアジアプレートに衝突した。この衝突によって出来た火山が箱根や富士であり、伊豆半島の本州への衝突は今も激しく続いている。そのため、この2つのプレートの間には大きなひずみが今も蓄積され続けており、この付近(駿河湾)を震源とする巨大地震の発生も懸念されている。富士山の地下では今もマグマの生成が行われている。
Photo
http://www.kai.ed.jp/yamakai/fujisan%203.html

直近に地震活動については次のように説明されている。

Photo_3日本列島の太平洋側では、海側プレート(岩板)が陸側プレートの下へ沈み込んでいる。しかし、伊豆地方周辺の地殻構造は極めて特殊で、フィリピン海プレートの上に伊豆半島が突き出るように乗っているため簡単には沈み込めず、陸側に衝突。地盤が圧縮されて地震が起きやすい。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120130/dst12013021120014-n1.htm

つまり、富士山を生成した活動と今回の地震の要因は同じ、ということであろう。
私が学校で勉強をした頃は、「富士山は休火山」であった。ついでに言えば、箱根山が活火山、愛鷹山が死火山であった。
ところが、休火山という区分がなくなり、「富士山は活火山」に区分されている。
Wikipedia

宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山としている。

活火山である以上、噴火の可能性はあると考えるべきであろう。
富士山は、優れた自然であるだけでなく、日本人の精神活動と深い関わりをもってきた。
世界文化遺産に登録してもらうための国の推薦が正式に決まったが、課題も多い。

登録の推薦が決まった翌日の26日、都留文科大(山梨県都留市)で、環境保全を訴えるNPO法人「グラウンドワーク三島」の事務局長でもある渡辺豊博教授の「富士山学」を聴講した。教室では、富士山周辺の異様な光景が次々とスクリーンに映し出され、気分がめいった。
森の中で層をなしているペンキ缶やドラム缶。古道を埋める建築廃材。道路に点々と捨てられた紙おむつ。餌と勘違いして黒いビニール袋をのみ込んだ白鳥……。

http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20120131ddlk22070288000c.html

富士山はいつかは噴火して現在の姿をとどめない日が来るであろう。
しかし、その時まではしっかり護っていくのが現存する日本人の責務であると思う。

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